#20 グランパズ・バックヤード

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シャロンは祖父の家に戻っていた。そこへ、マンハッタンのリンジーから行き先を聞いたキースがやってくる。互いに自分の非を認め、許し合うキースとシャロン。そんなふたりを〈グランパズ・バックヤード〉(おじいちゃんの裏庭)が優しく包むのだった。


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 庭に響くエンジン音は、シャロンとジェフの耳にも聞こえていた。

「どうやら来たようだ」

「私の部屋に通してね」シャロンはそう言って、自室へと消えた。

 ノック音が聞こえ、ジェフがゆっくり玄関へ向かう。ドアを開けると、苦悩の表情を浮かべたキースが立っていた。

「キース・ベイカーと申します。シャロンさんはいますか」

「あなたが来るのを待っていました。さあ、お入りください」

 ジェフはキースを招じ入れ、シャロンの部屋へと案内した。ドアは開いたままで、ベッドの端に腰かけ、入り口に背を向けているシャロンの姿が見えた。

 ジェフに背中をそっと押され、キースは室内に足を踏み入れた。

「シャロン、きみに謝りたい」そう言って、シャロンのとなりに座った。

「あんなことを言って悪かった。許してくれ」

 キースはシャロンが反応の見せるのをじっと待った。

「すごく傷ついたけれど、私も余計なことを言ったわ」シャロンはようやくキースのほうに顔を向けた。

「いや、きみは悪くないよ。本意じゃなかったとはいえ、あんなことは言うべきじゃなかった」

 シャロンはキースの目を見た。ブルーの瞳が鮮やかに澄んでいる。シャロンは心からきれいだと思った。

「もういいの、気にしてないわ。でも、まだ教えてもらっていないことがある」

「投資の件だね」

「ええ」シャロンの表情が少しだけ厳しくなった。「最初にここに飛行機で送ってくれたとき、シェールガスのことを言ったわよね。あのときはもう知っていたんでしょう。どうして黙っていたの?」

 シャロンは目を潤ませながら続けた。

「ここが私の大切な場所だと知ったあとも、何も話してくれなかった。でも、ずっと私にやさしかった。そのギャップがどうしても埋まらないの」

 その頬を涙がゆっくりと伝っていく。キースは罵声を浴びせられるよりもつらかった。

「言い訳になってしまうが、それでも聞いてほしい」キースは絞り出すように言った。

「まえにも言ったように、映画をつくるには莫大が金がかかるし、失敗すれば巨額の損失を被ることになる。だから実務家のフィッシュを雇って、有望な投資先があれば積極的に金を投じさせてきた。だが今回は、僕の判断で手を引くこともあると最初から伝えていたんだ。僕だって、シェールガス掘削に反対する人が大勢いることぐらいわかっていたよ」

 キースは涙に濡れたシャロンの瞳を見つめた。フィッシュに押し切られ、判断を先送りにしたばかりに、シャロンをここまで追い込んでしまった自分の弱さを呪いながら。

「最初は映画への影響だけを怖れていた。もし僕の会社が出資していることが世間に知れたら、風当たりが強くなるからね。ところがきみに出会い、きみのおじいさんがここに暮らしていること、きみがここで育ったことを知った。余計に悩んだよ。すぐに手を引くべきじゃないかと」

「じゃあ、なぜしなかったの? せめて、話してくれてもよかった。私は毎日あなたのそばにいたわ」

 その言葉が、キースの胸に深く突き刺さった。

「有望な投資先を手放すことが怖かったんだ。この世界に入ってから、倒産する映画会社をいくつも見てきた。どんなに映画をヒットさせても、どんなに資産が増えても、安心できない。父の姿がいつも脳裏をよぎるんだよ。本当の僕は弱いのさ、臆病なんだ」

 その告白に、シャロンは衝撃を受けた。人を引っ張り、物事を即断し、必要なものには惜しみなくお金を投じるキースが、自分のことを弱くて臆病だと言うなんて……。私はこの人の心の傷に気づいてあげられなかった。自分のことしか考えていなかった。キースのやさしさに甘えていたのだ。

