#06 至福からの暗転
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パーティ会場の見事なデコレーションに感激したキースは、シャロンにキスをする。シャロンは浮遊したような感覚に酔ったが、パーティ客のなかに最も目にしたくない人間の姿を認めた。なぜ、あの男が……。
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誕生パーティ当日。
リンジーとシャロンはアレンジに追われていた。昨日のうちにマンハッタンのあらゆる花問屋をまわって必要な花や鉢物を集め、この日の早朝もほうぼうに出かけて仕入れをした。入り口のドアは開け放たれ、店のまえの路上には不要な在庫が雑然と並んでいた。
シャロンが担当するコンテナガーデンは、昨日のうちに作業を始めることができた。だが生花はそうもいかず、リンジーは朝からてんてこまいだ。
「こっちはぎりぎりまで時間がかかりそうね」とリンジー。それでも焦った様子はなく、てきぱきと手を動かしている。
「どのみちこれだけあるんだから、搬入するのも一回では済まないわ。私の作業が終わったら、出来上がったものから届ける。リンジーは作業を続けてて」
「そうする。ひとりで大変だろうけど、頼んだよ」
「大丈夫。それに私、明日とあさって休むでしょ。おじいちゃんの誕生日だから」
「そうだ、すっかり忘れてた。でも、ちょうどいいタイミングでよかったわね」
「ごめん。大仕事のあとに私ひとり休みをもらって」
「気にしない!」
シャロンはリンジーの気づかいに感謝した。祖父の誕生日には休みたいと初めて告げたとき、リンジーはこころよく承諾してくれた。あなたにとって大切な家族なんだから、と。
それにしても、こんなに気分がいいのは久しぶりだ。自分の思い描いたイメージが、私の手を通して次々に現実のものになっていく。マンハッタンのどまんなかに、熱帯や乾燥地帯などさまざまな地域の植物相がひょっこり姿を現すのだ。植物は人種や文化といっしょ。なんて表情豊かなんだろう。
「ねえ、リンジー」
「何?」
「私、いますごく楽しい」
「右に同じ」
でき上がったばかりのアレンジを満足そうに眺めながら。リンジーは言った。
*
午後五時半。
シャロンは〈フォーシーズンズ・ニューヨーク〉の駐車場にトラックを停め、カートに最後の花やコンテナガーデンを載せると、まっすぐエレベータに向かった。結局、店とホテルを三往復することになり、複雑な建物内部の構造をすっかり覚えてしまった。とはいえ、この超高級ホテルの豪華な雰囲気のなかではやっぱり心細い。エプロンにジーンズという格好がかぎりなく場ちがいに思えた。
それにしても、このペントハウスは浮世離れしている。五十二階からの息をのむようなマンハッタンの眺め。巨大なシャンデリア、大理石の暖炉、見るからに高価そうな家具。図書室めいた部屋にはグランドピアノが置かれている。バスルームは広々として、水晶でできた浴槽のすぐそばの壁は一面ガラス張りだ。大きなバルコニーにさえ
隅々にまでお金がかけられていることぐらい、私にもわかる。このセレブの極みをリンジーに見せてやれないことが、シャロンには心惜しくあった。
こんなゴージャスな部屋に一晩泊まろうと思ったら、おそらく数万ドルはかかるだろう。キースはステファニーさんに誕生パーティをプレゼントするためにここを借り切った。私たちに頼んだ花の代金だって相当な額になる。私にはとうてい手の届かない世界、手の届かない人たち――。
シャロンは現実を目の当たりにして、しばし呆然と立ち尽くした。
いけない、時間を無駄にしてしまった。急がないと。
シャロンは作業に取りかかった。
*
間取り図に記された印どおりにすべてのセッティングを終えると、シャロンはペントハウス全体を見てまわった。
リンジーのフラワーアレンジメントは完璧だ。美しさのなかで主張する大胆さは、このシックで洗練された雰囲気ともケンカをしていない。私がつくったミニチュア庭園はどうだろう? 店で見たときには満足のいく仕上がりに思えたが、このペントハウスではちょっとうるさいだろうか。
