「初授業で」
日曜日の夜は、少し特別な空気を感じる。
明日から仕事が始まるという憂鬱な気持ちと、その明日が来るまでの残された時間はまだ休みなんだという安心する気持ち。
それら二つの気持ちが混ざり合って、どことなく特別な空気を錯覚してしまうのかもしれない。
寝て起きたら明日なんてすぐに来て、嫌々ながらも金曜日まで働いて、土日と休んで日曜日の夜にまた同じことを思う。
ひょっとしたら社会人なんてものはそれの繰り返しで、何も思わなくなったときは……きっと、社会人を辞めたとき。
働き始めてまだ一月も経っていないのに、そんな玄人ぶった物思いに耽ってしまうのも特別な空気に充てられた影響なのかな……なんて。
さて、浸るのもほどほどにして明日以降のことを考えよう。
金曜日に行われた学級活動と身体測定、この二つは上手い具合に切り抜けることが出来た。
身体測定は生徒達を保健室まで誘導すれば後のことは保険の先生に任せることが出来たし、学級活動についても委員会などの役割分担はジャンケンなりクジなり機械的な解決で割り振ることに成功した。
一部生徒から絡まれたりと不安が残る部分はあったけど、自分なりにそこそこ立ち回れたとは思う。
想定の範囲内で金曜日を乗り切り、問題は明日から始まる週明け1日目。
明日……月曜日から、ついに授業が始まる。
月曜日の1時間目、担当するクラスは自分の受け持つ1年3組。
今から数えて約10時間後の自分は教卓に立ち、教鞭を執っている……そう考えるだけでどうしようもなく不安な気持ちが押し寄せてくる。
ちゃんと教えられるのか、授業を聞いてくれるのか、聞いてくれなかったとして咎めることは出来るのか。
教師の仕事のうち、軸となり基本となるのがこの授業。
教師を続ける限りこれから先も授業を行い続けるわけで、つまりは切っても切り離せない関係にあると言って過言はない。
なんというか……初めの一回で躓くと引きずってしまいそうな、トラウマになってしまいそうな、そんな予感がして恐い。
でも……。
でも、きっと大丈夫。
相手は子供だから。
つい最近まで小学生をやっていた、ただの子供だから。
からかわれることはあっても侮られることはない。
侮られることがないから、中学校の教師を選んだんだ。
だから、大丈夫なんだ。
自分に言い聞かせて、部屋の明かりを消す。
――――(★)――――
授業の始まりを知らせる馴染み深い鐘の音が聞こえてくる。
懐かしくて、哀愁を感じる音。
教師となった今は少し嫌な音に聞こえてしまったかもしれない。
考えても仕方ないけど……。
どうせこれからも何百何千と聞き続けることになるわけで、毎度毎度堕ちていても本当に仕方がない。
さぁ、一限の始まりだ。
「前にも説明した通り授業の挨拶は出席番号順でお願いします。今日から始まるので、1番の暁から」
これは金曜日の学級活動で決めたことで……ちなみに、「くん」は付けない。
土日と色々悩んだけど、今後の付き合いも考えれば男女問わず敬称は付けないことにした。
「そういえばそんな決まりでしたね……面倒くさい。起立」
凄く渋々といった様子ではあるものの、挨拶は始めてくれる暁。
前みたいにハメられることはない。
「礼、よろしくお願いします」
教室に、生徒の声が響く。
同じく自分からも挨拶をして。
「授業、始めようか」
着席したのを確認してから心の中で深呼吸。
予め練ってある授業の構想を思い浮かべる。
教科書を開いていきなり解説を……なんてマネはしない。
まずは数学という学問について、軽く説明するところから。
自分に取っては当たり前の数学が、この子達に取っては当たり前じゃない………だよな、少し前までは算数だったわけだから。
「数学」
