起篇
第1話 遭遇
ハッと、そこで慶次は目を覚ました。
跳ね上がるように上体を起こし、ずきりと痛む頭を右手で押さえた。
「今のは––––––」
夢––––だったのであろうか。
見覚えがあった。
いや、あくまで見覚えがあったのは片方のみだ。
ならばもう片方––––あれは一体誰の……。
と、そこまで考えて、慶次はふと異変に気がつく。
「どこだ……ここ」
そこは森だった。
一面を苔が覆い、太さも高さも規格外––––––いっそ非常識としか形容出来ないほどの大木が乱立し、これまた規格外の大きさの根が地面の至るところから突き出し隆起している。その一本一本の木のスケールからしても、森全体がかなりの大きさを誇ることは推測に易い。
しかしその森を見渡そうにも、濃い霧が森を満たし、辛うじて三十メートルほど先が見える程度だった。
それはとても、先ほどまで慶次のいた学校とは似ても似つかない光景。
学校––––そう、学校だ。
確かに自分は、ついさっきまで学校にいた。
だがここはなんだ。学校どころか、植生を見る限りでは日本なのかも疑わしい。
何があった。
自分が気を失っている間に、一体何が––––自分達の身に、一体何があったというのか。
分からない。
少なくとも慶次に解ることは、この状況について自分が理解できることなど何もないということのみである。
「………チッ」
慶次はそこで思考を区切り、苛立たしげに舌打ちすると、ガシガシと頭を掻いて空を仰ぐ。
分からないのにここであれこれと考えていても仕方がない。
「とりあえず、あいつら探すか」
篝と竹人。
あの二人は『アレ』が起きる寸前まで、自分のすぐ側にいた。
ならば、あの二人も必ずどこかにいる筈。あれこれ考えるならば、まずあの二人と合流してからでも遅くはあるまい。
そう考え、慶次は一人霧の中に足を踏み入れた。
◇◇◇◇◇
「ちっくしょお。どうなってるんだっここは」
慶次は額に浮かんだ汗を拭いながら、巨大な木の根に腰掛ける。
あれから小一時間。
森の中をひたすらに歩き続けた慶次は、改めてこの森の異常性を再認識していた。
当然のことながら、慶次とてここまで何の考えもなしに歩き続けていたわけではない。
この広大な森の中、何の当てもなく歩いていては人二人見つけることなどまず不可能であり、更に知らない森を何の考えもなしにうろつくことの危険性を、慶次はよくよく理解していた。
だからこそ、まず慶次は森の中において最重要である水場のありそうな場所を探すことにした。それが考えうる限り最善の選択であったし、あの二人がいるならば同じことを考えるであろうとの発想からであったが––––これが失敗であった。
水場がなかったのではない。
寧ろ、ありすぎたのだ。
通常森の中で水場を探すのはそう容易なことではない。しかし現在慶次のいるこの森においては、二十分ほど歩けば必ず大きな清流に行き当たった。
そのため当初の目的であった、水場で二人と合流するという計画は、あえなく御破算に終わった。
しかし収穫が無かったわけではない。ここまで歩いてきて、この森に関して理解できたことがいくつかある。
一つは、矢張りここは日本ではないらしいと言うこと。
これはここまで歩いて、森に生えた木の種類や植生が、どれも慶次の記憶にないものばかりであったため。
先程まで日本の高校にいた慶次としてはその事実は中々に認め難かったが、幅十数メートル、高さ100メートルを優に越す巨大な樹々が林立する光景を目にしては、流石に認めざるを得なかった。
と言うか、そもそもここが地球上であるのかすら怪しい。
慶次の決して深くない知識でも、地球上で最も大きい樹が精々百数十メートル程度であることは知っている。しかしこの森には、どう見ても高さが200メートルを越す樹がしばしばあった。
なのにここまで独特な植生の森が、誰にも知られていないなどと言うことが、果たしてあり得るのだろうか。
人類未到の地にしては、秘境という感じもなく、規模があまりに巨大すぎる。
そして二つ目は、慶次が辿り着いたこの水場––––地上に浮き上がった巨大な木の根の間を縫うようにして流れるこの清流は、どうやら森の中心から放射上に伸びているということ。
