Ⅳ-Ⅹ

 若い兵士達はコボルトを追って、村の中を走り抜けた。

 やがて村の家々から少し離れた場所にある、山小屋のような建物が見えてきた。それは昨夜までアルラーシュ達がいた小屋であったが、もちろん彼らはそんなことは知るよしもない。


「あそこだ! まだ間に合う!」


 ふわふわの茶色のコボルトが指差した。

 あの中に「悪いニンゲン」がいる。

 さすがに少年も覚悟を決め、腰に差した支給品のグロスメッサー大きなナイフの柄に手を置いた。


 焦げ茶色のコボルトが体当たりするようにして、粗末なドアを乱暴に開いた。

 二匹のコボルトと少年兵達が小屋へと踏み込む。

 女性の怯えた悲鳴が短く響いた。


「メル!」


 小屋の中にいたのは、大きな三角の耳がまるで羽根を開いた蝶々のように可憐な、小さなコボルトだった。流れる滝のような焦げ茶色の長毛が、蝶々の耳を美しく見せている。大きな耳に対して顔は小さく、口元の白い毛は絹糸のように艷やかだった。

 シンプルなエプロンドレスという出で立ちからして村娘だろう。つぶらな黒い瞳は涙に濡れている。

 床にうずくまる彼女のかたわらに、同じく膝をついているのは、人間の成人男性だった。

 鉛色の髪を後ろで丸く結ってまとめ、眼鏡をかけている。荒くれ者とはとても思えず、それどころか物静かで落ち着いた印象だった。

 しかし、表情にはどこか諦めというか、悲哀がただよっているように少年には見えた。

 二人の後ろには作りかけの荷物がある。


「え、誰?」と先輩の一人が呟いたのが聞こえた。


 男性は静かに首を横に振り、口を開いた。


「…………まさか兵士まで連れてくるとは、そんなに私が憎いのですか」


「当たり前だ。やはりお前をこの村に置いたのは間違いだった。メルをさらおうとするなど、この恩知らずが!」


「攫おうなどとしておりません」


「ならば、そこの荷は何だ! オレが村の外に出かけているすきに逃げようとしたな! カイにお前を見張るように頼んでおいて正解だったようだな!」


 焦げ茶色のコボルトは男を指差し、少年達を振り返った。


「おい! 何をしている! お前達は悪いニンゲンを捕まえにきたんだろうが! さっさとコイツを捕まえて連れていけ!」


「え? ええっと……」


「つ、捕まえるですって?」


 コボルトの娘が震える声で言った。綺麗な湧き水を思わせる、澄んだ可憐な声だった。


 可愛いな、と少年は一瞬場違いなことを考えてしまった。


 彼にはコボルトを対象として見る趣味はない。ただ何と言うか、種族や性愛を超越して、可愛いものに対して率直に「可愛いな」という感想を持っただけのことである。


 多分だが、コボルトの中でも絶世の美少女なのではなかろうか。百年に一度とか千年に一度とか、そういう言葉が頭に付くやつだ。


 彼女は震えながらも床に座る男性の膝に手を掛けて、寄り添った。


「ひどい! センセイは何も悪いことなんてしていないわ! お願いします。ニンゲンの兵士さん! この人を連れて行かないでください!」


「ちょ、ちょっと待って」と少年は小刻みに震えるコボルトの娘を落ち着かせようと両手を見せた。種族は違えど女の子を怯えさせるのは後生が悪い。

 いや、少年にだってこの状況は何がなんだかわからない。

 わからないが、しかし、目の前の人間の男が明らかに自分達の狙いとは別人なのは確実だ。


「どういう状況っすか、これ」


 仕方なく、少年は焦げ茶色の怖いコボルトを選んで質問をした。


「見てわからないか!」


 焦げ茶色のコボルトがイライラと吠えた。

 わからないから聞いているのだが、それを口にするほど少年も馬鹿ではなかった。


「あの恩知らずのニンゲンが、オレの家族をかどわかそうとしているんだ! 早く捕まえてくれ!」


「違うわ! 兄さん! 私がセンセイにお願いしたの!」


 悲鳴のような声に、場が静まり返る。

 静寂を破ったのは、鉛色の髪の男性と焦げ茶色のコボルトが同時だった。


「メルさん」


「メル……」


 メルは黒曜石のような目からぽろぽろと透明な涙を流していた。


「兄さんがニンゲン嫌いなのは、よく知ってる。だから、この村に来たセンセイのことを良く思っていないことも。だから……私達のことを許してくれないってことも」


「そ、それはそうだが、しかしお前のためを思えばこそだ。お前はわかっていないだけだ。ニンゲンなどロクなもんじゃない。オレはお前が将来苦しむことがないようにと」


「私の選択は私のものよ。それで苦しんだとしても、それは兄さんのせいじゃないわ。どうしてわかってくれないの? 私はセンセイを愛してる。私達、愛し合っているのよ」


 その言葉を聞いた途端、焦げ茶色のコボルトは鼻に皺を寄せて、凶暴そのものの牙を根元までむき出した。

 グルルルルル、と地を這うような低い唸り声が隣に立つ少年の体を震わせる。


 少年の背中にどっと汗が噴き出した。


――マジで怒ってる。


 怖い。ものすごく怖い。

 間違いない。このコボルトは本気で腹を立てている。

 あのオッサン食い殺されるんじゃなかろうか。


