第13話 そして哀澤慶次は拳を握る

 頭からかけられた水の冷たさに、慶次は目を覚ます。

 目を覚ました慶次の目の前にいたのは、呆れ顔のバンダナの青年。


「お、起きたか。ったく、せっかく繋げた腕、すぐに千切ってんじゃねーよ」

「………一体、何が––––––」


 未だ朦朧とする意識で、慶次はそう問いかけた。

 確か、最後に覚えているのは、目の前に迫った金髪エルフのブーツ。

 ズキリ、と、そこで頭に稲妻の如き痛みが走る。


 ––––––何が、起きた………。


 眼前にブーツが迫った。その記憶はある。

 だがその先の記憶がポッカリと抜け落ちている。

 その先を思い出そうとすると、脳裏に激しい痛みが走る。


「まさか、親父の蹴りを受けて生きてるとはな………。ま、そうでなきゃあいつがここまで連れてくることもねーか」


 言いながら、バンダナの青年は慶次にかけた水をゴクゴクと飲み干す。

 すると、青年の体に走った大小様々な生傷が、たちどころに癒えて消えていく。

 同時に慶次も全身に熱を感じ、千切れかけた両腕に目を落とすと、みるみるうちに骨が繋がり、肉が修復されていく。

 この水は––––––と、疑問に思うよりも先。

 慶次は金髪妖精の声で、意識を覚醒させた。


「そうだ。名を失い、神格を失った神といえど、こいつはこの森の神相手に戦い、そして勝ち残った!………よって俺はここにっ、この人間を俺様––––––霧の森の王『魔猿』アンティクスが末子、アルゲン・ミスティアの名の元に戦士と認めっ!来る神月、神前試合への出場を推薦するが如何かっ!」


 途端、膨れ上がる殺意。

 その膨大な殺意に当てられて慶次が体を起こすと、隣で青年が「あちゃー、言っちゃったよ」とばかりに肩を竦めていた。


「戦士が神前試合を勝ち抜いた場合、その戦士を推薦した神に与えられる権利––––––それこそは、王位への挑戦権﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅


 金髪妖精は慶次になど構わず、怪物達に宣言するように言った。

 その瞳は真っ直ぐに、頬杖をついた大猿に向けられて。


「––––––俺様は、霧の森の王位を賭けてお前に戦いを挑む。霧の森の王よっ」


 金髪妖精が言い終わるのと同時––––––幾百の視線が慶次に向けられた。

 とりわけ濃密な殺意の籠った視線が、慶次を刺し貫く。


「ふざけるなっ!そんなことの為に………そんなことの為にあのひとを………っ!」


 女は血涙を流しながら、悔しさに顔を伏せった。

 地面にはポタポタと赤い染みが広がり、出来上がった鏡面には牙を剥き食いしばった女の形相が映る。

 剥いた牙の間から漏れ出るのは呪詛か、はたまた言葉にならない怨念か。


 しかし大猿は、そんな女の様子など気にも留めずに、


「……フフフ––––––フハハハハハハハハハハ!」


笑った。

思わず、堪えきれぬといった風に。

 大猿は、高らかに、不敵に、笑った。

 そして周囲の怪物達もその笑いに釣られるように、口々に笑い声を漏らす。

 その笑いは地を揺らす程に、地鳴りを起こし、木々を揺らす。

 まるで、その様は森全体が笑っているかの如く。

 

 大猿はひとしきり笑って膝を一つ叩くと、途端に真顔になって金髪妖精に問うた。


「再ビ屍山血河ヲ築コウト言ウノカ––––––ソノ人間ト共ニ」


 問われ、金髪妖精はゆっくりと首を振る。


「いや………誰も死なねえさ」


 金髪妖精は一つ、小さく呼吸をすると、続けて言葉を放つ。


「今回死ぬのはお前だけだ––––––霧の森の王」


 それは誰の耳にも明確な、宣戦布告。

 事情も、状況も分からぬ慶次にも明らかな、世界への反逆。


 勝てるわけがない。

 誰が見ても、慶次の目からも、宣戦布告した金髪妖精と大猿との力の差は明白であった。

 しかし、慶次の目に映る小さな背中には、それを覆しうる何かを感じさせるのも、また事実だった。

 それは宣言された大猿も同じであるのか、応じるように牙を剥いて笑った。


「ヨカロウ––––––」


 ––––––いや………。

 ––––––いや待て!