 シャロンはそっとキースの手に手を重ねた。

「私の父は母に暴力を振るったわ。私はまだ小さかったけれど母に味方し、そんな私を父はきらうようになった。母は心身ともに打ちひしがれ、それがもとで亡くなった。私は祖父に引き取られ、この家で暮らし始めた。おじいちゃんとここの自然が、傷ついた私の心を癒してくれたの。まえに話したように、ルービンによってまたズタズタにされてしまったけれど」

 シャロンはキースを見つめた。紺碧の瞳の向こうに、本当のキースの姿を探し求めるかのように。

「あなたも私も、ある意味では似たものどうしなのよ。でもあなたは弱い自分を隠し、やさしさと包容力で私を受け止めてくれた。私の心を解き放ってくれた。でも私は、あなたが私にとってどういう人かばかりに気を取られ、あなたの心の奥底を見ようとはしなかった」

 シャロンが顔を伏せると、キースは右の手の甲に置かれていたシャロンの手をしっかりと握りしめた。

「そんなことはないよ。きみが僕に何かを言ったり、僕のすることに戸惑いを見せたりするたびに、いろいろ考えさせられた。僕の映画づくりに対してきみが言ったことはまちがっていない。だから激昂してしまったんだ。きみは僕を変えてくれているんだよ」

 キースは両の手でシャロンの肩をしっかりとつかんだ。

「今回の投資は止める。遅きに失したが、このまま押し進めるよりはいい」

「でも、計画はもう動き始めているんじゃ――」

「大丈夫。手は考えてある」

 キースの目に、力強さが戻っていた。


       *


 寝室から姿を現したふたりを見て、ジェフは問題が解決したことを悟った。

「キースを庭に案内してくるわ」

 孫娘の言葉に、ジェフが穏やかな表情でゆっくりうなずく。シャロンは玄関を出ようとしたときに足を止め、振り返って言った。「ありがとう、おじいちゃん」

 ふたりが裏庭に入ると、キースはあたりを見まわしながら「ここがきみの原点なのか」と感慨深げに言った。

「そうよ、名付けて〈グランパズ・バックヤード〉。いい感じでしょ?」

「ああ、心が休まるよ」

 さまざまな花や植物が密集するなか、ぽつんと離れた一区画だけ、土が露出している。周囲には木も草花も植えられていなかった。

「ここだけ何もないのはどうして?」

「そこはひまわりの場所。一年草だから、秋になると枯れてしまうのよ。ひまわりは土の養分を吸い上げる力が強いし、日当りがよくないといけないから、特等席を用意してあるの」

「きみの花でもあるしね」キースは笑った。

「知ってる?」シャロンが続ける。「ひまわりの花は太陽みたいな形をしたあの大きな花がひとつの花に見えるけど、じつはそうじゃないの。まわりの黄色い花弁のひとつひとつが独立した花びらで、中央の丸い部分にはおしべとめしべだけが密集している。つまり、たくさんの小さな花が部位ごとに分かれて集まって、大きな花のように見せてるわけ」

「それは知らなかったな」語り終えてなお目を輝かせているシャロンを見て、キースは微笑ましく、愛おしく思った。やはりこの目を、このひまわりの瞳を曇らせてはならない。この庭を守ってあげなくては。


       *


 ふたりが家に戻ろうとすると、ジェフが玄関から出てくるところだった。

「シャロン、私は出かけるよ。友人からビリヤードの誘いがあった。あいつらのことだから、今夜は帰してもらえないだろう」

「わかったわ、いってらっしゃい」

 旧式のピックアップトラックに乗り込む祖父の姿を見ながら、シャロンは思った。夜どおし遊ぶなんてしたことがないのに。私たちのことを気づかってくれてありがとう、おじいちゃん。

 するとキースがトラックに歩み寄った。

「掘削計画は僕のほうでなんとか阻止します。今さらですが、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 ジェフは小さくうなずき、口を開いた。

「それより、あの娘のことをよろしく」

「わかりました」キースは力強く答えた。


 夜、シャロンがつくったポットローストを食べ終えたふたりは、ワインを飲みながら語らった。ヤングスヴィルの静けさはビバリーヒルズのそれとはちがい、緑と大地があらゆる物音を吸収しているかのようだ。狂おしいばかりの虫の鳴き声だけが、引きも切らずに響いてくる。

