死者の駅

羽月

死者の駅


弟が死んだ。


可愛い可愛い私の弟。三歳違いの気の弱い優しい弟。お姉ちゃん、お姉ちゃん、と小さな頃から私に懐いて、学校でいじめられては泣きついてきた、たった一人の弟。


真綿で包むように慈しんできたつもりだった。私だけが味方よと擦りこむように言い含め、愛おしんできたはずだった。でも。


弟は死んだ。自殺だった。


死体はバラバラだった。電車に飛び込んだからだ。はにかむ笑顔が可愛い顔も、器用に絵を描く手も、走るのが苦手な細い足も、全部バラバラで傷だらけ。血だらけで。生きている頃の面影を探すのも難しいくらい、ぼろぼろだった。


どうして? どうしてこんなことに?


ママと二人、むせび泣いた。こんな残酷な現実、認められない。夢であってほしかった。




――冬の寒さもまだ緩まぬ頃。弟は、死んだ。




***




パパは私がまだ幼い頃蒸発して、それからはママが女手一人で私たちを育ててくれた。感謝してる。おおざっぱでさばさばとした性格のママ。あの日から、すっかり変わってしまった。


口数少なく塞ぎ込み、どんよりと落ちくぼんだ暗い目をして酒を飲む。私が話しかけても返事がないか生返事か、時には当たり散らすように怒鳴られることすらあって、私は声をかけるのをやめた。ママにとっても弟は可愛い存在で、女である私よりもよっぽど、愛していたのはわかっていた。優しく甘やかな物腰に、パパの面影を見ていたのかもしれない。もしかしたら、親が子を愛する以上に、愛していたのかもしれない。


でも、それは私も同じだ。私だって弟を愛していた。あの弱々しい子を、忙しいママに代わって育ててきたのは誰だと思っているんだろう。ママの愛と、姉の愛と、女としての愛をもって、大事に大事に抱きしめてきたのは、ママなんかじゃない。私だ。私の方が、よほどあの子を愛していた。


あの子がいないすっからかんの二人部屋で、どれだけの時間泣いただろう。出しっぱなしの筆記用具、流行りの漫画、よれたままのシーツ、机の上に置き去りにされた黒のスマートフォン。全部全部そのまま。今にも、ただいま、と部屋の扉を開けてあの子が入ってくる気がする。姉さん、と私を呼んでくれる気がする。……でも、もう二度とそんなことはないんだ。涙はずっと涸れない。このまま溶けていなくなってしまえたらいいのに。




――気付けば、テレビで桜の開花予想が始まっていた。私たちを置いて、世の中は春になろうとしている。




***




学校を休みがちになって当初は、教師も友達も色々と声をかけてくれた。でもそれも段々と遠くなって、陰鬱な家に閉じこもる時間が増えた。


ママはあんな状態ながら、仕事を続けているようだ。大人は大変だ。どんなにつらくても働かなくてはならない。ママにはまだ私がいる。一番好きではなくても、私だってママの子だ。養わなくてはならない、そんな責任感があるのだろう。そう、それはきっとずっと昔から。


――弟が私をそう諭す。今日も、黒いスマートフォンが震える。




『お姉ちゃん、お母さんを支えてあげて』

『二人が仲良くしてくれないと、ぼく悲しいよ』




それは、送られてくるはずのないメール。――死んだ弟からの、メッセージ。


最初は、ありえないと思った。誰かがいたずらでもしてるんだと思った。でも、ママと喧嘩した後や、私が学校を休んだ日に、まるで見ていたかのように届くメッセージに、ああこれは本当にあの子なんだとわかった。段々おかしくなっていく私たちを放っておけなくて、あの子は死んでからもずっと側にいてくれてるんだ。ああ、本当に、本当に優しい子。こんなに優しい子、私はあの子以外に知らない。こんなに優しいんだもの、間違いなく皆に愛されて、幸せになるしかない存在、だったのに。なのに。


「何で、どうして死んじゃったの?」


正気に戻れば戻るほど、悲しさが、やりきれなさが押し寄せてくる。行き場のない怒りが噴き上がって抑えきれない。……自殺するほどの何かがあった。その事実に思い至ってしまったから。