 ふと見ると、先輩達は皆、ここに案内をしてきた焼き立てパンのようなコボルトの背後に寄って固まっている。

 焼き立てパンもコボルトであることには違いないが、焦げ茶色の方に比べれば遥かに温厚そうだからだろう。それにしたって情けない――。


 ぐるぐると混乱した頭でまとまりのないことを考えている少年の耳に、「メルさん」と落ち着いた声が入ってきた。


 少年はハッとしてそちらを見る。

 人間の男性が、膝に置かれたメルの手を優しく包んで、そっと自分から離すところだった。

 メルは男性の行動が意外だったらしく、当惑したように自分の手と男性の手を見比べる。

 焦げ茶色のコボルトも唸るのをやめた。


「君のお兄さんだって君を愛している。だから君が心配なのですよ。それを無碍にするようなことを言ってはいけない。君達は二人きりの兄妹でしょう。ならば尚の事です」


「でも……でも、それなら私はどうすればいいの?」


 メルははらはらと涙を落として、再び男性の膝にすがる。


「センセイのことが好き。兄さんのことだって好き。それなのに……」


「あ、あのう、ちょっといいっすか」


 少年はおずおずと場違いな言葉を吐いた。

 先輩達はあてにならない。でも仕事をしなくては。

 この意味不明な状況にあっても、任務だけは遂行しなくては。

 すっかり混乱しているはずなのに、なぜこんな時に限って自分の仕事をしなければならないような気がするのか。


「なあに、ニンゲンの兵士さん」


 メルは涙に濡れた瞳を少年に向けた。


「えーっと、俺らはその……すっげー悪い人間を探しにここに来たんっすよ」


「す、すごく悪いニンゲン!? そんな、コボルトを連れて帰るのはニンゲンの町では許されないの!?」


「あ、そういうのではないです」


 少年が答えると、焦げ茶色のコボルトが「おい」と凄んだ。


「コボルトだろうがニンゲンだろうが誘拐は罪だろうが」


「ひぃ、で、でもお兄さん」


「誰が兄さんだ」


「そばで話を聞く限り、お二人は愛し合ってんでしょう? だったら誘拐じゃなくて駆け落ちっすよ。手に手を取って逃避行ってヤツでしょ? それは罪に問えませんって」


「何だと! じゃあどうするんだ!」


「いや、どうって、当事者同士で話をつけてくださいよ。ええっと、念のため確認するんすけど、そちらの人、ずっとここに住んでるんっすか?」


 少年が尋ねると、男性は「はあ」と不思議そうに首を傾げた。


「ずっと、と言いますか……そうですね四、五年というところでしょうか。お恥ずかしながら私はどうも人間の社会に馴染めませんで、この年になるまで独り身で家族もおりません。隠遁を気取って移り住んだこの村で彼女に出会ったのです」


 コボルトの娘と恋に落ちるような男なら人間社会には馴染めないだろうな、と少年は妙に得心がいった。

 独り身ということは、この村に他に人間はいないのだろうか。

 一応、この村に他の人間は来ていないかと尋ねてみたが、いないという返答だった。

 焦げ茶色のコボルトだけは本当に筋金入りの人間嫌いらしく、少年の質問に「オレはこの村の自警団長だぞ。妙なニンゲンをオレが見逃すものか」と凄んできた。


 少年はその場の一同を見回して、口を開いた。

 焦げ茶のコボルトは怖いが、それもだいぶ慣れてきた。


「ご協力あざっした。まあ、そっちの人もコボルトの兄さんも、一回落ち着いて話し合ったらいいんじゃないすかね。俺の口出すこっちゃないかもしれないっすけど、どっちもその可愛い娘さんのことが大切なんでしょ?」


 少年がそう言うと、小屋の中のコボルト達と男はお互いに視線を交わした。

 どうやらこの場は落ち着いたようだ。

 これは意外と自分はうまくやったのかもしれないと少年は思った。



 小屋を出て、村の出口へと向かう少年に、鉛色の髪の男性が「あの、私のことは」と情けなく眉を下げて、心配そうに声をかけてきた。

 少年は男性に向けて笑顔を作った。


「ああ、こっちも一応仕事っすから。変わった人がコボルトの村で一人暮らしてるっていうのは報告しますけどね。別にそれでしょっぴかれるとかいうことはねーっすよ!」


「ああ、良かった。ありがとうございます。ところで悪人を探しておられるということでしたが」


「そいつは黒髪らしーんで、アンタじゃねえっす。それにアンタは何年もここに住んでるって話だし」


「そうですか。安心いたしました。何をした人なのかは存じませんが、早く捕まるといいですね」


「そんじゃ俺らはこれで。あのコボルトの娘さんとうまくいくといいっすね!」


「ありがとうございます。私も貴方のご活躍をお祈りしております」


 男は深々と頭を下げた。可愛らしいコボルトの娘がその横に立ち、少年に向かって手を振っている。

 少年は初めて、この仕事に就いて良かったと思った。

 誰かから感謝されるのも悪くないじゃないか。


 町までは半日以上かかる距離で、空にはすでに夕方の気配が忍び寄っている。

 しかし、少年の足取りは軽かった。

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