腕時計を見ると、六時半近くになろうとしていた。いけない、もうこんな時間だ。早く退散しなければ。
シャロンがエレベータへ歩み寄ると、ドアが開き、なかから料理や酒を運ぶ給仕とともにキースが現れた。
「おっと、シャロン。まだ終わらないのか?」
「いえ、終わりました。すみません、予定より遅れてしまって」
キースが腕時計を確認する。
「三十分オーバーか。これはペナルティものだな」
「本当にごめんなさい」
人手が足りなかったことは事実だったが、シャロンはペントハウスに見とれて時間を無駄にしたことを悔いた。
「フッ、冗談だよ。そろそろ気の早いゲストがやってくるだろうが、そのまえに終わったんだから問題ない。ご苦労だった」
ああ、よかった。シャロンは胸のこわばりが解けるのを感じた。神様、キースが心の広い人であることに感謝します。
「それよりできばえをチェックしないと。ここでちょっと待っていてくれ」
キースが姿を消すと、シャロンは思わずため息をついた。でも、そろそろお客さんが上がってきておかしくない。みんなパーティ用に盛装しているだろうし、おそらくはセレブばかり。そんな場にこんな薄汚い格好の私がいたら、イヤな顔をされるだけだ。
「シャロン!」キースの声が響き渡った。「こっちへ来てくれ」
にわかに全身に緊張が走る。やっぱり気に入ってもらえなかったんだろうか。
不安を抱えながら声のしたほうへと向かう。巨大な出窓越しに摩天楼がのぞくリビングエリアを抜けると、ベランダに禅庭園が設けられた部屋へ入った。
キースが微笑みながら立っていた。
「じつにすばらしいよ、シャロン。ラフスケッチから想像していたものより、はるかにすばらしい。あの禅庭園とみごとに呼応して、まさに〈わび・さび〉の世界に入り込んだようだ」
「ありがとうございます」シャロンの口から小さなため息が漏れる。
「砂漠をイメージしたコンテナガーデンもじつにいい。撮影したアリゾナの風景を思わせるが、サボテンの奇妙でユニークな形が非常にいいアクセントになっている。目にした瞬間、まるで別の惑星にでも迷い込んだ気がしたよ。ステファニーもきっと気に入るだろう」
シャロンは何も言わず、少しだけ笑みをつくった。これで私もお役御免だ。もうじき、主役のステファニーさんも姿を見せる。ハリウッドきってのビッグカップルが、セレブばかりのゲストと談笑する姿が目に浮かぶ……。
「シャロン」
キースの落ち着いた声に、シャロンはわれに返った。見上げると、やわらかな表情を浮かべたキースの瞳にぶつかった。
「きみには本当に驚かされる。出会った最初から」
キースはシャロンの両肩をそっとつかみ、頭にそっとキスをした。
全身にふわっとしたような感覚が走り、体中がにわかに熱くなった。あの晩、抱きとめられたときの感覚がまざまざとよみがえる。だが、今は何かがはっきりとちがった。たとえ頭であったにせよ、キスが自分にどう作用するかぐらいはわかる。相手に特別な感情を抱いている場合はとくに。私はキースに――
そのとき、リビングエリアのほうがにぎやかになった。ゲストの第一陣がやってきたらしい。
「いけない、もう帰らないと」
シャロンはキースの手から逃れると、うつむきながらエレベータに向かった。視界の隅にステファニーの姿をとらえ、顔を向ける。挨拶がわりに少しだけうなずいてみせると、笑顔を浮かべながら軽く拍手をするジェスチャーを返してきた。
ゲストがいる手前、今日は女優モードなのかもしれない。あの笑顔と拍手を、素直に私たちの仕事ぶりに対する賞賛と受け取っていいんだろうか。それとも、うわべだけのジェスチャー? あるいは、ようやく私を追いやれることの喜び。あの夜、キースが抱きとめてくれたときに言い放った言葉が思い浮かぶ。キース、いつまでそうやってるのよ。
今日まで。今宵かぎり。現に、私はこうしてあの人のもとから去っていく。早くエレベータに乗り込んで、この場から消えてしまいたい。
と、エレベータのドアが開き、ゲストたちの新たな一団が向かってくる。すれちがいざま、シャロンはある男と瞬間的に目が合った。
まさか……どうしてあの男がいるの?
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