Ⅳ-Ⅻ

 コボルトの村の酒場を出て、村の中心とは反対方向に少し行ったところに短く刈り揃えられた柔らかい草に覆われた広場があった。

 土を休めるためにそうしてあるのか、何か集会などのためにそうしてあるのかはわからないが、緩やかに傾斜した緑色の広場の先には柵があり、その向こうには木々が黒い影を作っている。

 太陽はすでに西の稜線に僅かに茜色の火影を残すのみとなり、紫色を経て濃紺へと変わった東の空には星が瞬き始めていた。


 モノはエムロードを抱え、道に佇んで景色を眺めている。


 鉛色の髪の男とコボルト達が酒場へ戻ってきて首尾を報告した後、アルラーシュはクリフとメルにしばし場所を貸してほしいと申し出た。

 彼は男と二人だけで話がしたいと言う。

 近衛騎士の二人、特にヨシノは難色を示し、自分も同席すると強く申し出たが、結局は扉の外に張り付いていて何かあればすぐに踏み込むという約束で、アルラーシュの希望を飲むことになった。


 モノは黙ってその場を離れ、足の向くまま、風に当たりながら歩いて、この場所まで来た。


 アルラーシュはモノの話を聞いた後も、彼女に何かを問い質したり要求をしてくることはなかった。

 正直に言えば、モノとしても拍子抜けであったのだ。

 王都にわざわいを招いた元凶としてなじられるか、その精霊の力を自分のために使えと要求されるかのどちらかであろうと予想していたし、実際それでも構わなかった。

 どちらに転んでもルドルフの立場が悪くなることはないだろうと思えたからだ。


 しかし現実はモノの予想を越えてしまった。

 事態はそれだけでは済まないところまで来てしまっている。


 コボルトのクリフの言葉が真実であるとすれば、ルドルフには既に女王の殺害と王子誘拐の疑いまで掛けられてしまっているらしい。


 炎上する王城の姿が、モノの瞳の奥に蘇る。あの中にはルドルフの大事な人もいたはずである。彼が兄のように慕っていた人物だ。



 モノは夕風にそよぐ背の低い草原くさはらへと足を踏み入れた。

 緩やかな傾斜を下りながらエムロードを小脇に抱えつつ、重たいローブを脱ぐ。

 白いブラウスと胸元の白いリボンが風にはためいた。薄い布越しに感じる夕方の風は少し冷たい。

 草原の真ん中で、彼女はショートブーツを脱ぎ、裸足で土を踏んだ。

 柔らかい草とひんやりと湿った土の感触。

 足の裏を包み込む懐かしい優しさと、その下にある膨大な質量に裏打ちされた堅固さ。


 エムロードがモノにしか感じ取れない程度の微小な魔力で空気を揺らした。

 思えば、彼はずっと静かだった。

 サフィールとの戦いでいささか消耗していたので回復に専念しているのかと思っていたが、もしかしたら大勢の他者に囲まれている今の状況こそが不本意なのかもしれない。

 エムロードは人間が嫌いだと言ってはばからない。

 多くの者に忌み嫌われた悪しき魂。

 悪魔。悪霊。悪鬼。精霊の影。邪悪な影。

 が人間達を戦乱にいざなうのは、そこに膨大な量のエサが生じるからだ。そこには多くの感情のうねりと、魔法を行使することによる精霊の力が集まる。彼らにとっては餌場も同然である。

 彼らに言わせれば、それすらも世界のあるべき流れであり仕組みなのだと言う。


 そうして、事実エムロードは大食らいだ。


 石へと変じた後も、そこに在るだけで周囲の魂を喰らう悪魔の石として厳重に封じられていたという。


 現在、エムロードはモノから大量のを摂っている。

 彼女から摂取できるエネルギーが尋常ではなく多いおかげで、周囲にエムロードの食事による被害が生じないのである。


 おそらく最初は大精霊の力を少しでも制御しようという苦肉の策だったのではないだろうか。

 しかし結果として、悪魔エムロード生贄モノが精霊の力を受け止めきれず崩壊することを防ぎ、そしてこれもまた偶然ではあるのだろうが、彼女の人間としての意識を守った。


「回復した?」


「あの程度で消耗なんかするかよ」


 憎まれ口が返ってきた。

 エムロードは喰らった力をいくらか溜め込むことができる。彼がモノの意思に関わらず動いたり、攻撃をすることができるのはそのためだ。

 地下道で一行の行く手を塞いでいた頑丈な格子を吹き飛ばしたのも、その力の一部を放出したに過ぎない。



 風が渡り、草が波打つ。

 モノの立つ場所にも風が届き、揺れる草が素足をくすぐった。


――ここから逃して差し上げます、モノ様。


 耳のそばを通り抜ける風が、記憶の中の声を運ぶ。

 ファニ、と心の中で声の主の名を呼んで「ごめんなさい」とモノは呟いた。


 ごめんなさい。力だけあって、守ることもできなくて。

 ごめんなさい。自分勝手で、どうしても自分の望みを手放せなくて。


「エムロード、ごめんなさい」


 私は、遠からず貴方を、ずっと相棒でいてくれた貴方を、独りぼっちにしてしまう。


 モノは杖を抱いて、草の中に倒れ込むように仰向けになって空を見上げた。

 背中に感じる大地に安心するのは、自分の大部分が精霊のものになってしまっているからだろうか。


 違う、とモノは思う。

 こうしていることに安堵するのは、自分が草原の娘だから。

 草原で家族と暮らしたあの遠い記憶が本物だから。


 だから、この記憶が磨り減って、消えてしまわないうちに。

 私の魂のいくばくかが、まだ私のものであるうちに。

 私は、私を解放したい。

 そうすればきっと、人間として死ぬことができるから。

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