第14話 不穏
吐き出した煙が晴れたその先に、霧の森の王アンティクスは視線を投じる。
今はもう小さくなって、霧の向こうへと消えていった二つの背中と一つの小さな背中を見送ったその顔は、どこか晴れがましくも悩ましげである。
フゥ––––––と。
先程の喧騒がまるで全て嘘であったかのように、今は静寂に満ちた空間に気疲れしたような鼻息の音だけが響いた。
アンティクスは咥えた煙木を大きく吸うと、ゴフリゴフリと咳き込むようにその煙を吐き出す。
「皆、己の領域へと戻りました。父上もお体に障りまする。お早くお休み下さいませ」
「––––––フン、ア奴ラハ無事アノ街ニ辿リ着イタカ」
静寂の空間を切り裂くように。
一拍前には何もなかった空間に、ヴォルテスはそんな声と共に現れた。
目の前の息子にはあの愚かな子どもらを『あの街』へと送り届けるように言いつけてあった。その息子が今こうして目の前に現れたということは、あの子ども達は無事に『あの街』へと到着したということだろう。
「オ主ヲ付ケタノハ杞憂デアッタカ………。道スガラ、アレ(﹅﹅)ガナンゾシデカサヌカト案ジテオッタガ………」
「––––––ハ。我ら主神に歯向かうなど、あまりにも非合理。あの者共もそこまで愚かではない、ということでございましょう。念のため、上の娘を目付役として付けておりますが………それも要らぬ心配かと」
地に拳を着け、そう淡々と語る息子に、霧の森の王は深いため息を吐いた。
「ヴォルテス………貴様ハ我ガ子ノ中ニオイテ最モ忠厚ク、最モ我ガ意ヲ解ス子デハアルガ、イカンセン感情トイウモノニ対シテハ疎イノ」
「………?」
「元ヨリ非合理ナモノヨ––––––愛情トハナ」
––––––ソシテ、人間トイウ存在ハナ。
眉根を顰める息子に、霧の森の王は言外にそう告げて、咳き込みながら煙を吐き出す。
目を瞑り、思い出すのはつい先程、自分に向かって大言壮語を吐いた人間の姿。
その姿を思い出し、霧の森の王は口角を歪めた。
––––––ダガ、ソレ故ニ人間トハカクモ興味深イモノヨ。
◇◆◇◆◇◆
時は少し遡り、神域––––––『拝謁の間』。
「かかってこいよ、異世界」
哀澤慶次は拳を握り、そう高らかに宣言する。
無意識に声は上擦り、握りしめた拳は震え。
しかしそれでも尚、哀澤慶次は立ち向かう。
あるべき日常に帰るために––––––あの世界を、取り戻すために。
「フン、覚悟ハ決マッタヨウダナ」
慶次のその決意に呼応して、大猿は口の端に牙を覗かせる。
「––––––聞クガ良イ、我ガ子ラヨ」
パンッ、と膝を打って、大猿は牙を仕舞うと、周囲を見渡し声を上げた。
「今コノ瞬間ヨリ、コノ儂ノ名ノ下ニ、コノ人間ヲ我ガ子アルゲンノ戦士ト認メ、神前試合ヘノ出場資格ヲ与エル」
その言葉に、ザワリと空気が揺れる。
目の前には幾百の怪物達の、殺気に満ちた視線。
そんな視線を正面から受け止めて、慶次は口角を不敵に釣り上げ、そして––––––
(––––––やっべぇ〜っ勢いでなんか喧嘩売っちゃった〜っ)
内心、めちゃくちゃ後悔していた。
決して悟られないように振る舞ってはいるものの、不敵に釣り上げた口角は恐怖に震え、不遜な表情とは対照的に頬には脂汗が伝う。
(いやいや、無理無理無理。どう考えたってこんな奴ら勝てっこないだろ………。人型なら兎も角、どうやってこんな化け物共相手にしろってんだよ)
思いながら、慶次は己に突き刺さる殺意の視線の出所に意識を配る。
四つ目の巨大な虎に、四枚羽のカラスは品定めでもするかのように。
四本の腕の顔面に包帯を巻いた女は、まるで獲物でも見つけたかのように舌なめずりをして。
その隣の金髪エルフは、信じられないような面持ちでこちらに視線を向ける。
灰褐色の獣のような大男や半人半馬の一つ目の怪物は、どこか憐れむように。
