第2話

 懐かしい夢を見ていた。

 彼は、時々『明晰夢』と云うものを見ることがあり、今回もだった。自分が夢の中にいることを認識しながら見ることができる夢。彼は、この明晰夢が大好きであり、大嫌いでもあった。


 夢の中でしか会えなくなってしまった人との邂逅は、目覚めた時の寂しさを深くする。それが分かっていても、毎回会いたい気持ちを抑えることができずに同じ行動を選択してしまう。目覚めた時に後悔させられることを知っていても止めることができない。


――また、この夢か……。このドアを開けた先には……。


 この夢のオープニングは以前に住んでいた家の玄関であり、ドアノブに手をかけたまま立ち尽くすところから始まる。夢の中と分かっていてもドアを開けようとする手は震えてしまっていた。ドアを開けなければ、ここで終わってくれるのかもしれないが、躊躇いながらドアを開けてしまう。

 ただ、今回はドアを開けた先の展開が、彼の知っているいつもの内容と全く違っているらしい。


 家の玄関には、見知らぬ10歳くらいの女の子が立っていた。

 しかも、その女の子は大粒の涙を流して泣いていた。長く艶やかな黒髪の女の子は、身に着けている物も飾り気がなく、全て黒色で統一されていた。泣き顔でなければ、この夢を明るいものに変えられていただろう。

 これから夢の中で起こることを暗示しているようで悲しくなってしまう。


「……えっ?……どうしたの?」


 予想外の展開に戸惑いながら、彼は声をかけてみる。しかし、女の子は泣いているだけで答えてはくれない。

 泣いている姿を見ているだけで悲しさが伝染してしまうような泣き方だった。


「……大丈夫?」


 女の子が泣いている理由が分からないのだから、慰める方法も分からない。ただただ戸惑うことでしか彼は現在の状況に対応できていない。

 膝をついて女の子の目線に合わせてから、落ち着くまで待ってみることにした。時間を経過させることでしか解決できなかった。


「……助けてあげられなくて……、ごめんなさい。」


 やっとのことで声を詰まらせながら女の子は言葉を絞り出してくれたが、この声にも聞き覚えはない。言い終えた後も、鼻を啜る音が響いている。

 夢は記憶から作られているはずだが、記憶にない存在を作り出していることになる。そうでなければ忘れているだけかもしれない。


「……助けてあげられなかったって、誰のこと?」


 彼は出来るだけ優しい声で、女の子に問い掛けてみた。忘れているだけであれば、早く思い出してあげなければ可哀想だ。


「……アキト。」



「えっ!?……俺?」


 泣き顔のまま、女の子は頷いた。

 女の子が口にした名前は暁斗。月城暁斗は夢を見ている本人のことだ。

 見ず知らずだと思っていた女の子は彼のことを知っていて、彼を助けられなかったことに責任を感じて泣いているような口振りである。暁斗は、この子のことを忘れている可能性が高くなっていた。


 眠りにつく直前に聞こえてきた声と女の子の声は全く違っている。もし同じだったとしても声の主を目にしていないのだから、夢で再現することができるはずはない。

 眠る前の記憶で死にかけていたことは覚えていたし、今居る場所が夢の中であることも分かっている。声の主が助けてもらえるものだと信じて眠りについていたが、暁斗は結局助からなかったのかもしれない。


 多少の混乱はあったが、あれだけの傷を負っていたのだから仕方ないと諦めてしまっている気持ちもあった。


「……俺は、死んだのか?」


「ううん。……死んではいないよ。……でもね、別の世界で生きていかないといけないの。」


「……別の世界で……生きていく?……どういうこと?」


「あのね、アキトが助かるためには元の世界ではダメだったの。……だから……。」


「別の世界って……。異世界でなら生きていけるってこと?」


「……たぶん、そう。」


 生きていることが分かって安心して良いのか、微妙な話になってきている。生かされるための条件は『別の世界へ転移』されることらしい。

 アニメを見たり、小説を読んだりする機会が極端に少ない暁斗でも『異世界モノ』の存在は知っている。だが、自分がその対象になることは予定外の出来事でしかない。


「元いた世界では、助けてあげられなかったの……。」


「……異世界でなら、生きていけってこと?……それが助かるための手段なら仕方ないとは思うけど、また戻ってこれる可能性があるかもしれないだろ?」


「分からない……。でも、戻ってほしくもないの……。」


「えっ?……どうして?」


「……その理由はアキトが一番分かってるはずだよ。」


 暁斗は死にたくないと望んではいた。生きて、現実世界でやらなければならないことが残されている。今まで生きていた世界でやり残したことは、異世界で実現することが出来ない。