黒板に書いた字を生徒全員に聞こえるよう声に出して読む。
「いいか、みんな。中学からは算数じゃなく数学になる。まず一つ、ここが大きな違いだ」
教室を隅々まで見渡して、生徒の反応を意識して。
「数学なんて学問染みた言い方をしたら少し恐く感じてしまうかもしれない。今までやってきた算数とはどう違うんだって、どう難しくなるんだって、心配に思う部分もあるかもしれない……。でも安心していいから、何も難しくなんてないから。やっていくことは今までと何も変わらない、算数の延長が数学だと思ってほしい」
自信を持って偉そうにものを言うくらいがちょうどいい、ネットにはそう書いてあった。
「確かに授業が進む毎により高度な思考や計算が求められ難解にはなっていく。でもな、数学にも算数にも絶対的なルールがあって、最初から答えが決まってる。そのルールに従えば必ず答えが出るように出来てるんだ。優しかった算数のルールが少しややこしくなって数学という名前に変わる。そして、そのややこしくなったルールを授業を通して学んでいく。何回でも教えるし、何回でも質問を受け付ける。だからルールをしっかり理解出来るよう一緒に頑張って行こうなっ!」
きまった……。
反応はいまいちだけど、良いことは言えてるはず。
「それじゃあ具体的に何を学んでいくのか簡単に説明していくから集中して聞くように。そうだな……質問形式でいこうか」
質問というワードを聞いてか、ほのかに緊張が伝わってくる。
なんだか、これぞ授業って雰囲気になってきた。
「うーんと……はいそこっ。中巻に質問」
「……うぇっ、オレ?」
悪いけど、初っぱなは名前を覚えてる生徒からと決めている。
背が低く坊主頭の中巻。
「中巻は数ってなんだと思う? 変に捉えなくていいよ、思ったまま答えてみて」
「なにって……いや、数は数でしょ。1とか2とか?」
「自信を持っていい、間違ってないから……。そうだな、1とか2とかは立派な数だよ。今まではこういう普通の数だけを扱ってきただろ? 足したり引いたり」
「え……うん。あとまあ、掛けたり割ったりとかも」
「その通り、今までは普通の数を扱って普通に計算をしてきた。でも中学からは符号をしっかり意識して、その上で計算していくことが求められる」
そう、中学1年で初めに学ぶ単元は正の数と負の数。
まずは捻りのない当たり前の受け答えをしてもらって、そこから符号についての解説に入る。
「ありがとう、もういいよ。……次は」
誰にしよう……そう思っていたら左端の列でピーンと、とても綺麗な姿勢で手を挙げる生徒が一名。
伊藤かぁ……。
こないだといい、ちょっとしつこいな。
正直言って当てたくない、荒らされそうだし。
当てたくはないんだけど……。
でもなぁ……クラスの一員であることに変わりはないし、ずっと無視し続けることもそれはそれで難しいだろうし。
仮に授業だけでも真面目に受けてくれるとしたら、ああいう積極的な生徒はかなり重宝するんだよな。
いいか、これからのためにも一か八か……。
「無視でいいからね」
前の席からボソりと一言。
ややジト目気味に小動物のような女子生徒、相良ももがそう助言をくれる。
「えっ」
「無視でいいよ。今、伊藤さん当てようとしたでしょ?」
「ダメ……?」
「ダメ。授業崩壊してもいいならどうぞ」
どうやら、伊藤を当てると授業が崩壊してしまうらしい。
それなら……。
「それなら、伊藤の代わりに相良を当ててもいいか?」
「えっ、私?」
「うん、相良。……ダメ?」
「ダメ……じゃないけど。うん、いいよ」
前にも同じようなやり取りをした気がする。
よし、相良でいこう。
「はい、相良に質問。数を扱うときの符号って何があると思う?」
「えぇーっ、わたし無視ぃ!? 」
大きな声で騒ぐ伊藤は無視するとして、相良に注目。
