第2話 俺が主人公

 割れた地面から飛び散った破片が頬を裂き、一筋の傷から血が滲み落ちるよりも前に、慶次はその場から一目散に逃げ去った。

 状況判断をする間も惜しみ、ただ背中を向けて、地面から迫り出した木の根っこの間に飛び込んだ。

 そのまま振り返ることなく、慶次はひたすらに、がむしゃらに遁走する。


「くそっ!くそっ!くそ!なんなんだっ––––なんなんだありゃぁっ!」


 全身からは止めどなく脂汗が噴き出る。

 動悸は速く、目まぐるしく回転する脳内はこんがらがって、まともな整理など出来やしない。

 今はただ、ただ、ただ。

 この場からいち早く距離を取らねば。

 垂れ下がる蔦をかき分け、細い木の根をへし折りながら、先へ先へと進み、ようやく開けた場所に出ようと、目の前の木の枝に手を伸ばして––––––ぞわりと手の平に走る悪寒。

 全身の動きがぴたりと止まって、慶次はゆっくりと、視線を上に向けた。

 

『ギンヤンマ』––––––蜻蛉目ヤンマ科ギンヤンマ属に分類される蜻蛉。日本を始め、その亜種は東アジア全般に分布し、通常は田んぼや池などの淡水域に生息する。蜻蛉としては大型で、頭部から胸部にかけてを鮮やかな黄緑色、黄褐色の腹部に、長い翅を持つ。そして飛行能力を持つ数多の虫の中においても、極めて高い飛行能力を誇る––––––以上が、一般的に知られるギンヤンマの特長である。


 しかし今慶次の目の前にいるのは、そのような一般的な括りからは、大きく逸脱する姿をしていた。


 ギンヤンマの怪人––––––それは、そう形容するほかない姿をしていた。


 昆虫の身体を強引に人型に寄せたような、無理矢理二足で立たせたかの如き、冒涜的なフォルム。

 しかし、人型というにはあまりにもそれは『虫』過ぎた。

 背中には一枚一枚が慶次の身体よりも大きく、半透明の羽が四枚生え、胸部からぶら下がるように垂れた四本の前脚は枯れ木のように細く、二股に分かれた鋭利な鉤爪が、その先端に怪しく光っている。


 ああ、きっとこんな鉤爪で引っ掻かれでもしたら、かつて顎で指先を噛まれたことなんか比じゃないくらい痛いんだろうなあ––––––なんて。


 ふと、場違いにもそんなことを思った。

 その鉤爪が当然のように、慶次が掴んだ怪人の脚の先にもついており。


「ぅぅ、、あ……ぁ」


 足先の鉤爪が、かちりと揺れて–––––、

 咄嗟に手を離した、次の瞬間。

ギンヤンマの怪人は慶次の体を掴むと、一瞬で空高く飛び上がった。


「あっ––––あああああああああぁっ!?」

 

 急激な浮遊感、そして振り回されながら空中を高速で移動したことにより、慶次の意識は一時的にブラックアウトを起こし、しかしすぐに体に深く食い込んだ鉤爪によって意識を覚醒させる。


「くっ––––––そっ」


 鉤爪から抜け出そうにも、体をよじればそれだけ鉤爪が食い込んで傷口から血が滴る。

 更には空中の踏ん張りの効かない体勢では、強引に鉤爪をこじ開けることも叶わない。

 それに仮に鉤爪から抜け出したところで、地面から離れたこの状況では、それすらも自殺行為である。


 ––––––まずいっ。

 ––––––このままじゃ、やばいっ。


 と、まさに絶体絶命の窮地に追いやられたその時。


「はっはっ–––––あ!ようやく見つけたぞトンボ野郎っ!」


 場にそぐわぬ快活な哄笑と共に、それは視界に現れた。

 突然の声に視線を向けた慶次が一瞬捉えたものは、鈍く光る、二振りの剣。

 そして––––いやにギラギラと光る、紫色の瞳。

 慶次がその二つを視界に捉えると同時。

 木々の影から飛び出したそれは、慶次を抱えた怪人と交錯し、そして––––、


『ギグィッッ!』


 すれ違いざまに全身を切り刻まれた怪人は悲鳴を上げて、抱えていた慶次を放して地面へと落下する。

 当然それは、空中で突然放された同じことが言え、

「あっ––––––?」

 支えを失った慶次はそのまま地面へと自由落下するも、傾斜のついた大樹の幹が滑り台のように落下の衝撃を打ち消し、接地する時に体を転がすことで、辛うじて致命傷になることは避けた。


