第8話 何者か

 青年の、掻き切れそうな絶望の悲鳴が、周囲の木々の葉を揺らす。

 ざわざわと。

 それは、己の先が無いことを知ってしまった、慟哭。

 それは、自分の終わりが、何の意味も持たないことへの、悲嘆。

 その悲鳴は、葉々を揺らし、枝々を揺らし、木々を揺らした。


「終わりたくない、死にたくない、こんなことで、こんな最期でっ!私は––––––」


「––––––おい、待てよ」


 と。

 木々のざわめきが––––––止む。

 同時に、顔を覆って天を仰いでいた青年は、顔を覆ったまま、指の間から声のした方へと視線を向ける。


 否。

 視線を向けた、のではなく––––––向けさせられた、といった方が正しいだろう。

 それ程までに、濃密な存在感が、急にそこにあった。

 発生した––––––或いは、目覚めた。

 紛れもない、英雄の存在に。


「勝手に終わらせてんじゃねえよ。まだ、テンカウント経ってねぇだろうが」


 蘇る。

 迸る。

 あの時の感覚が、感触が、熱が。

 拳に宿り、肉体に満ちるこの感覚––––––。


「思い出したよ、俺が、一体なんだったのか」


 慶次は目を閉じて、全身を駆け巡るその感覚に再会を祝う。

 これぞ。

 この感覚こそ正にあの時の、あの舞台に立っていた時の、


「なんだ、貴様は……」


 と。

 そんな余韻に浸る慶次に、青年は至って平坦な声で問うた。

 否––––––声こそ務めて平坦なものではあったが、顔を覆う指の隙間から覗いたその見開かれた瞳こそ、青年の内心を表していた。


 なんだ、こいつは––––––と。

 誰だ、こいつは––––––と。


 いや、分かる。

 自分が目覚めた瞬間、目の前にいた人間だ。

 更に言えば、意識が曖昧な時に、自分がいたぶって弄んでいた人間だ。


 だが、あまりに違う。

 先程までとは、その存在感が、肉体から迸る魂の大きさが、あまりに。

 その変化は、到底同じ人間だとは信じられない程に。


「俺か?そうだな、俺は……」


 そして問われた慶次は一瞬その問いに考え込んで––––––最早考える必要すらなかったことを思い出し、笑う。

 その答えを、自分はようやく思い出したのだから。


「元WBC世界ライト級暫定……いや、肩書なんてどうでもいいか」


 首を振って、慶次は余計な装飾など必要ないと、ただ拳を握って、構えた。

 それこそが明確にして簡潔な、問いへの答え。


「哀澤慶次––––––ボクサーだ」


 名乗った途端、慶次の目の前に燃え盛る炎が現れた。

 それこそが、慶次の武器。

 先程まで全身を薄く覆っていた慶次の命の光––––––それが今、構えた拳に集約していた。

手斧とは異なる、事実己の一部、己の魂の宿った己の肉体そのものであるこの拳こそ、自分達ボクサーにとっての、最強の武器。


 そう、その光はまるで、グローブのような形をしていた。


「ぼく……さぁ?」


 自分に向かって拳を構えた慶次を前に、青年は首を傾げる。

 まるで、珍妙な生き物でも見るような目で。


「それが、貴様の名か?」


 尋ねられたその問いに、慶次も同じように首を傾げて、そして笑って答えた。


「いいや––––––ただの生き方さ」


 名前は、哀澤慶次の方だ。

 慶次はそう答えた。


「アイザワ……ケイジ……」


 アイザワケイジ––––––と反芻するように、青年は独言る。

 或いはそれは、味わうかのようだった。

 目の前の人間を、その価値を。

 その、魂を。

 そして向けられたその視線に、慶次はニンマリと口の端を釣り上げる。


「俺が矮小な人間かどうか、試してみろよ」


 全身から迸るその光は、慶次の纏う服を破いて、その下の肉体を露わにする。

 明らかにする。

 戦うために––––––拳を突き出すためだけに鍛え抜かれた、その歪な肉体を。


 異様に発達した広背筋。

 文字通り三角形に張り出した、異常な三角筋。

 打撃の一切を受け付けないような、重厚な腹筋。

 威風堂々たる、存在感のある大胸筋を。


 その身に積み重ねられた、哀澤慶次という男の生き様を。

 

「貴様は––––––」


 青年は言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 目の前の男は––––––このか弱き存在は、今己に向けて拳を構えている。

 ありったけの命を燃やして、己の積み重ねた人生全てを懸けて。

 そこに最早、言葉で飾ることほど無粋なことはあるまい。


 故に、青年も慶次に呼応するように、笑った。


「よかろう。貴様が、我が終わり足り得るのか––––––試してやろう」


 青年は左右四本の腕を広げ。

 ステンドグラスのようなその翅を立たせた。

 それが合図だった。


「いざ」


 青年が言うが早いか。

 慶次は青年の懐に潜り込むように、飛び込んだ。

 青年もまた、それを受け止めるように二本の腕を振り下ろした。


 交錯。

 そして––––––、


「ぐ––––––っ!」

「––––––ハッ」


 互いの振るった拳が当たったのは、ほぼ同時だった。


 否。

 正確には、青年の攻撃は慶次には当たっていない。

 しかし頬を掠めた青年の纏う光が、慶次の頬の肉をこそぎ落とす。


 慶次の拳は直撃した。

 しかし青年はその拳を受け止めて、笑う。

 ––––––こんなものか。

 ––––––いや、こんなものではないだろう?

