2話 アリスの愉快な日常


特別に、アリスの日常を少しだけお見せしましょう。・・・あ、これはアリスには内緒ね?私が誰かって?誰でもいいでしょ。




夕日も沈みかけの頃、アリスは暗い森の中でぽつんと佇んでいます。迷子になったわけではありません。とはいえ、ここがどこかもわからないのですが。


アリスにはこの世界で知り合いも、頼る人も誰もいません。食べ物も、着替えも、それらを補うお金もなにも。どんな世界であれ幼い子供がたった一人で生きると言うのはどれほど過酷でつらいことなのでしょう。しかし、彼女は不便とは思っても不安には思っていません。正直、いつかはどうにかなる、その程度にしか考えてなかったのです。でも、不便には変わりありません。

「頑張って手に入れたんだもの。食べたことはないけど、食べれなくはないでしょ。」

アリシアが手にしているのは、ウサギの死体。とにかく必死に追いかけて捕まえて、殺したのです。この時からすでに食べ物のことを考えていましたから。さて、一旦自体を置いといて、次にアリスは赤色の宝石を二つ、シャムロックの言った通りに一生懸命こすります。嘘つきな彼の言うことですから、半信半疑。もしもこれも嘘なら無駄な時間と労力を費やすだけ、ですが?

「あつっ!」

一気にぼおっと炎が湧き上がったのであわてて足元の小さな枯れ木の山に落とします。炎は大きくなり、あたりをほんのりと照らします。これで焚き火の完成です。一方、吊す方の木は用意していないし、仮にしてあったとしても吊るし方まではわからないアリスはウサギの両耳を持って火に近づけました。

「この間暇ね。お歌でも歌おうかしら。」

残念、思い浮かぶ歌がなにもありません。

「・・・夜になったら真っ暗ね。ここからだとどれぐらいのお星様が見えるのかな。」

なんて呑気なことを呟いたあとはしばらくぼーっと空を眺め、そうこうしているうちにウサギの丸焼きのできあがり。誰も見ていないものですから、お行儀悪くかぶりつきます。味は悪くなかったようです。強いて言えば、なにかかけるものがほしかった、ぐらいでしょうか。


「着替えがないのは、うーん・・・我慢できるはず。でも、服を洗って乾かしてる間は裸じゃない!今度は布を用意しなきゃ。」

アリスは独り言で状況を改めて確認しながら、あれこれ考えています。

「問題は、お風呂とトイレよね。・・・転々としながらの生活だと、ドラム缶のお風呂も難しいわよね。私、密かに憧れだったのに。」

素敵なアウトドアを満喫する自分を想像したけど、たまにするぐいらいならいいとして、住む場所が安定していなければさぞかし厳しいことでしょう。そして、最大の問題はトイレ。

「うーん・・・。」

問題が問題なので、口には出しませんでしたが個人的には大問題でした。だって、今がトイレに近い状態だったから。


「お困りのようね。」

突然、知らない声が。女の子の声。でも辺りを見渡しても誰もいません。というか、まるで自分の中から声がするような、不思議な感覚でした。

「あ、別に喋らなくてもいいわ。心の中で喋ってもちゃんと聞こえるから。」

なにが起こったから、混乱中ですが物は試し。

「あなたは誰?どこにいるの?」

そう考えると。

「私は悪魔。あなたの中に潜んでいるの。」

おやおや、会話が成り立ちましたよ。言っている意味はいまいちわかりませんが。

「よくわからないけど、取り憑いているの!?」

驚きのあまり、思わず声に出てしまいました・・・。

「似たようなものね。私のことについては、長くなるから今はやめるわ。それより困ってるでしょ?私ならなんとかしてあげれるわよ。」

気持ちがつい仕草にも現れます。難しい顔で首を傾げました。

「なんとか?」

「一時的に私が体をのっとるのよ。そしたらあなたはトイレも食事も睡眠も要らなくなる。」

「すごいわ!!」

やっぱり、驚くと声に出してしまうようで。

「ずっとそれの方が便利じゃない!」

でも、かえってきた声はどこか真剣。

「その間はあなたの意識がなくなるのよ。それでもいいの?」

アリスは黙り込みました。それは嫌ですし、自分の知らない間に得体の知れない何かに体を貸すわけですから、色々と心配です。

「あと、例えば私がずっと起きていたとしてもそれはあくまで悪魔の私だから平気なの。寝なかった分の眠気とか、食べなかった分の空腹とか、元に戻ったあなたに全部返ってくるわ。」