慶次がここまで歩いて発見した清流の数は実に五箇所。そしてその全てが、森の中心から流れていた。
つまりこの清流を辿れば、上流には水源がある––––筈なのだが。
「………」
慶次は懐から取り出した煙草を咥えて、ゆっくり煙を吐き出しながら、これまで歩いてきた道程を思い起こす。
慶次の感じていたこの森の異常性––––その最大の理由は、生物の存在であった。
いや、正しくは生物が全く存在していないこと、である。
そう、慶次がここまで歩いてきて、この森には全くと言っていいほど生物が存在していなかった。樹や石に蒸した苔を除けば、この森には鳥も、獣も、虫も、みじんこ一匹たりとて存在していなかったのである。
それは––––あり得ない。
ここが自然環境である以上、動物も虫も存在しないなどということは、密閉されていない空間に無菌室を作り上げる程に不可能なことだ。
故に考えられる可能性としては、この森を満たすこの霧が、生物が存在できない環境を作り出す程の毒素を持っているパターン。もしくは、生物が存在できない程、植生に影響を与える程の、高い放射線量が森全体を覆っているかのどちらかである。
しかし前者であれば、ここまで一時間程度森を彷徨い、それなりに息の上がっている自分に何の影響もきたしていないのは不可解である。
そのため可能性としては後者––––高い放射線量が森全体を覆っていると考えた方が、いささかしっくりくる。
かつてチェルノブイリ原子力発電所が大規模な爆発を起こした際、周辺の生態系に大きな影響を及ぼした。当初は動植物の生存は不可能と考えられるほどの高濃度の放射線による大気汚染が引き起こされたが、結果としてはチェルノブイリの周辺には放射線に耐性を持った動植物が生き延び、一部の動植物が楽園を築く結果となった。
そして同時に報告されたのが、生物の突然変異の多さ。
チェルノブイリ原発の周辺では、動植物の突然変異により巨大化や奇形が多く生まれた。
と、これら二つの事実を加味すると、この光景にも説明がつく。
巨大な樹木、生物のいない森。
歩き疲れて喉の渇いた慶次がそれでも目の前の清流の水に口をつけないのは、そういう理由からであった。
まあ、仮にその仮説が正しいとすれば、最早自分は手遅れということになるのだろうが。
「………」
慶次は吸い殻を清流の中に放って、上流に目を向ける。
「まあ、確かめてみなきゃ何も始まんねえか」
この清流を辿れば、そうした疑問も何かしら解けるかもしれない。
それに、あいつら二人とも合流出来るかもしれない。
そう考えて、慶次は脳裏に浮かんだ疑念を払拭し、上流を目指して歩き始めた。
◇◇◇◇◇
事実は小説よりも奇なり––––とはよく言うが、慶次の目にした光景は奇というにはあまりにも現実離れしていた。
「有り得ねえ……」
それ故口をついて出たのは、あまりに凡庸な感嘆であった。
慶次の見開かれた目に映っていたのは、一つの鉢であった。
鉢。
くすみ汚れた、青銅製の大きな水鉢。
一見するとそれは何の変哲もない水鉢に見えた。このような森の中で木漏れ日の指す中、腰ほどの高さの岩の上に鎮座しているというのに、その水鉢はまるで近所の庭にでも普通に置いていそうな、ただの古びた水鉢であった。
そう––––ただ一点。
水鉢から止めどなく溢れ出るその水こそ、慶次の辿ってきた清流の水源であると言うことを除いて。
呆然と、慶次は後ろを振り返る。水鉢から溢れた水は水鉢を支える岩の表面を滴り、慶次の足の下を通って、下流の方へと続いていく。そしてそれが、慶次の辿ってきた清流へと繋がっているのだ。
だがそれには、あまりに説明がつかない。
水鉢から溢れ出る程度の水量で、あの規模の清流を形成することなど有り得るはずがないのだから。
更に、清流は何も慶次の辿ってきた一本だけではないのだ。
水鉢からは他にも十二本––––合計で十三本の水の筋が、霧の中へと繋がっていた。
「どーなってんだよ………一体」
ポツリと漏らした慶次の声は、無意識に震えが含まれていた。
慶次は生まれて初めて、分からないと言うことに恐ろしさを覚え始めていた。
毒ガス?