 それでは残りの人生を異世界で終えてしまうことなってしまい、意味がない。生きていることに意味がないとまでは言わないまが、生きる目的の大半以上が失われてしまう。


 だが、女の子が戻ってきてほしくない理由は、暁斗が現実世界で果たしたいと願う目的そのものにあることは薄々理解していた。


「……だから、俺を異世界に送るのか?」


「違うよ。……向こうの世界にも行ってほしくはなかったの。……でも、生きていてもほしかったの。」


 元の世界にも留まってほしくはないが、異世界にも行ってほしくない。どちらの世界にも居場所がなくなってしまうが、暁斗には生きていてほしい。女の子の話は矛盾だらけになってしまっていたし、女の子自身もそのことで少し混乱していた。

 小さな子どもが葛藤して苦しんでいる姿は見ているだけでも辛い。


 言い終えた女の子は再び泣き出してしまった。


「ごめんな。……それでも、生きている限り、俺は願いを実現させることしか考えられない。目覚めた場所が異世界だったとしても、必ず戻ってきたいんだ。」


 暁斗が言い終えると、夢の世界は崩壊を始めていた。

 夢の世界の背景として存在していた張りぼての家は、少しずつ溶け始めて暗闇へと変貌していく。

 背景が黒くなっていくと、女の子の身体も一緒に闇に溶け込み始めていた。


「……待って!キミは誰なんだ?……何を知ってるんだ?」


 女の子は泣き笑いの表情を暁斗に見せただけで答えてはくれない。無理して笑顔を作っているだけの表情から悲しさは消えておらず、そんな表情を見せている女の子を問い詰めていくことが暁斗には出来なかった。


 記憶の中に存在していないが、夢には登場している不思議な女の子。ただ、暁斗を心配してくれていることは伝わってきた。

 この子のことを忘れているだけであれば、思い出してあげたい。


――どんな世界でも生きてさえいれば、この子ともまた会える。


 この夢は終わりではなく、始まりを意味しているのかもしれない。目覚めた時に混乱が少なくなるように、辛い気持ちを我慢して夢にまで出てきてくれた女の子であれば、暁斗に寄り添ってくれる存在のはず。

 漠然とではあるが、助けが必要になった時に再び会える予感がしていた。名前は、その時にでも聞けばいいこと。


――とにかく、異世界でも生きているなら望みはあるはずだ。


 そして、暁斗も女の子が溶け込んでいった闇と同化していき、夢の終わりを覚悟した。

 今は『死なずにいられる』ことだけで十分だった。



―※―※―※―※―※―※―※―※―



 目覚めた暁斗は見慣れない天井を眺めていた。それでも彼が慌てることはなかった。


 違う景色が見えているはず――と思ってはいたが、彼なりの比喩的な表現でしかなかったはず。だが、暁斗が見ている景色は本当に異質な物に変わってしまっていた。

 夢の中で示唆されたように、ここが『異世界』であるかはどうかは別にして心の準備は出来ていたことになる。


 周囲の明るさから夜ではないことが分かっている。夜が明けていたのか、ここが夜ではなかっただけなのか。


「……目覚めたんですね。」


 目覚めたばかりの彼に声がかけられる。彼は声がした方向へ顔の向きだけを変えると、彼の眠っていたベッドの傍らには椅子に座った少女の姿があった。


 十畳ほどの室内は簡素な造りで、いくつかある調度品も含めて古風な雰囲気で統一されている。中世ヨーロッパ風とでも表現すべきなのだろうが、暁斗は中世のヨーロッパを知らないので適当ではないかもしれない。

