坂の上の景色を

「もう、絶対に離れない?」

「うん、離れない。絶対」

カフェで若い男女が話をしている。おだやかな会話だった。いかにもなべたべたの会話だけれど、少なくともあたしは特に気色悪さは感じていなくて、それよりもほわほわとした気分だった。

この二人のことをあたしは知っている。かつて「好きな人ができた」という彼女の事情で一度別れたカップルだった。それが今、またまた彼女からの話で縁を戻すことになったらしい。まあずいぶんと身勝手な女だなというのが正直な感想ではあるけれど。男の方はそれで全く幸せそうだから別にいいのだろう。彼らの今後など、あたしには関係ない。

そう、嫉妬でも羨ましさでもなんでもなかった。ただ、疲れた。それに、なんとなく、もうあたしはここにいる必要はないなと不意に安らかに思ったんだ。


だから話に一区切りついた頃、あたしは彼氏の男の魂から出て行くことにした。ふわりと、空気に染み込んで。言わば幽体離脱だけれど、幽霊よりもあたしは無害で無意味だった。


外に出るとあたしは実体化していた。ショーウィンドウ越しに、もう一度彼らを見て、それから早足で歩き出す。パーカーの黒いフードを深くかぶった。お金を、払わないままだったな。



空っぽになるんだ、少なくとも今は。あたしはあたしに言い聞かせる。これまでのことは全部忘れよう。生まれた場所も、父親も母親も。今は、三時くらいだろうか。家出、はできないだろうけど今は、今だけは歩きたい。ひとまずは歩いて歩いて歩いて、それでこれまでのことを、本当に完璧に忘れてしまったのなら、僕はこのまま遠くに行こう。

方角は西に決めた。何故だかはわからない。日のある方に焦がれたのか。だが当分、ビルに遮られてその姿形は見つけられないだろう。わかるのは空の紫の気配だけ。それでも僕は確かに、西だと心の中で言って、十字路を曲がったのだ。



西へ、西へ僕は歩く。車や、はしゃいで帰る男子高校生と行き交った。いけない、思い出そうとしている。僕はもう一度フードに顔を埋める。西へと、歩き続ける。



途中で登り坂になった。とてもとても急な登り坂だった。ギネスか何か記録に乗せれらそうだ、そんなことを思った。それでも僕は歩調を緩めることはない。長い、長い。けれども、もしかするとこの頂点には素晴らしい景色が広がっているのかもと信じた。長い、長い。けれども、あそこに来たら頂点だろう。そう向かえども、何度も何度も裏切られる。暗くなっていく。その街は街灯もなかったから、そして僕は眼鏡を忘れてしまっていたから、上に行ったってもう何も見えないかもしれない。



それでも僕は上へ上へと登り続けた。その景色を見たら、すっきり諦めて、引き返せるかもしれない。それとももっと焦がれて歩き出してしまうかもしれない。ただその景色を見ないことには、何も選べない。だからせめて、ねえ、教えてほしいだけなんだ。



上へ、上へ。駄目だ。思い出してはいけないのだ。嫌だ、まだ。上に行きたい。このままじゃまた繰り返しだ。また、僕は、あたしは、




ああ今日も、頂上すら見つけられぬまま。





夢から、醒めてしまう。

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