「今のはダジャレ?」

今度は悪魔の方が黙り込みました。

「・・・だから睡眠もちゃんと取るわ。」

「でも、そうだったら寝ている間襲われたらどうするの?」

「そんなのアンタが一人で生きていくって決めたんならそれぐらい諦めなさいよ。」

ぐうの音も出ません。いくら悪魔でも、寝ている時は無防備なようです。

「私の体が死んだらあなたはどうなるの?」

「別の宿主を探すわ。あなたはそんなこと考えなくていいの。早く変わりなさい。」

どこかそっけない口調でした。ですがアリスにはもうひとつだけ聞きたいことが。

「あなた、悪魔なのに優しいのね。」

すると、しばらくして返ってきたのはトゲのない落ち着いた、穏やかな声で。

「誰にでも、なんにでも優しいわけじゃないわ。悪魔に限ったことじゃないけどね。」


アリスは悪魔の指示に従って、目を閉じて無心になりました。意識がふっと消えたと同時にアリスの中身は悪魔にいれかわったのです。

「あーあ。元の体なら、なにされても痛くも痒くもないのになぁ。」

草っ原に大の字になって、空を眺めます。ここから見えるのはまんてんの星空。悪魔は心の中で「アリスにこれを見せてからにすればよかったかな。」と呟きつつ、目を閉じて、心地よい眠りにつきました。


「おいおい、無防備にも程があるだろ・・・。」

通りかかったのは例の嘘つき猫。シャムロック。夜行性で、野良猫なものだからこうしてうろうろすることもあるのです。ここを通ったのは単なる偶然ですが。

「黙ってると可愛い顔してんのにな。」

と言って、寝ているところを邪魔するほどのたいした用事がないからさっさと立ち去ろう、と、しましたが。


空を飛べる彼は、背の高い木の大きな葉っぱを毛布がわりにかぶせてやって、そばには昼間に採った果物諸々を置いて行きました。きっと、気まぐれな彼のただの気まぐれなのでしょう。



お目覚めのアリス。さて、今日は冒険はひとまずおやすみ。生活に必要なものを揃えるために街に出かけます。

「誰が置いたのかしら。」

とはいえ、体はまだ悪魔がかりたまま。とりあえずはトイレのある場所まではこの状態でいてあげた方がアリスのためかもしれません。そう、この体はアリスのもの。だから、誰が置いたかわからない食べ物も勝手に食べたりしません。

「・・・街、ねえ。」

実はこの悪魔、今いる世界についてはあまり詳しくありません。しかし慌てることも不安に思うこともありません。そこはかとなく、アリスと似ているのでした。迷うかどうかさておき、迷わず進みます。


しばらくすると、賑やかな街に出ました。これでちょっとは一安心。スーパーマーケットなんかもあったので、そこへ入ってトイレだけは済ますことができました。さあ、あとはアリス次第です。