 しかしそれでも完全に無事というわけにはいかず、体の各所に激痛が走りながらも、慶次は油断なく周囲を見渡して状況を把握する。


『ギギィッ!ギギイイッッ!』


 そしてすぐにその視線は、自分と離れた場所に落ちた怪人へと止まる。

 怪人はけたたましい程に断末魔の如き悲鳴をあげ、地面の上をもんどり打っていた。

 その周りには切り刻まれ切断された翅や手足が散乱し、怪人は先ほどの歪な容姿からはかけ離れた、芋虫の如きフォルムに整えられていた。


「さーて、もう逃さねえぞトンボ野郎」

「手間取らせやがって、てめーも蟲の眷属ならいい加減大人しく土に還りやがれ」


 慶次が目の前の光景に呆気に取られていると、ふとそんな二つの声が上から降りてくる。

 だんっ、と危なげなくその声の主は怪人を挟んだ慶次の向かい側に着地する。

 否、それは半分正確ではない。


 頭上の木の枝から降りてきた声は二つ。そのうち片方は、紛れもなく慶次の目の前に着地した人影のもの。しかしもう一方の声の主は、その人影のように降りてくることはなかった。

 もう一つの声の主は、地面に降りてくることはなく、先に降り立った人影の頭の真横–––––そこでピタリと静止していた。

 背中に生えた二枚の羽をパタパタと動かして、中空であぐらをかくようにして。

 その姿は、有体に言ってしまえば、童話の中の妖精そのもの。

 半透明に透き通った金色の体毛に、ツンとつりあがった鼻。掌ほどの大きさの体には何も纏っておらず、背中から生えた羽からは羽ばたく度に光の粒子が溢れている。中性的な幼い顔は造形物のように美しく、しかし邪悪なまでに口を歪めた笑みが、その印象を打ち消していた。


 そしてその隣に立つ男こそ、先ほど怪人を切り刻んだ張本人。

 背はおそらく慶次と同程度。衣服も、灰色の作業着のようなシンプルなデザインに身を包んでいることから、森という状況も相まってさながら林業に従事する職人のような印象さえ受ける。しかしそのような印象を塗りつぶして余りあるのは、目深に頭に巻かれた民族的意匠のバンダナと、両手に持った鍔のない長大な剣の存在である。

 そんな、一見するとチグハグな組み合わせの両者であったが、唯一の共通点は爛々と怪しく光る、紫色の瞳。


 その四つの瞳が––––ふと、慶次を捉えた。

「あん?なんでここに人間がいるんだよ」


 邪悪な笑みの妖精が、キョトンとした顔で首ごと体を傾ける。

 ビー玉のように透き通った紫色の瞳が、慶次と未だに地面でもがき続ける怪人とを往復して、得心いったように細められた。


「ははーん?さてはお前こいつの餌にされるとこだったか?こりゃ正に間一髪ってやつなんじゃねーの。よかったなお前、どこの街の奴か知んねーが、このトンボ野郎始末したら街まで送り返してやんよ––––」 

「待て、アルゲン」


 と。


 金髪の妖精がそこまで言いかけたところで、隣にいたバンダナの青年が手のひらを妖精の顔の前に差し出して、その先を遮った。

 残るもう片方の手に握った剣を、ゆっくりと握り直して。


「––––そいつ、森の匂いがしねえ」

「あ?」


 青年の言葉に、金髪の妖精の方は一瞬訝しげな表情をして、スンスンと小鼻を動かしてから––––––途端、突き刺すような殺気を視線に込めた。


「おいてめえ………外界の人間か」


 先程までの邪悪ではあったもののどこか親しみを感じさせる表情とは打って変わって、金髪の妖精は無表情に無感情に、慶次を眼差す。


「い、いや俺は–––––」


 その突き刺すような視線を向けられて、慶次は弁明の言葉を口にしようとして、舌が絡んで口ごもる。

 慶次とてこれまで生半ではない人生を歩んできたつもりではある。中にはおよそ日本で生きていく上では巡り合わないほどの修羅場を経験したこともある。事実その中で死にかけたこともあれば、犯罪まがいのことに手を染めたことも一度や二度ではない。