「ねえ、何があったの。いつもみたいに、お姉ちゃんに教えて? そうしたら、お姉ちゃんがあなたの敵をとってあげる。あなたを殺したやつを殺してあげるから……」


語りかければ、黒いスマートフォンが答える。


『そんなことしないで。それより、ぼくのそばにずっといてくれる方が何倍も嬉しいよ』

「だって、そばにいるって、あなたもう死んじゃったじゃない……」

『……そうだったね。お姉ちゃん、ごめんね』

「謝らないで。私こそ、ごめんね。ごめんね……」


 メールはそれきり止まってしまった。夜の暗がりの中、弟のスマートフォンの待ち受けで、私たち家族はありし日の笑顔を見せている。今はもう、失ってしまったもの。




――いつの間にか、桜は散っていた。世の中は春の気配に満ちているけれど、私の心は、ずっとずっと、冬のよう。




***




弟からのメールは少しずつ時間が空くようになっていった。時々メールが来ても、寂しそうな様子を見せるばかり。ああ、そばにいたならば、すぐにでもぎゅっと抱きしめて、一人じゃないよって一緒に泣いてあげられるのに。会いたい。会いたいよ。あなたは今どこにいるの? こんな画面越しでしか感じられないなんて。


「さびしいよ……」


話せば話すほど、さびしさが募っていく。あの子はまだいる。ここにいるのに。時間はどんどん進んでいく。あの子を置いて、先になんて進みたくない。愛してる、愛してるの。あの子がいない世界になんて意味はないと思うくらいに。


「会いたい……会いたいよ」


一緒にいたい。ずっとずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいたかった!


毎日のようにそう嘆いていれば、ついにあの子も口にした。


『……ぼくだって』




――ぼくだってさびしいよ、お姉ちゃん。


文字から滲むあの子の気持ちが、雨の音に紛れるように聞こえた気がした。




***




深夜の踏切はカンカンと鳴く。ひとの気配もまばらで、夜の空気の中、街が呼吸する音すら聞こえるようだ。


点滅、点滅。目を閉じていても、まぶたに突き刺すような光の明滅。鋭くなった聴覚に聞こえ始める車輪の音。


『お姉ちゃん』

「うん。すぐ行くよ」

『お姉ちゃん』

「うん。すぐだよ」


霧のような雨に、背中はしっとりと濡れている。でもそんなの気にならない。だって私はもうすぐに。


『……お姉ちゃん』


呼びかけられてそっと目を開く。線路の上で、あの子が笑っている。こっちに来てと手を伸べて。


「……ずっと一緒にいようね」


私はその手を取るために、足を前に踏み出した。




***




彼女は一人、真っ暗なリビングで頭を抱え俯いていた。日が暮れたことにも気付いていない。トイレに行くのすら忘れて、ただずっとそうしている。


彼女には子どもがいた。女の子と男の子、二人の子ども。若くして妊娠出産し、夫が蒸発してシングルマザーになり、毎日切り詰めるように生きてきた。苦労は山のようにあったけれど、自分の人生を悔やむこともあったけれど、それでも子どもの存在は生きがいだった。子どもたちのために生きてきた。明るくしっかり者の長女。気弱でおっとりした長男。二人の子を育てあげるまで死ねないと、そう気を張って生きてきた。けれどその気力は、ぷっつりと切れてしまった。




先に息子が死んだ。自殺だった。そして半年後、娘も死んだ。息子と同じ場所で、自殺した。




彼女には、もう生きがいはない。狭いながらも親子三人で暮らしてきた空間に、今はもう一人きり。


「ははっ……もう、私も、死んじゃおうかなぁ」


喉は乾燥しきってがさがさだ。涙を出す水分もない。きっとこのままでいれば、遠からず自分が発した言葉の通りになるだろう。でも、わずかに残る理性が邪魔をする。後を追ってもあの子たちには会えない。ここで死んだら迷惑がかかる。大人ってそんなんばっかり、と前に娘が口を尖らせていたのを思い出す。うん、そうだね。そんなんばっかりだ。こんな状態でも、忌引きが明けたらまた仕事にいかなければならない。家族が死んだって、悲しんで泣いてばかりいるわけにいかない。前を向け。一人でも生きろ。……誰も助けてはくれない。


