モスキート

恵喜どうこ

(1)

 目の前に巨大な蚊がいた。身長百六十センチメートルあるわたしと同じくらいの大きさである。しっかりと二本の後ろ足で立った蚊は残った前足と中足をうまく使って、わたしの躰を抱え込んでいる。わたしをじっと見据える目はわたしの頭から頬あたりくらいの大きさがあり、卵のようなつるんとした小さな球体がびっしりと密集していた。それから、のこぎりのようにギザギザになった口器の先はわたしの胸の真ん中に深々と突き刺さっている。太い水道管の直径ぐらいはあるように見える口先に貫かれているにもかかわらず、不思議なくらい痛みがない。わたしの心臓を的確に捉えているというのに、だ。分泌される唾液に血を固まらせない成分が含まれていて、それが痛みの軽減を促す作用を持ち合わせているらしい。固まることない血液は太い管から、どんどんすすり上げられる。


――じゅる。じゅるる。じゅるうう。


 吸い上げられるたびにわたしの躰はビクンッ、ビクンッと痙攣した。黒い半透明な管を伝う赤い液体がしっかりと見える。吸いだされるごとにわたしの躰が干からびて、爪先からポロポロと粉雪のように皮膚がこぼれ落ちていた。

 人間の血を吸うのはメスの蚊だけである。卵巣を発達させるために吸血するというのだから、わたしの血を吸っているこの蚊はメスで、子を成すためにわたしを襲ったに違いない。七~八ミリメートルくらいの大きさの蚊であったなら、襲われたところで痒みが尾を引くくらいのもので、さほどの害を及ぼすことはなかっただろう。

 けれど、こうしてわたしと同じサイズになった場合はそんな悠長な考えではいられない。二百倍になったことで危険度も同じだけ跳ね上がっているのだ。それがわかったときにはすでに逃げることはできない状態だった。


 蚊はお腹いっぱいになるまで血を吸いつづける。二百倍になった蚊のお腹はどれくらいになれば満たされるのだろう。人の血は体重のおよそ八パーセント。五十キログラムの体重のわたしの血液の総量は約四リットル。全血液量の二十パーセント、わたしで言えば八百ミリリットル以上吸われれば、出血性のショック状態に陥る。そうなると臓器障害が起こる。体中に運ばれなければならない血液が他者に奪われてしまっているのだから、これは当然のことだろう。臓器の動きが加速度的に鈍り、機能低下していくのがわかる。それなのに、なぜこんなにも思考は、脳は、生き続けているのだろう。わたしの目は蚊を注意深く観察し、わたしの脳はこの異常な状況を冷静に分析し続けている。

 そうやって分析している間にも、腕がパリパリと枯れ枝のような音を立ててきしみ始めている。血液だけを吸い取っているだけでなく、リンパ液やら水分やらも一緒くたに吸収しているようだ。だからわたしの躰はミイラのように干からびていっているのだ。躰の温度が一度、また一度と下がっていく。ひどく寒い。管から漏れる血の匂いに嗅覚が支配されている。顔の筋肉も固まりはじめ、視線を下方へ流すだけで精いっぱいだ。


――ああ。


 水分を失ってからからになった喉から、濡れたため息がこぼれた。わたしのやせ細っていく躰とは対照的にメスの蚊の腹はぷっくりと大きく膨らんでいた。空気ポンプで風船をふくらませるみたいに、じわりじわりとおおきくなっているのだ。

 突如、膨れあがった腹をナイフで引き裂きたい衝動にかられた。きっとパチンと爆ぜるようにしてわたしの血液やらリンパ液やらが飛び出すだろう。それが干からびた躰を覆って、わたしは息を吹き返す。

 そんなふうに水分を失って委縮した脳は、まだ思考をやめない。枯れ果てた躰が、ふっくらと肥えて動きが鈍くなった蚊の腕から離れて地面に落ちる。ぽきぽきと孔だらけになった骨が砕けるように折れる。吸われずに生き残った右の眼球を、蚊は前足でえぐった。足先の体毛に引っかかった眼球が、視神経とともに外に引っ張り出される。複眼でわたしのそれをジロリと一瞥すると、興味が失せたと言いたげに首を傾げてから振り落とした。しょうを失い、視神経から切り離された眼球は地面にコロコロところげ落ちた。それでもわたしの目は蚊を見上げ、わたしの脳は分析を続ける。


 この蚊はどこで子を産むのだろう。その子供たちは誰の水分をよりどころに成虫になるのだろう。

 大きく膨らんだ腹を抱えて蚊が飛んでいく。ブウンという、あの不快な羽音が遠くなる。

 彼女の行先をじっと追いながら、わたしはいつか必ずあの腹を引き裂いて、吸い上げられたわたしを取り戻してやろうと誓った。

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