体に鱗の生えた男は関心がないとばかりに頬杖をつき、そして––––––、
「––––––へぇ〜」
ぞわり、と肌が泡立つ。
悪寒などとはかけ離れた、粘っこくまとわりつくような、不気味な視線。
慶次が視線だけをそちらへ向ける、と、そこにいたのは巨大なムカデの上に腰掛ける、黒髪黒目の小柄な少女。
見た目十四、五ばかりのその少女から受ける印象は、圧倒的な『黒』。
体を包む黒いワンピースだとか、くるぶしまで伸びた艶やかな長い黒髪とか、そんな外見的特徴な特徴からではない。
一見すれば分かる––––––その性根の、その存在の、その魂の圧倒的黒さが。
両掌に顎を乗せてこちらに投じられる、臓腑が腐り尽くしたかのようなその視線。
その視線に、慶次は立ち竦む。
(––––––やばいッ)
(間違いなく、あれ(﹅﹅)がこの中で一番やばいッ)
異形の怪物達の中にあって、それでも。
その可憐な筈の少女の撒き散らす雰囲気は、異質であった。
少女は血を連想させる程真っ赤に染まった唇をゆっくりと開いて、小首を傾げる。
「いいじゃない。ワタシ好きヨ、アナタみたいな命知らず」
少女はそう言って、ふと腰掛けていた巨大なムカデの上から腰を上げる。
そして少女は裾をぱっぱっと払うと––––––、
「分を弁えず、身を顧みず、その命を賭して私達神に挑むなんて、なんて愚かで、滑稽で、痛々しくて––––––愛おしいのかしラ」
とん、と。
一瞬で、瞬きすら遅く。
少女は耳元でそう囁いた。
「嗚呼––––––全く、壊しちゃいたい」
蕩ける程に、溶けそうな程に艶のあるその声音に、慶次は反射的に距離を取る。
その声音に、その視線に込められた無邪気な悪意に、慶次の本能が体を動かした形になったが、その一拍後、距離を取った慶次の鼻先を掠めるように、バンダナの青年の長剣が少女に振われる。
ずばん、と。
顔面に迫る長剣を避ける素振りもなく、少女の顔面は呆気なく両断された。
「………っ」
その光景に、慶次は息を呑む。
いとも容易く幼い少女が殺されたことに––––––ではなく。
顔の上半分を両断されて、血も噴き出ることなく、倒れることもなくその場に立ったまま顔を綻ばせる少女に、慶次は息を呑む。
「––––––あは」
邪悪な。
その笑みは、ひたすらに邪悪に。
見る者全てを戦慄させる程の漆黒を笑みの中に覗かせて、少女は咲う。
ヴヴヴッ、と。
両断された顔の断面から幾百の蝿が飛び立ったかと思うと、少女の身体は無数の蠅の群体と化して、元いた巨大な百足の上へと舞い戻る。
「ひっど〜い。まだ何もしてないのに」
無数の蝿と散った少女の体はつま先からその肉体を再構成するように、夥しく悍ましい蝿がより集まり、白磁の如く艶やかで張りのある肌を再現し、麗しき少女の体を形作る。
醜悪で嫌悪感を覚える筈のその光景は、しかし何故だか、神秘的な美しさすら感じさせた。
だが、一瞬その光景に視線を奪われた慶次とは対照的に、金髪妖精は慶次の視線の前に飛びはだかると、唾棄するように言い放つ。
「こいつはお前のおもちゃじゃねえ。この俺様のだ、クソ女」
「ふふ、分かってるわよ。だけど––––––」
夥しい蠅によって醜悪に吊り上がった口元を形作りながら、少女は続けた。
「前のオモチャはもう––––––」言いながら形作られる二つの眼球が、蕩けるように細められる視線が、金髪妖精に注がれる「––––––壊れちゃったんだもノ」
「……………」
慶次からは、背中越しにしか金髪妖精の様子は窺い知れない。
だが間違いなく、その背中に滲むのは煮えたぎる憤怒の色であった。
それも、どろりとした怨念の籠った、粘度の高い憤怒。
ふと、その背中から生えた一対の半透明な羽が紫に染まり、模様が浮き出る。
模様は閉じた人間の瞼を思わせ、不意にぱちり、と。
その模様が開眼した。