「・・・はっ!」

トイレの個室の中でアリスがアリスに戻ります。

「ここどこ?」

「街。スーパーマーケットでトイレを借りることに成功したわ。」

アリスは手にしていたものを思わず落としました。りんごです。

「これは?」

「心配しないで、盗んだりなんかしてないわ。起きたら置いてあったのよ。勝手に食べるのもアレだし。」

みたところ、綺麗でツヤツヤなりんごですが。

「おいしそう。でも、さすがにトイレで落としたものを食べるのは抵抗あるわ。」

「死にはしないわよ、多分!このまま持って出たらそれこそ泥棒と間違われて面倒ごとになるわよ。」

つまりは今、食べろということです。みなさんはできるだけ真似しないでくださいね?しようと思っても、できないでしょうが。

「仕方がない、仕方がない・・・。」

そう言い聞かせて少し惨めな思いで食べたリンゴはとても熟して甘いものでした。


「物を売るならスーパーじゃ無理よ。市場でそういう店を探すの。」

スーパーマーケットを出て、市場という場所を探します。

「やたら詳しいのね。この世界のこと。」

「知らなくても常識よ。私は悪魔よ?何千年生きてると思ってるの?」

またもびっくりして声が出そうでしたが、たくさん人がいる中では恥ずかしいので我慢します。アリスは、側から見たら誰とも会話はしていないのです。

「私、あなたのことについてなんにも知らないわ。」

「教えてあげるから今はしなくちゃいけないことをしないと。」

確かにその通り。今事情を話されても、きっとそれどころではないでしょうから。


市場には小規模な店がたくさん並んでいます。道は広くないので、歩く人、並ぶ人、品定めしている人、特に買うわけでもなく世間話している人で大混雑。小さなアリスでさえ歩くのに一苦労。

「へいらっしゃい!今日はカキが安いよぉ!」

「ねえ、あともうちょいまけてもらえない?」

「あなたをより彩る帽子はいかが?」

あちこちから客を呼び止める声がひっきりなしにします。でもアリスは一文なし。まずはお金を用意しなければ。

「石なんかどこで売ればいいの?」

「宝石屋なんてこんなとこにはないだろうし・・・鑑定屋?アクセサリー屋?」

心の中で話し合いしながら歩いていると、誰かにぶつかります。そりゃあ、これだけ人が歩いているのに考え事しながら歩いていたら、そうなるでしょうね。

「いった!」

ぶつかったのは青いケープのようなものをまとった大柄の男性です。

「すまない。大丈夫か?」

ぶっきらぼうながらも思ったより親切にしてくれたので、アリスは頭を下げます。

「大丈夫よ。こっちこそごめんなさい。」

ぶつかったひょうしにおっことしてしまった石を拾います。七色に輝く宝石。それを見た男の人の青い目が点になりました。あたりがざわめき始めます。

「君、それ・・・。」

自慢げにみせびらかします。価値はわかっていませんが、とにかく綺麗なので。

「ふふん、綺麗でしょう?知らない洞窟で、拾ったの。」

勝手に採った、とは言いませんでした。アリスはついでにたずねます。

「聞きたいのだけど、石はどこで買い取ってもらえる?」

男が答えようとするやいなや、その周辺の店の人がこぞって声を上げるではありませんか。

「そりゃあ激レア中の激レア鉱石じゃねえか!おい嬢ちゃん!俺に譲ってくれ!」

「ばっかテメェ十分稼いでるだろが!俺に!」

「私が買い取ろう!売り上げ全部あげてもいい!」

服屋、鍛冶屋、帽子屋、はたまた宝石とは関係ない八百屋、客の中でも金持ちそうな人、いろんな人が揃いも揃って名乗り出ます。

「あわわ、どうしましょう。」

ふと顔を上げるとさっきの男の人はいませんでした。いつまでもこんな騒ぎの中にいるのはたまったものではありません。

「じゃあ一番多くのお金で買い取ってくれた人にあげるわ!」

巻き上がる、歓声、怒号、時々起こる殴り合いと競り合いが突如として勃発しました。



「すごいわ!」

袋の中にはありったけの札束!これだけあればしばらくの間贅沢だってできそうです。しかし、こう見えて賢い子供。今はまだ無駄遣いをしている場合じゃないと考えています。そこで悪魔の囁きが。

