第9話 決着


「––––––アイザワ……ケイジと、言ったか……」


 遠くで、青年の声が聞こえた。

 掠れる声で、自分の名前を呼んでいた。

 その声が、上から聞こえているのか、下から聞こえているのかも分からなかったが。

 それでも慶次は満足気に、口角を持ち上げた。


「………ああ、覚えたかよ」


 自分の拳は、果たして届いたのか否か。

 そんなことは、もうどうでも良かった。


 ただ、出し切れた。


 こんな、どこかも分からない場所で、誰かも分からない相手に。

 皮肉なものだと、今更ながら思う。

 かつて、自分は死んだように生きていた。

 あの世界で、自分は、死に続けていた。

 目的もなく、未練もなく、当て所もなく。


 いつも、誰かの生を羨んで、いつも、誰かの生が羨ましかった。

 あの二人が––––––あの生者の輝きが、眩しくて、羨ましくて、憧がれていた。

 彼らの背中を、いつもずっと後ろから眺めるだけだった。


 しかしどうだ、今自分は、これ以上ないくらいに生きているではないか。

 これまでになく、生きてみたではないか。

 彼らのように、やれたではないか。


 だから、満足だ。

 これ以上なく、満足だった。


 例えここで敗れ、命を失う結果となったとしても。

 この相手に、この世界に、確かに自分は、生きた証を残せたのだから。


 ––––––よお、主人公(ヒーロー)共。

 ––––––俺もやってみたぜ。どうよ、これで俺も……。


 霞む視界の向こうにいつかの二人の顔を見ながら、慶次は満足に、殊更満足に笑って、意識を手放した。

ずるり––––––と、膝が落ちる。


「フッ、ああ。貴様の拳、貴様の生き様。しかと––––––」


 青年も応じるように笑って、

 笑って––––––ゴポリ、と。

 血の塊を口から溢した。


「しかと––––––この身に刻み込んだ」


 ガクン、と、腕を引かれたような感覚に、薄れかけた慶次の意識は皮一枚繋がる。

 倒れ込んだ慶次の体は、地面への途中で落下を阻まれていた。


 青年の胴体を貫いた、己の右腕に支えられることで。


「そうか……届いてたか」


 ほのかに感じる拳の感触が、それを現実と伝えてくる。

 直後、慶次の拳が貫いた青年の胴体が、ボロリと砂のように崩れ、支えを失った慶次は後ろに倒れ込む。

 低くなった視界が、ぽっかりと穴の空いた青年の胴体の向こう側の景色を映した。

 胴に空いたその穴は自壊し、徐々に向こうに見える景色を広げていく。

 青年は腹に空いた穴に手を触れ、触れた先から指先が崩れ落ちる。

 そうして崩れゆく己の掌を、青年は目を細めて見つめていた。

 それはなぜだか、どこか満たされたかのような表情で。


「……死ぬのか、あんた」


 その顔には、覚えがある。

 遠い遠い昔、どこかで見た男の顔と、よく似ていた。

 鏡の前で見た、男の顔と。


「何故、貴様がそのような顔をする?アイザワケイジ」


 そんなこちらの表情を見て、青年は微笑みと共にそう問う。


「……死にたくなくて、泣いてたんじゃないのか?あんた」

「我が嘆きは、望まぬ終わりに対するもの。誇りなき結末に対してのもの」


 複眼を柔く細め、青年は空を仰ぎ見た。

 かつて己が自由に飛び回っていたその空は、今は遥か遠く。

 飛ぶための翅すら、パリパリと音を立てて砕けていく。

 

「我ら蟲の眷属にとって、死は魂の一つの形に過ぎない。魂はまた形を変え、この森の命の循環に還るだけのこと」


 しかし己は、最期にあの空よりも高い場所へ飛べたのだ。

 それができたのは、間違いなく––––––、


「そなたとの我が生涯最期の闘争は、実に愉快であった」


 礼を言う、アイザワケイジ。


 と、青年は地面に横たわる勇敢なる挑戦者に感謝を述べる。

 全身をズタズタに切り裂かれ、周囲に夥しい量の血を撒き散らし、己の武器である拳の一つまでも差し出して。

 それでもこの男は、この自分から『勝利』をもぎ取ってみせた。

 ––––––見事だ。

 ––––––実に、見事であった。

 ボロボロと、端から肉体が崩れていく。

 しかし今や、こうして朽ちゆく己が誇らしくも思える。

 ––––––よもや、戦いの中で終われるとは。


「………へっ………俺も楽しかったぜ」


 慶次は地面に横たわりながら、朦朧とする目を青年へと向ける。

 霞む視界は、青年の姿を明瞭には映してはくれない。

 しかし徐々に縮んでいくその輪郭だけは、霞む視界で把握できた。


「せめて……あんたの名前も知りたかったんだがな」

 

 言って、慶次はゆっくりと目を閉ざす。


 贅沢を言うなら。

 我儘を言うなら。

 望みを言えるなら。

 自分の全てをぶつけられた、この青年の名と共に果てたかった。

 自分の名だけ持たせて、この青年を終わらせたくなかった。


 ––––––すまない。


 こんなにも楽しかったというのに。

 こんなにも満ち足りたというのに。


 ––––––お前と共に死ぬことのできない俺を、許してくれ。


 そんな、慶次の最期の悔恨。

 声にもならないそんな悔恨に、青年は首を振った。


「………いや、思い出した」


 そう言って、青年は告げる。

 青年は––––––この世界の神は。

 かつて讃えられし己が名を、生涯最期の好敵手へと刻み込む。


「我が名はリヴェリウス––––––リヴェリウス・ミスティア・インセクタル。貴様の殺した神の名だ。ゆめ、忘れるでないぞ。神殺しの英雄よ」


 青年は––––––霧の森の神、リヴェリウスはそう告げて、霧のようにその体を霧散させた。

 己が生まれ出た霧に還るように。

 

 何も無くなった、その空間。

 それを見送って、慶次はゆっくりと瞳を閉じた。


 ––––––忘れねえよ、カミ様。


 と。

 慶次がそう、意識を手放す寸前。


「ギャハハハハハハッ」


 哄笑が、慶次の眠りを妨げる。


「まぁ、そこそこ楽しめたぜ、ニンゲン」


 微かに開けた瞳の先に、小さな足が二つ見えた。

 そんな慶次の瞳を覗き込むように、その妖精は底意地の悪い笑みを向けて言った。


「もう少しばかし、俺様を楽しませてもらうぜ」


 なあ、アイザワケイジ。

 と、慶次の意識が無くなるその瞬間まで。

 その哄笑は森の中を木霊していた。

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