放射線?
そんなものじゃない––––これは、その程度のものではない。
ざわざわと、全身が総毛立つ。
ザワザワと、風もないのに枝葉が揺れた。
まるで森全体が、慶次を嘲笑うかのように。
この森は、見た目以上に何かがおかしい––––と、慶次が悟ったその時。
ふと、森のざわめきが、消えた。
さっきまでのが嘘だったかのように、静寂が生まれる。
不気味なくらいの静けさの中に、慶次の心臓の音が、浅い息が、唾を飲み込む音が、不安になるくらい大きく響く。
どくどく。
どくどく。どくどく。
どくどく。どくどヴヴッくどく。
一瞬混じる、空気が震えるような音。
「––––––––」
息が、止まる。
ヴッ、ヴヴッ。
再び聞こえる、音。
それは、羽音に聞こえた。
そしてその音は––––––––
––––––すぐ背後から聞こえた。
鼓膜を直接撫でられたかのような悍しさが、耳から全身へと伝わる。
心臓が爆発しそうなくらい、肋骨の中で暴れ狂う。
慶次の本能が、何も考えずに今すぐこの場から逃げ出すことを命令していた。
しかし慶次の意識は、全力で警鐘を鳴らし続ける本能とは裏腹に、その音の正体を確かめずにはいられなかった。
この場所に来てからずっと感じていた違和感。
そして、なぜ自分がここにいるのかという疑問。
その答えが、背後にある気がした。
故に、慶次はゆっくりと、顔をそちらに向けた。
そして–––––––。
「…………はっ–––––はっ、はっ、はっ……ふう」
振り向いた先には、何もいなかった。
慶次はその事に落胆するよりも、寧ろ深い安堵感に、顎先から雫を垂らす。
「んだよ……ったく」
鳴り止む事のない鼓動と、取り乱していた自分自身を馬鹿馬鹿しいとばかりに笑いを漏らして、慶次は再び水鉢に視線を落とした。
と。
目が、合った。
水面に映る自分と–––––などでは当然ない。
慶次の目が合ったのは、水面に映った頭上の木の幹に張り付きこちらを窺う、一匹のトンボであった。
否。
トンボ、などと一言で形容するには、それはあまりに巨大だった。
トンボ、などと名状するには、それはあまりに歪で、奇怪な姿をしていた。
いや、それを言い始めれば、そもそもそれがトンボかどうかすら疑問である。
より正確な表現を記するならば、それは『トンボの怪人』と命名した方が正確だろう。
慶次を頭上からじっと見つめる貌は、紛れもなくトンボそのもの。
しかしその貌の下にあったのは、まるで人間のような、それでいて人類のそれとはまるで異質な、人型の身体である。
虫のように手足が六本あり、木の幹に掴まる手の平は人間のように五本の指に鉤爪がついている。
そして当然トンボの如き半透明な––––それでいて巨大な翅が四枚、背中から生えていた。
すると。
水面に映ったトンボの怪人はギュルリ、と顔を半回転させ––––静かに、翅を立てた。
「––––––––っ」
慶次は本能で、その場から飛び退いた。
翅を立たせたその動作が、トンボが飛ぶための予備動作である事など、無論慶次は知らない。
だが背筋を瞬間的に走った悪寒は、理屈を飛ばして慶次の体をその場から退かせた。
そして、次瞬。
つい一瞬前まで慶次の立っていた地面にトンボの怪人の鉤爪が振り下ろされ、
地面が、割れた。
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