第4話

 中野翔太と宮崎紗弥加はハグフレンド。

 寂しいときに抱き合うだけの都合のいい関係。

 恋人ではなく、ただの友達だ。


 その日までは。

 歪みに歪んだ二人の関係は決して元に戻ることはない。

 今までずっと積み重ねてきたものは、一夜にして壊れていくのだ。

 友達の家に泊まりに行くという経験が俺にはない。

 なので、人の家でシャワーを浴びることもなかった。見慣れないバスルームに俺は緊張していた。


 いや。

 この緊張の本当の理由は、どちらかというとこのシャワーの先にある。

 俺は頭からお湯を浴びながら、さっきのことを思い出す。


『セックス、する?』


 耳を疑った。

 何かの聞き間違いかと思ったけれど、そうではなくて、あの時確かに宮崎はそう言った。

 俺が驚いた顔で宮崎を見ると、彼女は洗い物に視線を落としながら言葉を続けた。


『童貞とか捨てちゃいたいんでしょ?』


『あ、いや、まあ』


 童貞であることを恥だと言った。

 ニュアンス的には確かに童貞卒業を願っているような発言だったかもしれない。

 でも、だからと言って、俺は別にそんなつもりで言ったのではなくて。


『私も、やっぱり処女は捨てときたいし』


『でもお前……そんな誰でもいいから捨てようみたいなことは』


 俺が言うと、宮崎は大きく溜め息をついて水道を止めた。そしてスタスタとこちらまで歩いてくる。


『別に誰とでもいいとか思ってないよ。中野なら、いいかなって』


『でも』


『それとも、中野は私じゃ嫌?』


 そして。

 俺はその質問に否定の意を込めて首を横に振った。

 あとは、別に何てことはない。嫌じゃないならいいじゃん、みたいな感じで流されて、俺はシャワーへと案内された。


 俺は今日、童貞を捨てる。

 しかも相手は宮崎紗弥加。密かに思いを寄せ続けている意中の相手。

 でも宮崎は俺のことを好きではない。友達として、心の底から気を許してくれているのだと思う。


 けれど、彼女の気持ちは俺に向いていない。

 好きな人のために処女を捨てようとしている。その為に俺を使っていると言ってもいい。


 本当にこのままヤッてもいいのだろうか。


 それが彼女のため?

 どんな形であっても、彼女を支えたいと思った。だから何度も彼女を抱きしめた。

 その延長線のような形で、体を重ねてもいいのだろうか。


 考えれば考えるほど、その答えは遠のいていく気がした。


「……はあ」


 俺はシャワーを止めて溜め息をつく。


「タオル置いとくね」


 脱衣所から宮崎の声がした。俺はそれに返事をして、もう一度盛大に溜め息をつく。

 このままここにいても何も変わらないし、解決しない。とりあえず出るか。


 俺は立ち上がり脱衣所へと出る。置かれていたタオルで体を拭いて、パンツとシャツ、ズボンを履いてリビングに戻った。


 服を着たのは、俺がまだ悩んでいるからだ。その決心がつかずに揺れている証拠だった。


「上がったよ」


「あ、うん。お茶入れといたから」


 テレビもつけずにスマホをいじっていた宮崎がこちらを向きながらそんなことを言う。

 リビングのテーブルにはお茶の入ったグラスが一つ置かれていた。


「ありがと」


 俺がテーブルの方へ行くと、宮崎はよっこいしょと立ち上がる。


「それじゃ、私もシャワー浴びてくるからお茶飲み終わったら私の部屋にいて」


「あ、おう」


 それだけ言って、宮崎はリビングを出ていった。

 彼女の言葉から、雰囲気から緊張とかは感じられない。深く考えることはせず、本当にただの通過点くらいの気持ちしかないのかもしれない。


 俺は用意されていたお茶に口をつけて、もう何度目かも分からない溜め息を吐いた。


 性行為。

 本来は子孫繁栄、子づくりのために行われる行為。けれど性欲を満たすためのものでもある。

 セックスは好きな人と愛を確かめ合うための行いだ、という考えがもう古いのか?


 いや、そもそも。

 俺は宮崎のことが好きなんだから、何もいけないことはないじゃないか。彼女もそれを受け入れていて、悩むことなんて何もない。


 気になっているのは彼女の気持ちが俺に向いていないことだろう。

 好きであっても、好き同士ではない。そんな中途半端な状態で行為をしてもいいものか。


 残されたお茶を飲み干しながらスマホをいじる。恋人ではない相手と性行為をする人は少なからずいる。

 それはただ性欲を満たすだけ。

 考え方的には自慰行為の延長くらいなのだろう。


「……深く考える必要ないのかな」


 好きな相手で童貞を卒業できる。

 それだけじゃないか。

 セックスはスポーツだ、なんて意見もあるわけだしこうしてネチネチと考えている方がおかしいのか。


「よし」


 俺は飲み終わったグラスを洗い、宮崎の部屋に向かう。ドアを開けようとして、一瞬躊躇う。

 勝手に入っていいものかと思ったけど入っててと言われたし、いいだろう。


 中に入り、とりあえず床に座る。

 宮崎が来るまでの時間は長く感じた。もう随分待ったなと思い時計を見るとまだ五分しか経っていなかった。


 スマホで初体験のこととかを調べて時間を潰す。まさかこんな感じでセックスすることになると思ってなかったので、何も考えてない。

 やはり相手も初めてな以上、男がリードするべきだよな。

 とりあえずマニュアルじゃないけど簡単な順序くらいは復習しておくか。


 そう思った瞬間。

 ガチャリ、とドアが開けられた。


「おまたせ」


 お風呂上がりで上気する頬、微かに湿る髪、潤む瞳が俺を見つめている。


「いや、全然。ていうか、何で制服?」


 シャワー浴びたんだから、部屋着に着替えればいいのに。わざわざ制服を着直さなくてもよかったのでは?


「いや、中野が制服だし。こっちだけ部屋着ってなんか変かなと思って」


 変なとこ気にしてるな。しかも俺上は普通のシャツだから制服かと言われると微妙なところだ。


「そっか」


「うん」


 何かちょっと気まずい。

 これからやることやるんだよなと思うと何を話していいのか分からない。


「えっと」


 この後どうしたらいいんだろ、こんなことなら常日頃からセックスのシミュレーションをしておけばよかった。

 それはそれでキモいけど。


「こっち座りなよ」


 ぼふっと、宮崎がベッドに座ると少しだけ揺れる。そして自分の隣をポンポンと叩いて俺を招いた。


「……あ、ああ」


 あそこに座れば、もう後戻りはできない。

 それを分かっていながらも俺は立ち上がり、一歩一歩そちらへと向かう。

 結局本能には抗えない。


 宮崎からほのかに香るシャンプーのにおいが、俺のどきどきを加速させる。

 お風呂上がりだからかいつもより少し艶めかしく、大人っぽい。俺はその色気に誘われるように彼女の隣に座った。


「本当にいいのか?」


 俺は最後の確認をする。

 こんなことを聞くのはデリカシーがないとか言われるかもしれないが、これだけはきちんとしておきたい。

 多分、俺は行為が始まれば自分を抑え込むことはできない。後戻りはもうできないを

 だから彼女の本当の気持ちを聞いておきたい。


「うん。いいよ」


 彼女の揺れる瞳が徐々にこちらに近づいてくる。少し動けばいい香りが漂い、俺の気持ちを高まらせる。

 宮崎が目を瞑る。


 それを見て、俺も目を瞑った。


「……ん」


 そして。

 俺と宮崎は唇を重ねた。

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