「はい……えと、プラスとマイナスの二つがあります。ちなみに0は符号を持ちません」
完璧な答え。
しかも聞いてもないのに0の解説まで。
「正解。0が符号を持たないっていうのはよく知ってたな」
「はい……少し先のところまで勉強してるので」
「へぇ、塾でも行ってるの?」
「いえ、勉強が好きで一人でやってるだけです」
いい子だなとは思っていたけど勉強熱心とまできた。
こういう子は、いい意味で注目しちゃうな。
「ありがとう。勉強熱心なのは凄くいいことだと思うよ」
「……はい」
少し照れ気味に下を向く相良。
いい子で勉強熱心でおまけに仕草まで可愛いと。
良い具合に進んでる……。
「相良が答えてくれた通り、符号はプラスとマイナスの2種類しかない。0よりも大きければプラス、0よりも小さければマイナスが付く。0そのものは符号を持たないからただの0だ。算数でしてきた計算は符号がプラス同士の計算、中学でする計算はプラスもマイナスも混ざり合った計算。このマイナスが入ってくるとどんなふうに計算が変わるのか、一番初めの授業ではまずそこから学んでいきたいと思います」
黒板に引っ掛かるチョークのこの感触、あまり好きじゃないかもしれない。
ひとまずはわかりやすさ重視で、、
プラス×プラス=プラス
プラス×マイナス=マイナス
マイナス×マイナス=プラス
……と。
「さっきも説明したけど算数や数学には定められたルールがあって、そのルールにさえ従っていれば必ず答えが導けるように出来ている。今黒板に書いたのもそのルールのうちの一つで、本当ならなぜこのルールが成立するのか教科書を追って一から説明するべきなんだけど、ひとまずは何も考えずこうなるものだと思って計算してみてほしい。詳しい説明は解いた後でじっくりしていくから大丈夫」
出来るなら、一発目の計算は体系的に教え込みたい。
符号が絡む計算なんて別に大したことはない、やってることは今まで通りただの計算なんだ……という所感を持ってもらいたいから。
簡単に解けるんだぞと、そう思ってもらった後で理屈の説明をした方が生徒達の吸収も早くなるんじゃないかな……。
これを気に、数学へのハードルが下がるなら尚良い。
「簡単な計算からいこうか……。例えば、6×(-3)はどんな答えになると思う? 黒板に書いた通りのルールに従えばこんなものはいつもの計算と何も変わらない、全然難しくはないよ。……南原、答えてみて」
黒板を凝視しながら首を捻っていたのが見えたので、何となくで当ててみる。
「はあっ? ウチ?」
「南原だよ」
自分が当てられるとは思っていなかったのか、中々のリアクションを見せてくれる。
「はあ~っ、わかんないし。なにこれ……掛ける、引く? 同時にすんの?」
「引くじゃなくてマイナスな。6にマイナスの3を掛けてるんだよ」
あれ、熱心に黒板の方を見つめてたから理解してるものだと思ってたけど………嫌な予感がするな。
「マイナス……? 引くって読むんじゃないの?」
「マイナスだよ。難しく考える必要はないから、まず数字同士を掛け算してその後に符号を付ければいい」
「………全然わからん」
当てる相手間違えたかな。
どうしよもないので、強引にサポートして無理やり解かせる方針を取る。
「まず6×3を計算するんだ。で、その答えにマイナスを付ければそれでおしまい。6×3は?」
「あっ、そういうこと、んなん楽勝じゃん! えっと……六一が六……えぇ、六二……十でしょ? だから、えぇ~……六三が、十二? あぁ、十三か?」
「これ十二か十三であってるべ? つーことは、これに……まいなす、付けんの? あっ、これ両方答えてどっちかあってたら正解なったりすんの?」
ネタでやってるのか……?