 しかし今自分が置かれている状況は、そんなものなどまるで比にはならなかった。

 妖精と二刀流のバンダナの剣士というファンタジーな存在に明確な殺気を向けられるなどと、誰が想像できようか。

 このあまりに特異な状況が、慶次に冷静な思考を忘れさせていた。


「こういう場合、どうすんだっけか」

「バーカお前、そんなん––––即処理に決まってんだろ」


 一方のファンタジーな存在達は、そんな慶次とは対照的なまでに冷静に、冷淡に互いに言葉を交わす。

 問いかけに金髪の妖精が答えると共に、バンダナの青年が持った剣がゆらりと揺れる。

 怪しく煌めく刀身に映る自分の恐怖に引き攣った表情を見て、ようやく慶次は叫ぶように言葉を発した。


「待てっ–––––待て待て待てっ!何を勝手に物騒なこと始めようとしてんだあんたらっ!説明も無しに殺されてたまるかよ!」

「あーん?何を惚けたこと言ってんだてめえ。人様のウチに勝手に上がり込んでる奴なんぞ十中八九泥棒かゴキブリって相場が決まってんだよ。……つまりどちらにせよ、常識的に考えてぶち殺して構わねえってこった」

「構うよ構うだろっ。どこの世界の常識だよそれはっ!」


 叫びながら、慶次は自分の言葉に違和感を覚えた。

 今、自分はなんと言ったか。


 常識––––いや違う。

 世界?––––そう、世界だ!


 途端、慶次の脳内でこれまで感じていた疑問、仮説、そして自分の目の前に存在するファンタジーの住人が、全て一つの線で繋がった。

 それは、仮説として常に脳裏の片隅にはあったが、自分自身であまりにも馬鹿馬鹿しく、荒唐無稽な結論だとして切り捨ててきたもの。

 見知らぬ場所。見知らぬ植物。見知らぬ怪物。見知らぬ妖精。

 それら全てを説明しうる結論。

 それは、かつて子供の頃に夢想した、ここではないどこか。

 決して存在しない筈の、もう一つの世界。


「異世界––––そうだ、異世界だ……」

「あん?」


 突然俯き、ブツブツと独りごちる慶次に、金髪の妖精は怪訝な視線を向ける。

 しかし結論に至れども、あまりに受け入れ難いその事実に、最早向けられる視線など気に留める余裕すら無くなった慶次はよろりとよろめいて、背後にあった木の幹に凭れ、顔を手で覆った。


 異世界転移。


 言ってしまえば、あまりに陳腐で、ありきたりな言葉である。

 それこそ、言葉や概念だけならば常日頃入り浸っていた––––押しかけていた–––篝の部屋にあった本棚には、そのようなタイトルの小説や漫画が並べられていたし、古くからある日本の神話や言い伝えなどにも類似した内容は多々あるため知識として知っている。

 そのため以外にもすんなりと、慶次は自身の置かれた現状を理解した。

 現状を理解して––––しかしそれ故に、受け入れられない。

 こんな馬鹿げたことがあるものか。

 誰しもが一度は物語の登場人物になりたいと思うだろう。

 しかし心の底から願うことはない。

 それは皆知っているからだ。

 夢見るが故に、妄想するが故に、そうした物語の主人公達の悲惨な運命を、過酷な人生を。

 そして皆、知りたくないからだ。

 仮に自分が同じ立場に立たされることを思えば、彼ら主人公のような英雄的行動をとる事が出来ない自分自身の平凡さに。ともすれば、自分自身の命のためには自己犠牲どころか彼ら主人公と反目する選択すら選びかねない、狭量な自分の器を。

 結局、皆物語の登場人物を演じたくとも、いざ舞台に立たされれば、自分がそのような役者でないことを突きつけられる。

 だからこそ皆、凡庸な人生に甘んじるのだ。

 だからこそ皆、初めから英雄など目指さないのだ。

 だがこれは––––この状況は、そのような甘えを一切許さない。

 唐突に突きつけられた、登場人物の座。


「……ふざけんなよ、そんなんあいつらの役目じゃねーか」

「おいてめえ、さっきから何一人でブツブツ言ってやがる。気でも狂ったか」

「なあ––––あんた」


 バンダナの青年の言葉に被せるように、慶次は目の前の彼らに、言葉を投げかける。

 未だに理解の追いつかない頭で、ゆっくりと、震える声で。


「俺は、国どころか世界も違うあんたとこうして言葉が交わせてることも、なんでなのか分かんねえ……。だから教えてくれ––––ここは一体、どこなんだ」


 最後は最早、笑みすら溢れて。

 そんな疑問をぶつけられたバンダナの青年は、怪訝に顔を顰め、頭を傾げた。

 それは言うならば、なぜ人間は死ぬのかと言うような、根源的な問いを子供に突きつけられた大人のような面持ちで。


「どこってお前……まさかここがどこか知らねえでここまで入り込んだなんて言わねえだろうな。ここは霧の森––––俺ら魔猿の血脈たる霧の神が治める、人間の立ち入っちゃなんねえ神域だ。ま、例え知らずに足を踏み入れたとしても、どのみちここまで入り込まれたんじゃ、てめえを生かして帰す選択肢はどこにも––––」