同時、妖精の羽から黒く煌めく鱗粉のようなものが周囲へと広がり始める。
そして妖精は無言で手印を作り––––––少女は邪悪に破顔し。
「界(ひら)け––––––」
「––––––ヤメヨ」
妖精が唱えかけた『何か』を、大猿は制止した。
「王位ヘノ挑戦ヲ除キ、家族同士ノ殺シ合イハ禁忌。破レバドウナルカ、オ主ラ分カッテオロウナ」
言われ、両者は暫く視線を鍔迫り合う。
そして妖精は歯噛みしながらも手印を解いて、拳を握り締める。
「なぁ〜んだ。つまんない」
渋々ながらも引いた形となった妖精に、少女は笑いながら肩を竦めた。
しかし大猿は再度、警告するように声を発した。
「––––––ヨセト、言ッタ筈ダ」
「あら、おじいさまも失礼しちゃうワ。まだワタシは何も––––––」
が。
少女がそこまで言いかけると、バンダナの青年が、不意に長剣を慶次の足元の地面へと突き刺した。
何もない地面––––––しかし、突き刺したその先で「ギィイッ」と何かの断末魔が聞こえたかと思えば、唐突に地面は盛り上がり、そこから腕の太さはあろうかという大きさの百足の体が飛び出す。
ぐりっ、とバンダナの青年がその百足の頭部に突き刺した長剣を捻りこむと、百足の体は一瞬硬直したように伸び、そして、力無くその場に倒れ込んだ。
沈黙し、少女に向けられる、慶次とその他多くの視線。
「––––––してなかったのニ」
そんな視線を受けて、少女は悪びれもなくそう嘯く。
あまりにも可憐に首を傾げる少女に、慶次は言えようのない気持ち悪さを感じる。
それはまるで整合性のないような––––––形(からだ)に中身(たましい)が合っていないような、そんな気持ちの悪さ。
精緻な紋様の刻まれた高級なグラスに注ぎ込まれた泥水を見たかのような、そんな印象を、少女は抱かせた。
「………相方の手前こう言っちゃ何だが、あんたにとってこいつはさして価値のある存在じゃないと思うがな。それでもちょっかいをかけるのは、いつもの如く気まぐれか?」
バンダナの青年が鋒に付着した百足の体液を振るい落としながらそう問うと、黒髪の少女は心外とばかりに口元を両手で押さえて、大仰に傷付いた表情を造る。
「あら、嫌だワ。腐ってもワタシだって『蟲』の神の眷属ですもの。同じ蟲の『家族』が殺されたのだから、少しは八つ当たりしたっていいじゃなイ」
なんて。
顔を覆って泣く仕草を見せる少女に、バンダナの青年は呆れたように言葉を返す。
「隠せてないぞ、アバズレ––––––」微笑みながらも、底冷えするような声で「––––––それが家族を殺された奴の顔かよ」
青年はそう吐き捨てる。
少女は「––––––あは」と。
顔を覆った手を片方開くように、邪悪な笑みを露わにした。
「そうね、確かにアノ子は関係ないワ。第一、ワタシはアノ子のことを家族だなんて思ったこと、一度もないもの。だから、これはただただ、ワタシの個神的な好奇心」
少女は、隠されたもう片方の眼を指の間から覗かせる。
その隙間から覗くのは、既に露になった美しい少女の顔とは対照的な、醜く悪い、悍ましい蟲の如き形相。
「もうとっくに心が折れて諦めたと思っていたアナタが、もう一度この森の王位に挑むに至ったその理由––––––アナタがそんなに期待するその人間が何を為すのカ。そして、その期待を無惨に打ち砕かれた時のアナタの表情(かお)が」
––––––ワタシ、とても見てみたいノ。
少女は凄惨な表情で、そう答えた。
少女から澱み出る空気は、ムカデの如く肌の上を蠢き、慶次は向けられたその『目』に見入られ立ち竦み––––––ドンッ、と青年に胸元を叩かれる。
「––––––ヒュッ」
急に胸元を強く叩かれたことを疑問に思うまでもなく、そこで慶次は初めて、呼吸を忘れていたことに気付かされる。