「ぷっ……くくっ」
「あいつマジ?」
「九九出来ないのか…」
「えっ、シャレんなってなくない?」
各々が、よろしくない反応を示していく。
「あ……っ?」
教室の空気に察したのか、南原の顔が険しくなって……。
良くない。
これは良くない流れだ。
落ち着け、大丈夫……こういう場面での想定もちゃんとやってはいるから。
みんな静かに、間違いなんて誰にでも起きるだろと怒ってるふうに圧を掛けてやればいい。
全体を見て言うんじゃなくて、悪いけどこういうときは囃し立てて来そうな一部の生徒を睨んで言った方が効果はあると思う。
ちょうど手頃そうな……そうだ、伊藤辺りどうだろう。
しつこくちょっかいを掛けてくるお返しってわけじゃないけど、こういうときぐらい泥を被ってもらって……。
って、なぁ伊藤……。
どうしてそんな笑顔なの?
先生が伊藤に発言するんであって、伊藤は……。
ぁ。
「こいつバカだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
――――(☆)――――
教室が、どっと湧いた。
「はっ……ぁ……はああああああんっ!? 誰がバカだオラッ! てめぇ今誰に言ったっ!?」
「おまえ以外いないだろ。おまえは、バカッッ!!」
「ぉ……っ」
「ふっ」
「あ……あぁぁっ、今笑ったやつ誰っ!? 喧嘩売ってんなら買ってやるから出てこいや!! マジ舐めてたらぶっ飛ばすからなっ!!」
恐いよ南原……やめよう。
「な、南原……一旦落ち着こう。今のは笑ったみんなが悪い。別に間違ったっていいじゃないか、南原は悪くないから……な?」
「そもそもさぁ、算数なんて勉強したくないんだけどぉ! こんなんやったって意味ねえしっ、なんの役にも立たねえしっ」
算数じゃなくて数学な……結局、初めから何も聞いてなかったのか。
「いや、役には立つぞ。論理的に物事を考えられるようになるし、勉強する意味はちゃんとある……。なっ、一緒に頑張ろう」
「なんの役に立つのおっ? 教えてっ」
「だから、考えが豊かになるっていうか」
「ウチの考えもうすでに豊かだしっ! そんなんだったらやらなくていいっ!」
いや……。
「そういう問題じゃなくてな、色々と将来のためにもなるんだよ」
「将来のためってなにぃ? 役に立つって保証出来んの? 役に立たなかったら?」
「保証って……」
これどうしたらいいの?
どうやったら南原止められるの?
ただの計算問題から数学を勉強する意味に変わってきてるし。
「南原やめてやれよ。先生ビビってんじゃんw」
「ねー! 可哀想だよねーw」
「うっさいっ、村上達に関係ねえからっ! これはウチと先公との話し合いなの。余計なこと言うなしっ」
お願いだからさ。
「んで、何で算数の勉強が必要なわけ? 役に立つ保証は? もし必要じゃなかったら100万払えんの?」
なぁ……。
「南原さ、流石に邪魔しすぎだって。そんなこと言ったってしょうがないじゃんか、勉強するしかねぇんだし」
「あぁん、お前なにっ? なにこの丸米~、キモいんだけどぉ~。ハゲは黙っとけやオラッ!」
「な…っ……ハ、ハゲじゃねぇよ……んだよこのデブ」
「……デブ? デブゥ!? あああああんっ、てめぇ殺されたいのかっっ!?」
授業させてくれよ……。
「やめなって」
「ちょっ……まずくない?」
「先生……先生っ! 止めなきゃ!」
今日はさ、初めての授業でさ……。
準備とか色々と頑張って来たんだよ。
「おいハゲッ、外出ろ」
「出ねぇよ。喧嘩とかしねぇから」
「いいから来いって!!」
「ヤバいヤバいヤバい、ヤバいって」
普通に授業がしたいだけなのに。
なんで……。
なんでこうなるの?
「せんせ……おーい、せんせ」
伊藤。
なんでお前立ち歩いてるの?
なんで俺の前まで来てるの?
「わたしは無視したのにあいつだけ構ってあげてるのズルいだろ! わたしとも遊んでよ……。ねぇ、南原みたいにおっきな声で叫んでもいい?」
はは。
あははは……。
こいつなに言ってんの?
もう、嫌だ……。
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