 と、そこで慶次は我にかえる。

 マズイ。

 なんだか分からないが、今のこの流れは、非常にマズイ。

 今、自分の今後の運命が決定的なまでに––––––絶望的なまでに決定されようとしている。

 故に慶次は生唾を飲み込んで、舌をもつれさせながら叫んだ。


「っおい待て待て何勝手に話を進めてやがる!俺はそんなことに同意した覚えは––––––」

「––––––戻りたいんだろ。元いた世界に」


 だが言い切るよりも先に、金髪妖精が慶次の言葉を遮った。

 金髪妖精はゆっくりと慶次の方へ振り向いて、言った。


「約束だ、教えてやるよ。お前が元いた世界への、ただ唯一の戻り方」 


 振り向いた金髪妖精の目は据わり、先程と変わらない筈の軽薄な笑みから窺えるのは、そんな見せかけの表情とは対照的な、迸るような激情。

 怨嗟––––––いや、これは………。

 その激情の正体に慶次がたどり着くよりも先。

 金髪妖精は、背後の大猿を親指で指しながら、慶次へと告げた。


「俺様と一緒に、この猿野郎をぶち殺すことだ」


 この世界の神を、殺すこと。

 それが唯一の、ただ一つしかない、元の世界に帰る方法。

 金髪妖精はそう口にした。


「………っ!」


 提示された、その条件。

 その条件に、慶次は周囲を見渡す。

 こちらに向けられた、幾百の眼。

 そこには先程あったような嘲笑も、愉悦も、哀れみも、無関心も、値踏みも、憎悪もない。

 あったのは、一面の敵愾心。

 そして変わらず大猿から向けられる、見定めるような視線。

 それを全身に受けて、慶次は無意識に後ろに這い退る。


「いや、俺は………」

「––––––下ラヌ」


 たじろぎ、身じろぐ慶次のそんな姿に、大猿は失望したように吐き捨てた。

 興を削がれたとばかりに、前のめりになっていた体を背後の樹にもたれさせて、大猿は顔を顰める。


「己ガ運命ヲ変エル好機ガ目ノ前ニアルト言ウノニ、ソレニ手ヲ伸バサヌトハ………。ヤハリ貴様ノヨウナ者ガ我ガ孫––––––リヴェリウスヲ倒シタトハ信ジ難イ」


 そう言って、大猿は再び木の枝を咥え煙をふかし始める。

 沈黙を挟んで、大猿は慶次の姿を睥睨すると、少し考え込むような素振りを見せた。

しかし大猿が考え込んだのはその一瞬。

口の隙間から牙を覗かせて笑みを溢すと、やけに大仰に肩を竦めて言った。


「リヴェリウス––––––彼奴モ愚カナモノヨ。名ヲ失イ神ノ座ヨリ堕チタトハイエ、コノ程度ノ人間ニ遅レヲ取ルナド………一族ノ恥晒シメガ」

「––––––っ」


 ギリィッ、と。

 誰の耳にも聞こえるような、大きな歯軋りが響く。

 その音の出所は、女エルフに押さえつけられた蜂の怪神。

 と––––––もう一つ。


「––––––何故、貴様ガソノヨウナ眼ヲスル?人間」


 笑う様に細められた瞳が、慶次を映す。

 大猿が映すその姿には、先程のような怯えも、震えもない。

 そこにあったのは、強く静かな、煮えたぎる様な憤り。

 突然慶次から発せられたその怒気に、隣にいたバンダナの青年はギョッとしたような表情を見せた。

 

「………何笑ってんだよ。あんた」

「ウン?」

「家族が死んだってのに、何笑ってんだって言ってんだよ」


 王に向けられたその言葉に、ざわり、と周囲の怪物達がざわめく。

 一面の敵愾心が、一面の殺気へ。

 空気がざらつき、音のない雷の如く震える。


「………やっべぇ〜」


 一触即発––––––どころではない。

些細なきっかけ一つ。葉が落ちた、木の枝が折れた、誰かが咳払いをした、その程度の出来事一つで、周囲の怪物達は一斉に慶次に襲いかかる––––––そんな雰囲気を醸していた。

 バンダナの青年は頬に冷や汗を垂らしながら、ゆっくりと、剣の柄を握り締めた。

 何があろうと、即対応出来るように、中腰に構える。


(頼むから、これ以上何も言うなよ〜人間)