「おじいさんに言われたよ。きみのことをよろしくと」キースが言った。

「夜どおし遊ぶなんてしたことないのよ、おじいちゃん」シャロンの口調には、祖父への愛情がにじんでいた。「あなたのことを悪い人だとは思えないって言ったの。私を追いかけて、ここに来るはずだってね。すべてお見通し。かなわないわ」

 キースは黙っていた。と、ゆっくりと立ち上がり、シャロンの背後にまわった。「立って」

「何?」シャロンが正面を向いたまま言った。

「立つんだ」やや命令口調めいた言葉にシャロンが腰を浮かせると、キースは椅子を引いて脇へ押しやり、シャロンを振り向かせてキスをした。熱く、長いキスだった。シャロンもそれに応じた。

 唇を離すと、キースはシャロンの肩と膝のうしろに腕をまわし、その体を勢いよく抱き上げる。そして確固たる足取りで、寝室へと向かった。

 静かにシャロンの体をベッドに寝かせると、キースはふたたび唇を重ねた。貪るようにたがいを求め合った。やさしくも激しい愛撫を全身に浴びながら、シャロンは無我夢中でその手をキースの体中にはわせた。頭に、首筋に、背中に、腰に。そのどれもが熱く、愛おしかった。全身でキースを感じていた。

 やがて心身の境目が消えてなくなり、浮遊のなかでキースを受け入れた。


       *


 翌朝、目覚めるとベッドのなかにキースの姿はなかった。

「キース?」大声で呼んでも返事がない。シャロンはバスローブを羽織ると寝室をあとにした。リビングにもいない。表へ出て裏庭にまわると、キースのうしろ姿が見えた。

「ここにいたのね」

 キースが振り返った。

「おはよう、シャロン。ちょっと考えごとをしていたんだ」

 朝陽を浴びたその顔は、とても穏やかだった。晴れ渡っていた。

「何かいいアイデアでも思いついたの? 名監督さん」

 シャロンがゆっくり近づくと、キースはその手を取って言った。

「この庭にインスピレーションをもらったよ。今度の映画は全面的に変えることにした。不仲の両親を持つ男の子を主人公にしたアニメーションさ。唯一の逃げ場である裏庭から、植物の別世界に迷い込んでしまうファンタジーだ。少年の成長と家族愛がテーマになる」

「素敵だわ。私とあなたの映画ね」

「そう。環境問題を扱えば売れるだろうとか、そういう邪心は一切ない。心にストレートに響く映画にするよ」

「新たなキース・ベイカーの誕生ね。でも――」シャロンは言い淀んだ。

「でも、なんだい?」シャロンが躊躇しているの見て、「もう怒ったりしないよ」とキースは笑った。

「あなたがアニメをつくるのが意外だなと思って。このまえの口ぶりから、きらいなのかと思っていたから」

「実写で一から始めるとなると、時間がかかる。会社のスケジュール上、公開日は変えたくないんだ。この映画は家族づれに見てもらいたいしね。それに――」

「それに?」

「じつを言うと、僕はディズニーも日本のアニメも大好きでね」

 照れくさそうにしているキースを見て、シャロンは笑った。

「でも、アニメだろうととんでもなく忙しくなる。きみにも、もうひと働きしてもらうよ」

 キースの強いまなざしをしっかり受け止め、シャロンは笑顔で答えた。

「わかったわ。任せて」


       *


 ビバリーヒルズの邸宅に戻ると、フィッシュが待っていた。

「おまえ本気なのか? 映画の内容を変えて、投資も止めるというのは」

 キースはきっぱりと「そうだ」と言った。「これから忙しくなる。ところで、ルービンの件はどうだった?」

 仕事部屋へ足早に向かうキースを追いかけながら、フィッシュは探偵からの報告を伝えた。

「環境保護団体から謝礼金を常習的に受け取っていたことがわかった。自発的に渡した団体もあるが、ほとんどはルービンのほうから要求していたらしい。金額も提供者もすべてつかんだ。これで反撃ができるな」フィッシュがにやりとした。

「よし、それをテレビ局に流してくれ」キースの口調は決然としていた。

「投資の件はどうする?」

「手は考えてある。いろいろと動いてもらうぞ。一気に形勢逆転といこう」

「そうこなくっちゃ」フィッシュはパチンと指を鳴らした。

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