「ちょっとぐらいパーっと使っちゃいなさいよ。万が一お金を盗まれた時、中にあるお金が多いほど辛いものでしょ?」

早くも心が揺らぎます。

「あくまで提案だけど、服とかどう?」

「悪魔さん、それ、気に入ってるの?」

悪魔は黙ります。アリスに悪気は一切ありません。

「まずは持ち運び用のカバンよ!生活に必要な物をあらかた買って、それから・・・。」

そうですね。その通りです。さっきみたいにトイレで落ちた食べ物をまた食べたくはありませんから。さあ、アリスは一体どんな贅沢をするのでしょうか・・・。



「ねえ。」

話しかける悪魔の、なんと呆れた声か。

「偏見で物を言うのはらしくないけどさ、女の子の贅沢ってもっとこう・・・違うでしょ?」

アリスが買った鞄の中。食べ物、歯ブラシやコップ、食器。簡単な着替えとか。そしてもう一つ鞄が。中にはなんと。

「いざというときのためよ!私、か弱い女の子なんだからこれぐらい持っておかないと!」

ナイフ、銃、縄。何かあったときのために身を守るもの、あるいはサバイバルに使うために買ったのです。これをまとめて買おうとした時の店員の驚く顔は忘れられません。悪魔の方は。ですが、鞭や手錠はあまり必要ないと思うけれど悪魔はあえて聞きませんでした。

「弓矢も欲しかったけどさすがに持ち運びできないみたい。」

「いらないいらない!弓矢も鞭も手錠もいらないから!」

会話が途切れました。アリスは街を出て一本道を進みます。


「ねえ、あなたのこと教えてよ。」

そういえば結局聞かずじまいでした。

「長い話って嫌いなタイプでしょ。」

この時点ですでにアリスは「長くなるならいいかな。」と考えていましたが、意識で会話しているので悪魔の方にはだだ漏れです。

「私も面白くもない話を長々するのは嫌なのよ。あなたが呼んだときに、少しずつ教えてあげるわ。」

「呼んだとき?」

「そうよ。ずっと私にこうして見られているの嫌でしょ?普段は意識を閉ざして、呼ばれたら出てくるわ。」

聞きたいことはありましたが、うまくまとまらず、悪魔の方も彼女の考えを感じ取れません。少し間が空いてから、悪魔が話してくれました。


「じゃあまず・・・そうね・・・。あなたはこことは違う別の世界に住んでいたの。私はその時からあなたの中にいたのよ。」

「いつからいたの?」

悪魔の答え次第では、アリスのかけた記憶も埋まると期待しました、が。

「さあ。突然現れた変な空間に入ったらこの世界にいたんだけど、ここにくる前の記憶が私の方も抜けてるところが多いのよね。あなたの記憶からも抜けてるみたいで、体を乗っ取ってもあなたのことがわからないの。」

こればかりは期待外れというより仕方がないことなのかも。だって、この体はアリスの体なのですもの。責めようもありません。

「期待に添える答えができなくてごめんなさいね。」

「謝らなくていいわ。きっとそのうち思い出すわよ。・・・あなた自身の記憶はあるのでしょう?」

「何千年分の話をすればいいの?」

アリスは頭を横に振りました。

「勘弁してよ!」

「ふふっ、冗談よ。」

初めて悪魔にからかわれました。自分の中にいる自分じゃないものに笑われるのはあまりいい気分ではありません。

「私は悪魔だけどあんまり悪さはしなかったの。だけど大規模な悪魔狩りにやられちゃって、さらに罰として「痛みを感じる体」に無理やり閉じ込められたの。悪魔にはほとんど無縁だった痛みを思い知らせるために。私はあんまり関係ないんだけど。」

アリスは真剣に聞いています。

「宿主が居ないとね、すぐに消えるような脆い体なのよ。だから誰かの体にうつってからこそ私は存在できるの。今の私は実態がない、おばけみたいなの。」

アリスはまだまだ真剣に聞いています。歩く速度も若干落ちているような?