 海外旅行未経験者の暁斗からすれば、こんな部屋で眠れていたことに思いを巡らせながら微睡みの時間を楽しんでいたかった。


 だが、この部屋に違和感なく溶け込める少女の存在が、微睡みの時間の邪魔をする。

 赤い髪と赤い瞳の少女は、『この世界』の住人なのだろう。夢の中で泣いていた女の子とは別人だ。

 外見だけで判断する年齢は15、6歳くらい。黒いレトロ調のワンピースを着て、凛とした表情で大人っぽく見せる演出はされていたが、滲み出る幼さまでは隠せていない。

 

「……えっと、キミは?」


 彼の質問に対して、首を横に軽く振る少女。肩まで伸びた赤い髪が揺れて綺麗だった。


「今、私がお答えできることがないので、体力の回復に専念して休んでいてください。……傷口は塞いでありますが、かなりの出血があったのは事実なんです。」


 現状、夢の中で聞かされたことの真偽を確かめさせてくれる存在は他にいない。この少女に質問を拒否されてしまえば打つ手がなくなってしまう。

 それでも少女から事務的に発せられた言葉が、暁斗の記憶に残された出来事と一致していた。


――『傷口』、『かなりの出血』。……間違いなさそうだ。


 視線を少女から見慣れない天井へと戻して、それほど遠くない過去の記憶を辿る。


 片足を引き摺るようにして歩く独特の足音を聞いた。何日もかけて探し続けていた足音であり、その音で我を忘れてしまった暁斗は後先を考えずに尾行を開始してしまう。

 絶対に離されないように足音にだけ集中し過ぎていたのかもしれない。人気のない場所に誘い込まれていることも気付かずに追い続けてしまう。

 そして、追いかけていた足音が突然途切れてしまった。焦りから周囲の状況を確認することも忘れて、暁斗は走り出してしまっていた。

 

 あとは、狭い路地で角を曲がった瞬間、背後から刺されて死にかけた。

 それだけの記憶でしかない。



「……生きてはいるんだよな?……それとも、ここは死後の世界?」


 少女が何も答えてくれないのであれば、暁斗の独り言になってしまう。


「こんな状況じゃ、休むことも出来なんだけど……。少しは質問に答えてくれないかな?」


 天井から再び少女の方へ視線を向けた。彼が目を覚ますまでの時間、少女は本を読んで時間を潰していたのだろう。膝の上には分厚い本が置かれていた。

 彼の問い掛けに答えてはくれなかったが、開かれた状態のままで置いていた本に栞を挿み、本を閉じた。どうやら、彼の質問に応じてくれる気持ちはあるらしい。


「……ありがとう。……お互いの名前くらい知っていないと、不便だと思うんだけど。……どうかな?……ちなみに、俺の名前は月城暁斗。」


 暁斗が一方的に自己紹介を終えると、少女は短い沈黙の後で、


「……私はメイアです。」


 名前を教えられただけではあるが、これで一つの事実は確認出来る。暁人の身近に、そんな響きの名前を持った知人はいない。


「……メイア、さん。……そっか。」


 そっか――が意味しているのは、元いた世界ではない可能性が高まっていること。ここが異世界であれば『メイア』という名前に違和感を覚えるのは暁斗だけだ。寧ろ、『月城暁斗』の方が不自然な名前になってしまう。


「俺を助けてくれたのは、メイアさんなの?」


 暁斗は聞く前から答えが分かっているので、これも単純な記憶の確認に過ぎない。朦朧とする意識で死を覚悟した時に聞こえてきた声は、間違いなくメイアの声と同じだった。


「……はい。」


 メイアの声には緊張が含まれている。

 暁人は、助けられる時にメイアが『赦して』ほしいと言っていたことも覚えている。

 死にたがっている暁斗を助けてしまったと思い込んでいるメイアが、この質問に緊張していても仕方ない。暁斗から『どうして助けたんだ』と責められることも想定していたのかもしれない。


「……そうなんだ。……ありがとう。」


 暁斗が死にたがっているとメイアが勘違いした理由まで分からない。それでも、素直に感謝の言葉を伝えるだけに留めて、余計なことは触れないことにした。

 意識を失いかけている暁斗が、メイアの言ったことを知っているのは気まずい感じがしたこともある。


「それで、ここは何処なの?」


 メイアが答えられない範囲の質問になっていたのかもしれないが、暁斗はあらかたの答えを知っている。知ってはいても、確認するまでは信じられないことも多い。

 暁斗の問いかけの後、メイアが再び口を開くまで少しの時間を要した。

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