「おい待て……今、何て言った」


 剣呑な視線に剣呑な言葉を並べる青年を横から押しのけるようにして––––実際は押しのけようとして頬を突いた程度だったが––––金髪の妖精は、慶次の言葉に目を見開いて聞き返した。


「世界が違う?て、お前まさか––––」


 途中まで言って、金髪の妖精は突然何かに気が付いたように、自分の親指と人差し指で作った円を右目に押し当てる。

 すると円の向こう側に光る紫色の瞳が、事実光を放って、慶次を眼差す。

 そして、妖精は慶次の中の『何か』を視て、愕然と指で作った円を解く。


「冗談だろ………お前、あっちの世界の–––––」


 と。

 愕然とした表情で、金髪の妖精が何かを呟こうとした、その瞬間。

 

『ギイイイイイィィィイイイイイッ!』


 耳をつん裂くほどの、極大の叫び。

 空気が震え、地面が揺れ、頬を伝う汗が弾ける。

「––––––ッなんだ⁉︎」

「チッ––––!」

「しまったっ!」


 その叫びの発生源に視線を向けたのは、三者ほぼ同時だった。

 否、それに対応できたのは、明らかに慶次を除く二者が先んじていた。実際慶次がそちらに視線を向けた際には、既にバンダナの青年は両手に持った剣を振り上げていたし、金髪の妖精は青年の後ろで何やら呪文のようなものを詠唱し始めていた。

 慶次が出来たのは、ただそんな二者の動きを目で追うのみ。

 だからこそと言うべきか、その場で何が起きていたかを明確に観測することが出来ていたのは、慶次であった。


 ––––なんだっ、あれはっ!


 慶次の視線の先にあったもの。

 それは、先ほどまで地面の上で踠いていたトンボの怪人––––四肢を切断された筈のそのトンボの怪人が、全身からドス黒いまとわりつくような光を迸らせながら、中空に浮かんでいる姿だった。

 そして、変異は突然起きた。


『ギギギギギギギギギギギギギギギギギギ』


 中空に浮かび静止したトンボの怪人が、そんな奇声を発しながら、身悶え、痙攣したかと思うと、ボコボコと体の内側から泡のようなものを噴き出し、蠢き、それはやがて怪人の失った四肢の形に形成される。

 さながらそれは逆再生の如く。

 巻き戻り、再生され、怪人は地面へと着地する。そして––––、


『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!』


 怪人は体を仰け反らせ、叫ぶ。

 怪獣の咆哮の如きその叫びは爆風となって、慶次達を遥か後方へと吹き飛ばした。


「が––––あ––––あ––––あッ!」


 粉塵を巻き上げ、慶次はもみくちゃになりながら背後の大樹の幹に激突し、血反吐を吐いた。しかしすぐさま痛む背中を押さえながら立ち上がり、土煙立ち上る視界のその先に、目を凝らす。


「クソッ、どうなってんだ一ッ––––体………」


 悪態を吐きながら見据えたその視線の先。

 そこに位置していたのは、先程までとはまるで異形の、トンボの怪人だった。

 外骨格は全面に血管のようなものが脈打ち、六本の手足にはそれぞれ鋭利な棘が突き出し、体躯も一回りは巨大になろうかという––––つまり、先ほどまでよりも更に凶悪な容貌になった怪人が、そこにはいた。