「あなたさまさまなのよ、私。乗っ取って我がものにしようとする悪魔もいるけど、私が元々こんなんだからねえ。」

「悪魔なのに悪いことをするのが嫌だったの?」

ようやくアリスが質問します。

「女の子だからピンクが好き。男の子だから車が好き。お年寄りだからボケてる。ねえ?みんながみんな、そうとは限らないじゃない?私はたまたま悪魔として生まれたから悪魔なだけ。そりゃ、いい奴でもないけどね。」

わかりやすい例えに納得のアリス。

「あなたが物騒なものを買った時はさすがにビビったけど、つまりはそういうことよ。」

「必要だと思って仕方なく買ったのよ?」

鞭や手錠は必要ないと思うのですが・・・。

「むしろ悪魔でいるより今のほうがいいわ。性に合っている。」

「なんで私を選んだの?」

「やっぱ相性とかあるんでしょうね。私についてはざっとこんな感じよ。ここ数千年生きてきた中で面白そうな話をたまにしてあげるわ。」

一見は無口。心の中では悪魔らしからぬ気さくな悪魔とおしゃべりしながらアリスはどこへというわけでもなく、道が続く限り歩きました。


しばらく歩いていると、広い道に向こう側から誰かが歩いて来ます。

「あーもう帰りてえよ。」

「誰がどこで聞いてチクるかわかんねーぞ。帰ってから愚痴れ。」

「じゃあお前相手になれよな。」

「やだよ。」

と、二人の男が大きなバケツを持って横並び。アリスはごく自然に会釈をしました。

「お嬢ちゃん?今の俺たちの会話、秘密にしてくれな?」

「誰に?」

最初に返してくれた人が隣の人に頭を強く叩かれました。

「余計なこと言うんじゃねえよ!」

「誰に?」

アリスの強い押しに二人は深いため息をつきます。

「誰にも秘密だ。特に・・・。」

「だから!!」

「特に、何?」

まんまるいキラキラしたおめめは、気のせいでしょうか、圧を感じさせます。二人はもうお手上げです。

「女王様だよ。俺たちの上司だ。とにかく厳しくて、仕事をいくら真面目にやってても文句一つこぼしただけでお怒りになられるのさ。」

「文句を言ってる時点で真面目にやってるなんて言わないと思うのだけど。」

アリスの返事にぐうの音も出ません。

「なあ、今時のガキってみんなこうなのか?」

「知らねえ。最近ガキと話してねえからな。」

難しい顔を見合わせてお互い首をかしげて唸っていましたが、そのうち一人がアリスの頭をぽんぽんと撫でて。

「いいかいお嬢ちゃん。悪いことってのはな、ばれなきゃいいんだよ。世界をたくましく生きるための知恵だぜ。」

「知恵と言っても悪知恵だけどな。」

二人は手を振って、再びバケツを持って行ってしまいました。

「それもそうね。」

ここで納得してしまうのがこのアリス。これからも一人で生きていくつもりでしたから、たくましくないと。ばれなきゃ誰にも責められないですし。

「・・・女王様?あの人たち、女王様が上司って言ってわね。意外と偉い人たちだったんじゃあ。」

立ち止まって振り返ります。話し方や態度からはとてもそうには見えなかったので。

「きっと女王様の前ではビシッとしてるんだわ。見られてもないのにずっとビシッとしてるのはきついもの。ばれなきゃいいのよ!」

心の声は彼らには届くわけもなく。アリスはなぜか一人誇らしげに胸を張って自分の道を進みました。

「女王様って、どんな人なのかしら。」

と、こちらは実際に声に出して呟きながら。


アリスがやってきたのは、どこか見たことある場所。それも昨日見たから覚えているはずなのですが、しっかりと見たのは初めてです。ウィリアムと一緒に話していた女性が笑顔でこちらに手を振っています。

「あの人は・・・。」

名前は確か、ドローレス。呼ばれてもないのに呼ばれた気がして、立ち寄ります。

「こんなとこで何してんだい!」

あれ?随分と気が立っているような?