「……どうやって、これから、一人で」


生きていけばいいのか。何も考えつかない。死にたい。死んでしまいたい。子どもを、家族を亡くして、一人きりでなんて、どうして生きていかなくちゃならないんだろうか。


「どうしたらいいの……」


呆然と囁けば、突然闇を裂くように、音が響き渡った。電子音。スマートフォンの着信音。


「……え?」


その音は、半年前になけなしの金で購入した家具から鳴っていた。……リビングの隅に置かれた、小さな仏壇から。息子の黒いスマートフォン。娘のピンクのスマートフォン。並べて置かれたそれらが、一緒に鳴っている。


「何……?」


恐る恐る近付けば音はやみ、ついで短くメールの着信を知らせる音。今度は自分の持つスマートフォンから。震える手でポケットのスマートフォンを取り出し画面を見れば、メールを知らせるマークが灯っている。確認した彼女は、雷に打たれたように大きく震え、その場に崩れ落ちた。


『ママ、ごめんね』


……それは、死んだ娘からのメール。


画面を見つめたまま息を乱していれば、再度メールを受信する。震えてうまく動かない指で画面を操作した彼女は、次の瞬間叫んだ。


『お母さん。ごめんなさい』




――亡くした子どもたちからのメール。それは、彼女の真っ暗な心にその時小さな火を灯したのだった。




***




――ねえ知ってる? と教室の隅で女子たちが数人集まって騒いでいる。




ねえ知ってる? 死者の駅のお話。

知ってる! あのちっちゃい踏切でしょ。四丁目の。

そうそう、そこ! あそこマジでヤバいんだって。

確か今年に入って三人亡くなってるんでしょ? 飛び込みで。

そう! しかもその三人、家族だったんだって。

マジ? それって後追いってやつじゃん!

え、それ何の話? あたし知らないんだけど。

え、知らないの?




ほら、四丁目の角のとこ小さい踏切あるじゃん……と一人が勿体つけて声を潜める。




うん、あるね。

あそこは、今まで沢山のひとが飛び込みしてるらしくて。怨念が住みついてるんだって。

怨念?

そう。それが次から次にひとを呼び込んでさ、狙われたひとは皆飛び込んじゃうんだって。

えー、怖い! 狙われるって?

飛び込んで死んだひとと関りがあるひとにメールがくるんだって。一度狙われたら、着拒しても無視してもダメなんだってさ……。

……絶対死んじゃうってこと?

……うん。




一拍後、やだマジ怖―い! と女子たちは大声を上げる。うるせーぞ! と男グループが注意すれば、うるさいなあと言った様子でそちらをねめつけ、けれどちゃんと声を落として話を続ける。




え。でもそれでなんで死者の駅? あそこ駅ないじゃん。

死んだひとたちが沢山溜まってて、まるで混んだ駅みたいだからってことらしいよ。

あ、あと、死にそうなひとにはその駅が見えちゃうって話もあるよ。

え、それ初めて聞いたし。

その駅から間違って電車に乗っちゃうと二度と戻ってこれないんだって……。

やだ、それ本当? マジ怖いし。




――噂話は尾ひれ端ひれを付けて自由に泳ぎ出す。女子たちも怖い怖いと言いながらネタとして話しているだけにすぎない。でも。


教室の隅で、一人震える少年。彼にとっては他人事ではなかった。


(しょうがなかったんだ……。だって相手は先輩だし。俺だって標的にされたくなんてなかった。いじめられたくなかった!)


八ヶ月ほど前。冬の最中。死んでしまった友人の、最期の顔を思い出す。諦めたように微笑んだその表情を。仕方なかったんだ、と心の中で叫びながら。


と、ポケットのスマートフォンが震える。大げさにびくっと跳ねた彼は泣きそうな顔でそれを手に取り、受信したばかりのメールを開く。


『なあ、いつになったらこっちに来るんだ?』


画面を見つめて固まっていれば、再度メールが届く。長い逡巡の後に少年はそれを開き、そして、もうやめてくれときつく目をつむった。




『ずっと待ってるからな』

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死者の駅 羽月 @a0mugi

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