酸欠状態の肺に新鮮な酸素が取り込まれ、視界が明瞭になる。
「言ったろうが––––––呑まれてんじゃねーぞ人間。この程度(﹅﹅﹅﹅﹅)でな」
バンダナの青年はそう言って、顎をしゃくって目の前を示す。
そこに鎮座する、そこに君臨する幾百の神を––––––その更に高みに座す巨大な猿の神を。
「てめえの相手は、こんなチンケな女じゃねえ。お前が喧嘩を売ったのは俺達霧の森の神の王––––––言うなれば、この世界そのものだ」
だから。
たかだか『神』如きにびびってんじゃねえ。
と、青年は言外にそう言い含めて、目の前を視線で示す。
目の前の––––––そのあまりに小さな背中に。
少女達神々の王に、真っ向から向かい合う小さなその背中に。
「いや、俺様も結局はお前と一緒さ、『腐敗の神』」
金髪の妖精は言う。
少女に向かって、相対する神々に向かって––––––そして、神の王に向かって。
「俺様はただの一度も、てめえらを家族だなんて思ったことはない。今この瞬間から、なんてことじゃあない。俺様は初めから、お前らの敵だ」
––––––そして。
お前らはずっと、この俺の打ち倒すべき敵だ。
あの時から。
金髪の妖精はそう拒絶するかのように視線を返す。
「フン。コノ反抗期メ」
言いながらも、大猿は口角を不敵に釣り上げ、咥えた木の枝を上機嫌に上下させ、膝を打って立ち上がる。
のっそりと地を揺らしながら、巨大なその身を起き上がらせて、大猿は極端に長い両手を広げて告げた。
「愉快。愉快。デアレバ挑ムガ良イ、コノ儂ニ。打チ倒シテミルガ良イ、コノ儂ヲ。ソシテ再ビ思イ知ルコトニナルデアロウ––––––神ノ王ガ、イカナモノデアルカヲ」
––––––タダシ。
そこまで言って、大猿は一層顔に刻んだ皺を深め、続けた。
「此度の神前試合ヘノ出場枠ハ、全十枠。ソノ内九枠ハ既ニ、我ガ子ラノ推薦スル戦士達デ埋マッテイル––––––故ニ、残ルハ一枠(﹅﹅﹅﹅﹅)」
やけに強調された大猿の言葉に、息を呑む音が聞こえた。
同時に、奥歯が軋む音も。
「ッ––––––テメエッ」
大猿の言葉に意味を最初に理解したのは、金髪の妖精。
彼は最も早く、大猿の言葉に込められたその意味を理解した。
その、あまりにも残酷な意味を。
その、あまりにも邪悪な思惑を。
「勝チ取ッテ見セヨ、ソノ枠ヲ。モギ取ッテ見セヨ、勝利ヲ。辿リ着イテ見セヨ、我ガ元マデ。カノ戦士達ノ屍ヲ超エテ」
ソノ先ニコソ、貴様ノ望ミハ叶ウデアロウ。
大猿はそう言い放つ。
ざわり、と空気が揺れる。
それは周囲の怪物達の溢すどよめきか。
ぞわり、と悪寒が走る。
それは周囲の怪物達が放つ殺気ゆえか。
しかし最も慶次の目線を引いたのは、他でもない。
目の前に浮かぶあまりにも小さな背中から滲んだ、熱気すら感じさせる程の憤怒である。
「届くぜ、俺は必ずお前の元まで」
そんで、と。
妖精は翻って、大猿に背を向ける。
「––––––そん時が、お前らの最期だ。霧の森の王」
俺は必ず、俺の拳を届かせる––––––と。
妖精は言って、通り過ぎざま、慶次の肩を叩く。
否、妖精が叩くのは、慶次の拳。
その––––––魂。
「フン、随分ト矮小ナ拳デハナイカ」
煽るように言う大猿に、妖精は振り向かない。
釣られ、慶次も妖精の後に続く。
バンダナの青年も笑いながら頭の後ろで腕を組んで、後に続く。
そして振り返らないまま、妖精は続けた。
「届かせるさ––––––」
妖精の背中にぶつけられる、万雷の嘲笑。
その嘲笑を背負って、妖精は進む。
最早引き返せぬ、とうに退路のない、茨の道へと。
「精々それまで君臨しておけ、旧き神々よ」
ターナー兄弟と霧の森の王 雨笠 篁 @amagasatakamura
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