「何もしてないわ・・・いや、歩いているのよ。いくあてもなく、道の続く限り。」

アリスは正直に答えただけでした。

「心配したじゃないか。昼ごはんできてるよ。」

ん?どういうことでしょう。会ってまだろくに話したことない、いわばあかの他人になぜ心配されなくてはいけないのでしょう。しかもお昼ご飯までご馳走してくれるというのです。アリスは木になることをどう一度に聞こうか考えていました。

「食べるわよね?」

優しい笑顔を向けられたら、断りにくいし、ちょうどお腹も空いていたのでお言葉に甘えることにしました。家の中は誰もいません。一つ一つが整理整頓されていてとても綺麗でした。一人暮らしには少し小さな家かもしれませんが、これだけ片付いていると十分広く感じます。テーブルの真ん中にはシチューとパン、ベーコンエッグにサラダ。それはもう、今のアリスにとったらご馳走です。昨日トイレで食べたリンゴとは大違い。・・・いいえ、あれは食べた場所がよくなかっただけなのですが。

「今日はアンタの好きなマッシュルーム入りよ。」

アリスは別にマッシュルームが好きではありませんが、嫌いでもないので食べる前の挨拶だけしてまずはシチューから一口。

「おいしい!」

ほっぺたが落ちるほどのおいしさ!次々と口へと運び、他のものもあっという間に平らげてしまいました。

「ごちそうさまでした!」

ご満悦のアリス。なぜか、ドローレスは驚いてましたが。

「私の顔に何かついてる?」

どう尋ねていいか分からないので、適当な質問を投げてみたところ。

「今日のパンは固かったろ?固いパンは嫌いっていつもは残すのに・・・。」

「・・・。」

どうにも違和感が拭えません。しかしまだ様子見。やれやれ、会った時から変だと感じていたのならあの時点でさっさと逃げればよかったのに、と、後から後悔することになるのです。逃げられるはずなど、ないのですが。

「知らない人にご馳走してくれるなんて親切な人ね。これ以上ゆっくりするのも悪いし、お暇するわ。」

そう言って立ち上がると。

「何言ってんだい、おいとまって。変なこと言うねぇ。夕飯までには帰ってくるんだよ。」

ドローレスは食器を片付け始めます。アリスの違和感は我慢の限界を迎えました。

「あのぅ、ドローレスさん?まさかとは思うけど、私を誰かと間違えていない?それこそ、ご家族とか。」

手の動きが止まるのが後ろから見てもわかります。

「間違えることは誰でもあるわ。でもごめんなさいね。私は二回顔を合わせただけの他人よ。」

「母親が我が子を間違えるわけないだろう。」

食器にピシッとヒビが入ります。

「腹を痛めて産んだ子を、心からの愛情を分けて育てた大事な大事な息子を間違えるわけない。」

アリスの身の毛がよだちます。アリスには記憶がほとんどないのですが、違う世界から来たと言う事実があるので彼女が産んだという可能性は極めて低いでしょうし、なにより息子ではありません!

「これはやばいわ・・・逃げなきゃ!」

おそるおそる、足音を潜めてあとずさり。しかし、入る時は意識しませんでしたが、床が軋む場所があって、うっかりそこを踏んでしまいました。玄関に近いので、こっそり逃げようとしているのが丸わかり。

「どこへ行くのさ!!」

まるで鬼のような形相で振り向いたドローレスと目があったアリスは迷わず家を走って出て行きました。得体もしれない恐怖に体が突き動かされます。一秒たりとも止まることは許されません。

「待ちな!」

待てと言われて待つぐらいなら逃げていません。止まったら最後、何をされるか分からない、そんな物騒な雰囲気を放っていました。それにしても、食べてすぐ走るのはなかなかしんどいものがありました。


果たしてここがどこでしょう。そんなこと、考える余裕すらないです。さすがにもう追ってこないだろうと後ろを見てみると、誰もいません。引き離すことに成功しました。でも、決して油断してはいけません。ほら、前からガサガサ茂みが揺れているではありませんか。まさかとは思いつつ、警戒して前方を睨むと・・・?

「ウィリアムさん!?」

なんと、茂みから出てきたのは白ウサギのウィリアムでした。

「あれ?あなたは確か・・・ん?私、名前を教えましたっけ?」

体についた葉っぱを払いながら間の抜けた顔でこちらを見ていますが、アリスにとってはどうでもいい問題です。

「それより、どうしたんですか?とても苦しそうですが。」

実際苦しいのには変わりません。この際、起こったことをありのまま話そうとしました。

「悪い人に追いかけられていたの!」

・・・言うにはあまりにも情報が欠けています。悪気はありません、ご馳走してくれたのですから。悪い人に見えるほど怖かったのでしょう。

「大変です!殺しましょう!」

・・・あれ?とても彼が言いそうには思えないほど物騒極まりない言葉が二言目に出てきましたよ?