 その想いから、青年は慶次を遮るように前に出る。

 しかしそんな青年の想いも虚しく、慶次は立ち上がり、青年を押し除けるように前へ一歩踏み出した。

 諦めたように肩を竦める青年の前に出て、慶次は言った。


「あいつの最期も知らねえくせに、勝手なこと言ってんじゃねえよ………っ」


 それは––––––それだけは。

 誰にも、口を挟ませるわけにはいけない。

 自分と、あの神との最期の瞬間だけは、誰にも否定させてはならない。

それがボクサー哀澤慶次が名乗りを挙げた相手に対する、最低限の敬意である。

 命を賭け、命を燃やし、命を託された相手に対する、せめてもの。


 肌に刺さる殺気は最早質量を持って、慶次にのしかかる。

 先程押し潰されたプレッシャーより、さらに重く、粘りつくような圧力。


 手は震える。歯噛みは合わない。背に伝う汗の冷たさを誤魔化すことは出来ない。しかしそれでも、哀澤慶次は屈さない。

それだけは譲れない、慶次に残された唯一のプライドであるが故に。


 だが––––––。


「デアレバ返答ニハ気ヲツケヨ。我々ニトッテ今コノ場デノ貴様ノ価値ガ、奴ノ死ノ価値ダ」


 意外にも––––––拍子抜けなまでに。

 大猿はあっさりとそう言って、殺気を膨らませる周囲に手を振った。

 瞬時にとまでは言わないが、その手振り一つで慶次に向けられた殺気は弛緩する。

 

「証明セヨ、人間。貴様ガ、貴様自身ノ命デ、彼ノ者ノ価値ヲ」


 ホッと、背後で青年が安堵の混じったため息を吐くのを感じ取りながら、慶次はその場にへたり込みそうになるのを何とか堪えて、汗の伝う頬を拭った。

 なんて事はない。自分は今、試されたのだ。

 そして、どうやら自分の返答は不正解ではなかったであろうことも。


 紙一重––––––そして神一重に。

 自分はどうやら目の前の神が望む返答を返せたらしい。


 と。

 ぽん、と肩に何かが触れた。


 誰かが肩に手を置いたのかと慶次が振り向くと、そこにはいつの間にやら金髪妖精が腰を下ろし、こちらを見つめていた。

 そこには常に浮かべられてい底意地の悪い笑みはなく、細められた目の奥には燃え盛るような意志の力を感じさせて、妖精は慶次の肩を叩く。


「そうだ、アイザワケイジ。お前はあいつに、あの神に、名を託された最後の相手だろ」


 妖精はそう言って、顎をしゃくって慶次を前に向き直らせる。


「億すな––––––拳を握れ。仮にも、神殺しを成し遂げた英雄であるならば」


 そう言われても、慶次には何も分からない。

 何も。

 今のこの状況も、この現実も。

 何故こうなったのかも、どうなるのかすらも。

 そして、目の前の妖精が何者なのかも。

 ただ、唯一。


(––––––そなたとの我が生涯最期の闘争は、実に愉快であった)


 ただ唯一、真実と言えることは––––––


(我が名はリヴェリウス––––––リヴェリウス・ミスティア・インセクタル)


 あの神との––––––


(貴様の殺した神の名だ。ゆめ、忘れるでないぞ。神殺しの英雄よ)


 あの、痛々しいまでの熱い瞬間だけだろう。


「––––––この手を取れよ、アイザワケイジ。一緒に神をぶん殴ろうぜ」


 慶次は瞑目し拳を握りしめると、瞼の下に秘めた意志を炎のごとく瞳に纏わせて、肩に回された妖精の手を––––––その体ごと––––––振り払う。


「俺はお前の企みには付き合わねえ」


 妖精はふわりとその手を避けて、しかし慶次のその横顔を見て、満足げに口の端を持ち上げた。

 その背中に––––––その魂に宿った、燃え盛る意志の炎を見て。


「俺は俺の意思で、この世界に挑戦してやる」

 

 あの世界に、あの場所に、あの連中の元に。

 あの日常に、再び戻るために。

 哀澤慶次は拳を握る。


「ハッ、それでいいさ––––––今はな」


 そうして、一人と一柱は並び立つ。

 世界の不合理に、異世界の理不尽に抗うため。

 そして、各々の目的を果たさんとするために。


 一人の英雄と一柱の神は、霧の森の神々の前で高らかに宣言する。


「かかってこいよ、異世界」

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