「うっわ、やっちまったぁ〜」

「やられたな、あの姿……チッ、瓶の水を飲みやがったか」


 そこに落ちてくる二つの声。

 慶次が顔を上げると、いつの間にやら地面から遥か離れた頭上の樹の上に移動していた青年と妖精が、心底気怠そうな顔でこちらに視線を投じていた。

 と、その内妖精の視線が慶次の顔の上で止まり、ニンマリと、醜悪にその口が歪められた。


 ふと慶次は、その醜悪な笑みに悪寒を感じ、ブルリと、背筋が震える。

 悪寒の正体を慶次が理解する前に、妖精はどこからか取り出した小石のようなものをポイ、と何気なく地表で見上げる慶次に放った。

 あまりに突然のことに、慶次はその小石を払い除けられず、コツン、と額にぶつかった小石は呆気なく粉々に砕け散り、粉塵の如く細かくなった欠片が全身に降りかかる。


「うわっ––––ぺっぺっ、クソッ何しやがる!」


 口に入った粉を吐き出しながら、慶次がそう怒声を上げようとして––––本能的に、慶次はその場から距離を取った。

 次瞬、つい今し方まで慶次が背にしていた大樹の幹に食い込む、巨大で鋭利な怪人の鍵爪。


『ギリリリリリッ』


 獲物を捉え損ねた怪人は、何故不意をついた自分の一撃を避けられたのか不思議なようで、巨大な複眼を二つ付けた頭をギュルンと半回転させ、尻餅をついた慶次に視線を向けた。


『ギギギギギギギギアアアアアアアアアアッ』


 そして、獲物を再び視線に捉えた怪人は、獰猛さを隠そうともしない叫び声を上げて、続く追撃を慶次に加えようと鍵爪を振り上げ––––


「ひっ、いいぃッ」


 ––––––ようとして、木の幹に深く食い込んだ鍵爪が抜けずに、怪人の追撃は慶次の目の前の空を切り裂いた。

 雄叫びを上げながらも、深々と刺さった鉤爪が抜けずにいる怪人から這いずるように距離を取り、慶次は浅く息を吐きながら頭上で一部始終を見下ろしている妖精達に声を張り上げる。


「おいテメエッ!俺に一体何しやがった!」


 すると、妖精は悪びれる様子もなく、軽薄に笑いながら言った。

「ヘッヘッヘ。なーに、多少味付けしてやったのさ。そこにいるトンボ野郎に美味そうに見えるようにな」

「はっ!?なっ––––テメェふっざけんな!」

「お前、あっちの世界の人間なんだろ」


 慶次の怒声を遮るように、妖精はそう問うた。

 否、それは問いかけと言うよりは寧ろ、単なる確認と言った方が近いニュアンスだった。

 故に、妖精は慶次の返答を待たずに続けた。


「知りてえか?元の世界への戻り方」

「––––––ッ!」


 間。


 それはまるで、難解な数式の答えを考えるよりも前に眼前に提示されたかの如き、瞬きの思考停止。

 しかしすぐに目の前の答えの意味を理解し、慶次は唇を震わせながら口を開く。


「……知ってんのか、お前」

「応ともよ。ま、教えてほしいってンなら教えてやってもいいぜ」

「マジか……っなら教えてくれ、その方法を!」

「ふっふーん。いいぜ?」


 ニンマリと、妖精は醜悪な笑みを深めて、言った。


「––––お前がそいつ相手に勝てたらな」

「は?」


 再びの、間。

 それは、予期せぬ答えに辿り着いてしまったことによる思考の空白ではなく、単に妖精の言葉の意味を一度聞いただけでは理解出来なかったからこその間である。

 そんな慶次を尻目に、妖精は小さな指をチッチッチと左右に揺らした。


「当然だろ。なんでこの俺様がわざわざ何のメリットも無いのに、見ず知らずのお前に懇切丁寧教えてやんなきゃいけねーんだ。せめて楽しませてみろ、この俺様を。そしたら考えてやる」

「なっ、テメッこの––––とわっ!」


 慶次はあまりに尊大な口調でそう言い放った妖精に怒りを一瞬で煮えたぎらせ、立ち上がって怒りのままに言葉をぶつけようとして–––––同時に鍵爪を幹から抜いて踊り掛かった怪人の突進を間一髪で回避した。

 しかし今度は先程の反省を活かしたのか、怪人は爪を地面に突き立てることなく、連続して慶次に襲い掛かる。


「こんなッ––––奴っ–––––相手にどうやって–––––勝てってんだッ!」


 一撃一撃が今の慶次にとっては一撃必殺となり得る怪人の魔の手を紙一重で躱している慶次であったが、実際躱すのに精一杯で、反撃する余裕などまるでない。

 というより寧ろ仮に反撃の隙を見つけたとしても、慶次にはこの怪人を打倒し得る一撃などある筈が無い。百歩譲って目潰しをしてからすぐさまこの場から退散する程度のことしか出来ないだろう。

 いや、それすらも困難であることはつい先程実証されたではないか。

 当然である。こちらは地上の上しか走れないのに対し、相手は翅が–––––空があるのだから。

 そう慶次が考えていると、丁度その翅が視界に映った。

 否、単に映ったのではない。

 まるで刃物の如く鋭利なその翅は、慶次の喉元を切り裂こうと迫っていた。

 迂闊っ––––と慶次が後悔した時には既に遅い。

 既に喉元ギリギリまで迫ったその翅を、慶次が今から回避することなど不可能だった。 


(翅で攻撃するなんて、そのなんありかよっ––––––!)