「なんでそうなるの?」

至極当然の質問です。ウィリアムの表情は至って真剣。

「子供を襲う悪い大人は生きる価値がないので問答無用で殺してもいいと女王様に言われているのです。」

なるほど、これも仕事なのですね?って、そういう問題ではございません!別に悪い人でもなければ、殺して欲しいなんてもってのほか。首が吹っ飛美そうなほど横に振って、深呼吸、一回落ち着いてから冷静になって説明をしました。

「ドローレスさんって人が私を自分の子供と間違えて、追いかけてくるの!」

「あぁ・・・あの人ですか。」

胸を撫で下ろすウィリアム。いやいや、安心してはいけません。

「あの人はですね、子供がまだ幼いうちに亡くしておりまして・・・それからというもの、いろんなものを子供と思い込むようになってしまったのです。」

「つまり病んでるのね。」

アリスの辛辣な言葉。まるで身もふたもない。

「病んでるという言い方はあれですが・・・いまだ現実を受け入れられないでいるのです。」

ただただかわいそうな人でしたが、実際に被害にあったただの他人のアリスにとっては迷惑千万でしかありません。

「もう追いかけてこないということは、おそらくまた違う何かに目をつけたのでしょう。」

「そう。じゃあね。」

他に話すことはなかったアリスは進もうとしました。昨日のあの出来事は今のところすっかり忘れていたようです。

「あっ、今はその先を行くのは危険です!」

ピタッと足を止めて、振り返ります。

「なんで?」

見たところ何にも無い一本道で、見晴らしも最高です。

「この時季の昼間はウツロカズラが活発なんですよ。まともに対処できる職業の方でないと・・・。」

その時です。地面が縦に激しく揺れ始めました。

「地震!?」

いいえ、違います。アリスの目の前。土の山がぽこっと盛り上がって、だんだん大きくなって、地面から巨大なウツボカズラが出てきたのです。茎は太くてまるで胴体、細い茎は腕、葉っぱも手のようにそれぞれが意思を持って動いています。それこそまさに、化け物。

「なにあれ!」

「だから言ったじゃないですかぁ。」

消え入りそうな、泣きそうなウィリアムに対しアリスはびっくりしているのみ。あまりにも非現実的すぎて実感が湧いていないのかもしれません。ですが、大きな口をあけて低い咆哮を上げた時はさすがのアリスも警戒しました。

「これはかなりやばいやつね。」

「激ヤバです!私がなんとかするのでそのうちに逃げてください!」

強く頷きます。細い茎が狙いを定める中、ウィリアムは早速次の行動に出ようと考えていましたが。

「そうこなくっちゃ!」

アリスはウィリアムの背中を強く押しました。

「えっ?」

予想外の出来事に驚いて、吹っ飛んだ彼はそのままうつ伏せに倒れます。理解できないまま、飛び込んできた獲物に茎が勢いよく向かって体に巻き付けます。

「えっ?えっちょっ、えっ!?」

少しの間、宙吊りにされていましたが、最大にまでにあけた口に放り込まれました。丸呑みです。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あぁッ!!!」

いったい彼の身になにが起こっているのでしょう。絶叫が中から響き渡る中、アリスは・・・。

「アイツが囮になっても私がすぐに追いつくかもしれない。」

と今まで以上に冷静に考えていました。

「でも花って地面に根っこをはやしているのよね?なら、その場からは移動できないんじゃないかしら。」

アリスは念のため、道を挟む森の中に逃げ込みました。

「ウィリアムさん、あなたの勇姿ある姿、忘れないわ。多分・・・。」

ウツロカズラと呼ばれる化け物は追って来ませんでした。森を抜けたら、その先にはなにが待ち受けているのやら。




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