第0話 とある話のエピローグ––或いは全てのプロローグ

 遥かな昔、自然はこの世に命を与えた。

 やがてその命の中から、人が生まれ落ちた。

 人は、自然を神として崇めた。

 神も、そんな人を愛した。

 しかし、人はやがて自然を切り取り、村を、町を、国を作った。

 そして人は、人を神として祀った。

 新しい神は、古き神を殺した。




◇◇◇◇◇





 目が醒めると、男は天井を仰ぎ見ていた。

 ぼんやりと霞む景色はゆらゆらと揺れ、天井に吊るされた無数のライトが細長くくねっている。

 視界の半分が靄のように紅く染まり、顔中が焼けるように熱い。

 鼓膜がまるで壊れたラジオの様に音を拾わず、ざあざあと掠れた雑音のみが煩い位に頭の中を木霊していた。

 視線を落とすと、目の前にはぎらぎらとした眼で此方こちらを見つめる男がいた。

 全身から滝のような汗を流し、赤く腫れた顔には幾つもの傷が走り、そこからは鮮やかな血が滴っている。それでもその男の顔は喜色に歪み、肩を大きく上下させながらも口の端を釣り上げ笑っていた。

 褐色の肌をした屈強な体躯の男が血塗れで笑んでいるうつつまぼろしかも判然としない景色の中において、男は身体の芯がかあっと熱を帯びるのを自覚した。

 背負ったロープから身体を離し、たたらを踏みながらも前に出る。

 ふらふらと枝のように力の入らなくなった腕を胸元に吊り上げ、両の拳越しに男は褐色の肌の男に向き直る。その猛禽を思わせるぎらぎらとした双眸は依然として険しく此方を射すくめて居る––––が、しかし僅かに、その瞳に宿る闘志には揺らぎが伺えた。

 同時に、畏敬の念すらそこには介在していた。

 もうとっくに倒れていておかしくない––––否、寧ろとっくの昔に倒れていなければおかしい位のダメージを抱え尚立ち上がってきた相手に–––––顔に笑みを湛えて相対してくる男に、褐色の肌の男は口を引き結び、拳を突き合わせた。

 男は朦朧とする意識の遥か彼方に、かあん、と鐘の音を聴いた。

 そして男は––––男と男は拳を走らせる。


 拳は交差し、弾け、そして––––。


 気付けば再び、男は天井を仰ぎ見ていた。

 視界の端に、高らかに突き上げられた赤いグローブが映った。

 血と汗に彩られたキャンバスを背に、男はどこか心地の良いまどろみの中に居た。

 倒れ伏し、指先一本すら動かす事も叶わない身体で、しかし男は充足感に包まれて。

 背に伝わる振動に、男は視線を傾ける。その先にはキャンバスを叩きながら、泣きそうな顔で何かを叫ぶ、日に焼けた老人の姿があった。

 その老人の手元には、投げ入れられた白いタオル––––と。

 ふと、男の目はリングの階段を駆け上がる老人の先に、美しい女の姿を映した。

 浅黒い肌の、優しげな瞳で哀しそうに微笑む女は、二言、何かを呟いた。

 それに、男の目から、血の混じった涙が溢れ出る。

 彼の口が紡いだ言葉は、彼女に届いただろうか。


 消えゆく意識の中で、誰かが、自分を呼んだ気がした。




◇◇◇◇




 男の瞳はその時、虚を映していた。

 背筋に伝わる石の冷たさに、自分が地べたに倒れていることに気が付いた。

 凍えるような石造りの床に熱を奪われているのか、男の体温は急速に失われていく。

 冷たく、熱を失う身体の中で唯一、胸の中心だけが焼け石を押し込まれたような熱を帯びている。

 否、それは熱––––というよりも渇きに似ていた。

 身体の中心から熱い何かが溢れ出て、ぽっかりと大きなものが欠けてしまった様な喪失感が代わりに満ちていた。

 吸う息は硬く。

 吐く息は掠れ。

 力の抜けていく腕を地面に擦るように持ち上げて、焼けるような胸の熱さに手を伸ばす––––と。

 ふと、何かを掴んだ。

 硬く、細く、長く。

 ぎょろりと眼球を動かし、視線を今まさに手のひらに握られたそれに落とすと––––。


 胸に、長い矢が突き刺さっていた。


 ––––途端、込み上げてきたものを吐き出すと、視界に赤いものが花開く。

 唸りとも悲鳴とも取れない絶叫が声帯を震わせ、肺に溜まった血液が口腔から止めどなく溢れ出てゆき、石造りの床に鮮血の鏡面が拡がっていった。

 どれだけ倒れていたのか。

 それは男にとっては永く、時間にしてしまえば数瞬にも満たない間。

 文字通り全身から血の気が失せ、やがては手脚が砂袋のような重さを持って塑像の如く固まっていく。

 端から自由の奪われる身体に本能的な危機感を覚え、痛む胸の傷に呻きながらも重石のようになった上体を擡もたげ––––気付く。

 ぐるりと、男の周囲を矢を番えた兵士達が囲んでいた。

 一様に、見覚えのある黄金の鎧を纏った者達が、此方を目掛けて鏃を向け弓を引き絞り。

 言葉にならない声が、血と共に口から零れ出た。

 見れば、その男達の中央––––男の正面に、見知った黒髪の男がいた。

 見知った、見馴れた、ずっと見続けてきた男が、そこに居た。

 その男は振り上げていた手を、ふと此方を見据え、瞬きの間瞑目すると––––振り下ろした。

 そして––––、

 無数の矢が、男に向けて降り注いだ。

 鏃が雨となって身体を打ち、足掻く様に突き出した掌が貫かれ、弾かれる。

 と、弾かれた腕の先から一本の矢が視線を沿う様に飛んできて––––。

 鏃が男の眼窩を貫く前、男の瞳が最期に捉えたものは、美しい麦穂のような髪を振り乱し叫ぶ、女の涙だった。


 頭蓋を弾かれ崩れ落ちてゆく最中、誰かの呼ぶ声がした。



–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––


 本作品を読んで頂き有難うございます。

 構想ではとてつもない長期連載になる予定なので、末長くお付き合い頂けたら幸いです。


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