 と、慶次は脳内で全力の不平を叫んだが、有りか無しかで言えば、当然有りなのだろう。

 先程慶次自身が、ここは自分がいた世界とは異なる世界であることを確信したばかりである。ならば当然この窮地を招いたのは、未だ自分がいた世界の尺度で怪人と相対した慶次の想像力不足と言わざるを得ない。

 しかしそんな慶次の窮地を助けたのもまた、予想の外からの援護であった。

 怪人のブレードと化した翅が、慶次の頸部を切断するその寸前。

 ヒウンヒウンと風切り音と共に光の尾を引いて投擲された手斧が、怪人の翅を断ち切って、地面に刺さった。


「––––––!」


 突如翅を切断された怪人は悲鳴をあげて、慶次から距離を取る。

 言葉通り首の皮一枚繋がった慶次は、ヘタリとその場に尻餅を着いた。

 そんな慶次の頭上から落とされる、この場にはそぐわない快活な笑い声。


「カハハッ、素手のままじゃ流石に鬼畜過ぎんだろ。せめてそいつで自分の身でも守りな」


 慶次と怪人の間に手斧を投じた張本人–––––バンダナの青年はそう言って、軽薄なにやけ面を向けてくる。しかしその言動とは裏腹に、慶次に向けるその目には些かすら善意など宿っていない。

 あるのはただの好奇心–––––いや、好奇心にすら満たない微細な興味に過ぎないものだった。さながらそれは、子供が蟻の行列を見かけた際に、何の気なしに口に入れていた飴玉を行列の中に投じるような、そんな感情の介在しない無意味な行動。

 彼ら二人にとって––––二人と言って良いのかは疑問だが––––自分の存在意義など、所詮その程度のものだということが明確に理解させられるその視線に、慶次は歯噛みして目の前に突き立った手斧に目を見やる。


(ふっっっざけんな!たかだかこんなボロっちい手斧であんなバケモン倒せる訳ねえだろーがッ。焼石に水––––どころか実質丸腰で熊相手に戦うようなもんじゃねえか!)


 あ––––––いや、と。

 そこで慶次は思い至る。

 丸腰で熊相手に–––––とは単なるものの例えであったが、実際慶次の知り合いには丸腰でも熊に勝てそうな人間が一人、いた。


(あいつだったら–––––)


 一体、どうするだろうか。

 あの、生まれながらに物語の登場人物の座を用意されていたかのような、まるで化物じみた身体能力を誇るあの男ならば。

 

(きっと、どうとも思わずに熊だろうが怪人だろうが、嬉々として挑み掛かるんだろうな)


 考えるよりも早く慶次にはそんな結論が導き出され、現在の自身の状況と対比して、思わず肩の力が抜けそうになる。

 それにきっと、あいつだけじゃない。

 あの生まれながらの主人公ヒーローだって、きっとなけなしの勇気を振り絞って、震えながらも挑んでいくのだろう。

 それに比べて––––と、慶次はそこで思考を打ち切って、頭を振る。


(いや、あいつらのことを考えていても仕方ない、か)

(今ここじゃ、この状況じゃ、俺が登場人物–––––主人公だ)


 そうこうしている内に、慶次は視界の端で怪人が切り落とされた翅を再び生やしている姿を捉える。

 慶次は一瞬瞑目し、覚悟を決めて目の前の手斧を引き抜き立ち上がった。

 大きく一つ深呼吸して、引き抜いた手斧を頭上の二人に向ける。


「–––––誓えよ、テメエッ」

 向けた視線にありったけの殺意を乗せて、慶次は言い放つ。

「こいつぶっ殺して、元の世界への戻り方を必ず教えて貰うからな!」


 しかし慶次から全力の殺気をぶつけられて尚、妖精は顔に貼り付けた笑みを一切崩さずに、顎をしゃくって鷹揚に応じた。


「ヘッ––––やれるもんならな」

「ああ––––やってやるよ!」


 二人の視線は交錯し、そして、否応なくその運命を結びつけた。

 かくして、ここ–––––異世界、魑魅魍魎の跋扈する霧の森という地において、哀澤慶次を主人公とする物語が幕を開けた。

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