 と、その瞳は語りかけるようだった。


 そして青年は、慶次の拳を顔面に受けたまま、追撃の一撃を慶次に繰り出す。


 もう二本の腕を振り下ろす。


 しかし青年の視界は一瞬にして、地面に迫った。


「––––––っ」


 反射的に、かくりと落ちた体を、青年は足を一歩踏み出して持ち直す。

 何が起きたか、瞬間には理解出来ない。

 目の前の人間に対し、腕を振り下ろした。だが気付けば、己の腕が掻いていたのはその人間ではなく、何もない空間。

 ではあの人間は一体どこに––––––と、青年が思考するよりも早く。

 首を垂れる形になった青年の顔面に対して、拳が振り抜かれた。


「ふっ––––––」


 背筋を利用して、翅を羽ばたかせて、息を吐いて、青年はその拳をはるか後方にのけぞる形で避ける。

 躱しきれなかったか、青年は鼻先に焼けるような熱さを感じた。


「ハッ––––––避けやがったか」


 そこに響く、慶次の笑い声。

 青年が視線をそちらに向けると、左の拳を高らかに突き上げた慶次の姿があった。

 その瞬間、青年は今の一瞬に起きたことを理解する。

 

 青年が追撃を放ったあの瞬間。

 慶次の拳は、青年の顔に突き出されたままだった。

 その時、青年の視界は慶次の拳に遮られたままで。


(––––––つまりあの一瞬)

(この人間は、私に死角を作り出し、そこに潜り込む形で突きを放った)

(その一撃で私の意識を刈り取り、頭が落ちた所に更なる一撃を振り上げた……と)


 言えば容易い。

 だが、それを実行することの難易度は、言葉程容易ではない。

 故に、青年はそれを成し遂げた慶次に、これ以上ない恍惚の笑みを浮かべた。


「良い––––––良いぞ、お前ッ」


 高揚。

 紅潮。

 そして、興奮。


 いただろうか。

 かつて、名を失うその前ですら、このような人間が果たしていただろうか。


 いいや、そんなことは最早どうでも良い。

 今はただ。

 ただ。


(この興奮に、浸っていたい––––––ッ)


◆◆◆◆◆◆


 思い出していた。

 慶次は、繰り出される拳のやり取りから、そこに伝わる感触から、自分自身が何であったのか––––––何を目指していたのかを思い出す。


 こうしていると、忘れていたことに今更ながらに気付く。


(ああ、俺はこうだった)

(これが、これこそが––––––)


 ただの、一競技だった。

 ただの、一選手だった

 階級は十七に細分化され、四つの団体が存在し、それも暫定の座であった。

 しかし間違いなく。

 間違いなく哀澤慶次は、その中で最強の証たる––––––チャンピオンの称号を手にした人間だった。


 中学3年の夏。 

 慶次はとある事件を起こし、逃げるように日本を去った。

 単身、知人のいた南米メキシコに渡り、そこで出会ったのが、ボクシング。

 そこで出会ったのが、『彼女』。

 そこで出会ったのが、『あの人』。


 十四から十八歳になるまでの四年間、慶次はそこでボクシングを学び、身につけ、拳を磨き上げた。 

 世界最強に、その拳が届く程までに。

 最後の試合の敗戦を機に日本に戻り、一高校生に戻った慶次であったが、


 しかし確かに。

 確かに、ほんの一瞬の間であろうと。

 慶次は、世界最強の座を掴んだのだ。

 その拳で。


 拳に生きる––––––それこそが、自分であった。


(まるで生き返った気分だ––––––いや)

(まだ自分が生きていることに、ようやく気がついたよ)


 生の実感。

 それが、魂を浸していく。


 血飛沫が飛ぶ。

 肉が削り取られていく。

 そんな、死へと間違いなく近づいている最中であるというのに、慶次の胸中にあったのは、ただ唯一、愉悦であった。

 

 拳を突き出す。

 躱され、鉤爪が振り下ろされる。

 躱す––––––しかし、肩の肉が削げ、空中に血飛沫が舞う。


 拳を突き出す。

 当たる。

 しかし青年には効かず、鉤爪で抉られる。


 拳を突き出す。

 空を切る。

 振り下ろされた鉤爪を大きく後ろに退いて避ける。


 体勢を崩したところを追撃される。

 狙い通り。

 前のめりに足を踏み出した青年に対し、拳を振り上げる。


 カウンターのアッパーカット。

 青年の顎先を捉える。

 カクン、と、青年の膝が落ちる。

 

 目線が、合った。


「––––––ふっ」

「ハッ––––––」


 青年と慶次は互いに、咲った。

 これ以上ない。

 互いを、これ以上ない相手と認め合ったが故の––––––笑み。


 互いを、今生最後の好敵手と認め合ったが故。

 互いを、生涯最高の好敵手と理解しているが故。


 それ故の––––––咲いだった。


 幾許の時を過ごしただろうか。

 幾百の拳を交わしただろうか。


 時間にすれば、それは瞬きにも等しい束の間の幸福。

 しかし彼らにとってそれは、永劫にも等しい愉悦の時であった。


 片や、かつての己を取り戻した、元世界最強。

 片や、かつての己を取り戻した、異世界の神。


 その勝敗は、意外な程にあっさりと決まりがついた。


 青年が掲げた、鉤爪。

 空を両断するかのように振り下ろされたその鉤爪は、慶次の半身を裂いた。

 防ごうと前に突き出した左腕ごと、両断した。


(取った––––––っ)


 と、青年の脳裏に勝利の文字が浮かんだ、その次瞬。


 両断した左腕の向こうから、

 宙に舞った左腕のその死角から、


 炎の如く真っ赤な光を纏った、慶次の右の拳が突き出された。


 全くの死角。

 全くの意識の範囲外からのその拳を、青年は避けようと翅を震わせて––––––


 ––––––ふっ、と。


 微かに笑って、両腕を開いた。

 それはまるで、愛しいものを受け止めるかのようにして。


 そして––––––愛が爆発した。

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