異世界ダメ勇者の英雄譚は接待まみれ
ふみ
第1話
――ダメだ…………、意識が……。
刺された脇腹の傷口からの出血で、意識を保っていることさえも難しくなってきている。
――痛み、感じない……?
命の危険を報せるために、人体の仕組みとして痛みを感じる。痛みを感じなくなったのであれば、命の危険を報せる必要がなくなったのかもしれない。
背後から刺されており、傷口を直接見ることは出来なかった。それでも傷口を押さえていた手の平から伝わる生温かさが、絶望的な状況にあることを理解させてくれた。
治療されてもいない状態で命の危険を報せる必要がなくなったのであれば、手遅れであることを意味しているのかもしれない。
――死にたく、ないな。
彼が無意識に想うのは、『死にたくない』という願いだった。そこには、『生きていたい』という前向きな願いは含まれておらず、『死にたくない』だけの願い。
人間の身体は、血液と臓器を収めておくだけの入れ物に過ぎないのだから、その役割を果たせなくなれば朽ち果てていくのみ。
全血液の三割以上が短時間に失われると命に危険が及ぶらしい――が、自身に流れる全血液量を把握した状況で、失われた血液量を正確に測っていなければ有益な知識にはならない。
応急処置として手で圧迫していたとはいえ、僅かに延命するだけの悪足搔きに過ぎなかった。
「……ごめんなさい。」
夜11時過ぎの路地裏で彼の言葉が届く範囲には誰も存在していない。残り僅かな体力では、誰かの耳に届くほどの大声を出すことも出来ない。
「ごめん……、なさい。」
誰にも届かない謝罪の言葉に体力を使っている場合ではなく、この絶望的な状況を打開する努力をすべきだった。それでも、こんな状況で謝罪の言葉しか出てこない。
――結局、何も出来なかったんだ。
刃物で刺されたのは彼であり、間違いなく被害者として訴えを上げることが出来る立場だった。被害者だったにも関わらず、彼は助けを求めることなく、無為に時間だけを消費してしまう。
――『殺意』を持っているだけじゃ、ダメだった……。
彼は明確な『殺意』を持って、ある人物を尾行していたが返り討ちにあってしまった。
例え救助されたとしても、刺された理由を正直に説明することも出来ず、次のチャンスを逃すこともしたくなかった。
今となっては、ただそれだけの理由で助けを求めなかったことになる。
――刺してきたってことは、やっぱり『アイツ』で間違いなかったんだ。
尾行していた彼に気付いて攻撃してきたということは、疚しい気持ちがあった証拠だ。返り討ちにあってしまった身体には、その証拠が刻まれている。
――アイツも慌てて立ち去ったみたいだし……。
何かを叫んでいたようだが、激痛に耐えていただけの彼が正確に聞き取ることは出来なかった。ただ、『男』の声であったことだけは確実に記憶している。
せめて、バッグに入れて持ち歩いていたサバイバルナイフを取り出せていれば、一矢報いることは出来たのかもしれない。殺意があっても経験がなかった彼には、咄嗟の行動を取れずにいた。
――もう、やめよう。誰も汲み取ってくれない想いを残すなんて意味はないんだ……。あとは警察にでも、任せればいい。
何も出来なかったことに対してだけの後悔ではなく、『アイツ』に殺されてしまうことが悔しい。『アイツ』を警察に任せてしまうことが情けない。
生きている間、死の存在は近づいてくるだけで遠ざかってくれることは絶対にない。普段の生活では近づく速度が遅すぎて気付くことはないが、存在を意識した瞬間に猛烈な速度で距離を縮めてくる。
その死を近付けたのが、『アイツ』であることが許せない。
――でも、もう終わったことだ……。
目を閉じて、視覚から入ってくる情報を遮断することにした。
すぐに真っ暗な世界が広がって、余計なことを考える時間もないままに彼の意識を連れ去ってくれそうだった。
可能性は低いが、このまま眠ってしまったとしても再び目覚めることだってあるかもしれない。目覚めることさえ出来れば、また日常が戻ってくる。――そんな微かな期待でもなければ、この状況を受け入れることが出来そうになかった。
覚悟を決めたつもりでも、恐怖だけは残ってしまう。
心地良い眠りは、目覚める確約が前提となっている。目覚めることの出来ない眠りは、ただ恐怖を与えるだけでしかない。
それでも彼を包んでいる闇は、その恐怖さえも覆い隠してくれて穏やかな気持ちにさせてくれた。
――!?
闇と一体化する直前に、彼の頬は温もりを感じる。
――誰か……、いる?
一瞬、彼を刺した相手が戻ってきたのかと思ったが気配が違う。そもそも、死を待つだけの人間のもとに危険を冒して戻ってくる意味はない。
誰かの手が頬に触れている感覚だけが、確かに伝わってきていた。
全身の感覚は既に失われたと思っていたが、今の彼は人の持つ柔らかさと温もりを鋭敏に感じることが出来ている。
――まだ、死んではいないのか。
瞼は只管に重く、目を開けて確認することはままならない。それでも、肌から伝わってくる感覚は人の存在を教えてくれる。
「……貴方にとって、生きていることが苦痛だとしても、私は貴方を助けたいんです。」
闇の中でもハッキリ聞こえる澄んだ声だった。
この場に他の人間がいることに恐怖を感じることはない。彼に語り掛けてくる声は、優しさに溢れていた。
――生きていることを苦痛に思っていた?
彼の頬に触れていた手が動き、指先で目元を拭ってくれているようだった。彼自身、気付かないうちに涙を流していたのかもしれなかった。
「
何を赦せと言うのだろうか――助けてくれるのであれば、赦しを乞う必要などないはず。聞こえてくる言葉の意味が彼には分からない。
得体のしれない誰かではあるが、この瞬間も彼の死の接近を妨げてくれている。
――また、目覚めることが出来るかもしれない……。
諦めかけていた命が繋がるかもしれない。僅かに希望の光が差し込んでくた。
そして彼は意識を保つ限界を迎えて、眠りについた。誰かも分からない声の主に全てを委ねて眠りにつくのだが、何故か不安はない。
再び目を開けた時、彼が見ている景色は違っているはず。そんな期待させ抱かせてくれた。
――次は、必ず……。
同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。彼の願いは1つだけであり、その願いを叶えるためだけに生かされていると信じていた。
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