第72話 ジムリーダー・林檎
政木は一度体調不良で倒れてから色々と仕事を減らしていたが、完全に回復してからは徐々に元の生活に戻ってきている。
その一環として、入院前に行なっていたダンスレッスンも復帰していた。
「あ、林檎さん、お疲れ様です」
「…………」
政木が話しかけると、「げっ」という顔をしたのは林檎だ。
二人は同じ場所でダンスレッスンをしている。元々林檎が通っていたジムに政木が新たに通う形だ。ちなみにただの偶然である。
「そろそろこのジムに月日を通わせた方がいいですかね……?」
「どうしました林檎さん? なにか悪いことを考えている顔ですけど……」
「悪いことではなくて、どうやってこの場を逃げ切るかを考えていたんです」
政木の質問に、林檎が抽象的に答える。
と見せかけて、実は直球である。(夕暮から)逃げ切る、という括弧書きを足すだけで言葉はすごくシンプルになるマジックがかかっている。
「林檎さんはずっと通っていらっしゃってるんですね」
政木はそのトリックが見抜けなかったため、話題を変えて話しかける。
「ええ、まあ。運動不足にならないように、っていうのが最近の目的ですけどね」
「なるほど……」
と林檎は言っているが、実際はダイエットである。
お酒をたくさん飲んでしまうため、少しでも運動をしなくなるとしっかりふっくら太ってしまうので、イヤイヤ通っている。運動不足と言ったのは単に見栄を張っただけだ。
しかし政木はそれも見抜けず、鵜呑みにしたまま話を進める。
「自分も後輩から運動不足を指摘されることが多いので、通う頻度を増やした方がいいですかね……?」
「いえ、むしろ通う頻度は減らした方がいいですね。ジムに行きましょうジムに」
「きゅ、急にどうしたんですか?」
「ジムはいいですよ、政木さんは見た感じでは筋肉の方が足りていないように見えるので、しっかりと筋肉をつけた方がいいですさっさとこのレッスンはやめましょう」
「は、早口……」
林檎としては、政木とエンカウントする回数はできる限り減らしたい。
二人きりで会っているところを夕暮に見られたらと思うと、気が気ではない。そんな確率、落雷が直撃する確率よりも低いと言うかもしれないが、大事なのは起きた時のリスクである。
交通事故なんて起こる確率は低い、だけど起きてしまった時のことを考えるからみな注意して運転する。同じことだ。夕暮はほぼ交通事故みたいなもんである。
「あ、そういえば」
さっさとこの話題を変えたい林檎は、思い出したように言う。
「今度、政木さんの事務所の後輩さんをコラボにお誘いしたいんですが」
「事務所の後輩、ですか?」
政木が聞き返すと、林檎は「ええ」と言って続ける。
「水都さん、でしたっけ。あの方をコラボに誘おうかと思いまして」
「彼女、ですか?」
「実は月日とコラボさせようと思ってるんですよ」
「夕暮さんと……?」
政木にはすぐに共通点が思い浮かばなかった。コラボとなれば何かしら関係がありそうだが。
思い出す限りでは二人に接点もなかったように思う。
林檎はそんなことも織り込み済みだと言うように説明をする。
「ほら、水都さんも政木さんのことが好きって言うじゃないですか。ですから、いい化学反応が見られるかなと思いまして」
「……あ、ああ、そ、そういえばそんなことも言ってましたね……」
政木は嫌なことを思い出したかのように言葉を絞り出した。
政木は惚れられるようなことをした覚えはない。特別なことなど水都に対しては一つもしていない自覚がある。
それなのにそのようなことを言われているから、政木としても多少困っている
ただ、林檎がそのような話題を振ってきたことには興味を持った。
「ちなみに水都さんにはもうその話を?」
「いえ。ですから政木さんからお願いしてもらおうと思いまして」
「林檎さんからではなく、ですか?」
「はい」
政木はそれを意外に思った。
自分がコラボを誘われた時も林檎から直接誘われたため、水都に対しても林檎から直接アプローチをかけるのかと思っていた。
そんな政木の気持ちを察したのか、先んじて林檎から話す。
「実はですね……最近、Vtuber業界の間で困ったことになってまして」
「困ったこと?」
「はい。実は、私と月日……がかなりの問題コンビだとされてまして。結構な配信者からコラボを断られているんですよ」
「えぇ——っ⁉︎」
政木は思わず声を出すくらいに驚いていた。
たしかに問題はあるとされていたが、それは「配信できるレベル」の問題だとされていたはずだ。配信できるからこそちゃんと視聴者を集められていたし、色々な人とコラボをしていた。
だからこそ、断られている、という事象に驚きを覚えていた。
「そんな、何かあったんですか……?」
「…………コンプライアンスの問題、です」
「
思ったよりも重大な問題だった。
たしかに配信できるとはいえ、積極的に男女問わず下ネタを振るこの二人は、コンプライアンスという単語が一番の敵と言える。
特に昨今は、いわゆるハラスメント系に厳しい。夕暮が政木にしていることは実際にセクハラだと訴えられてもおかしくないし、林檎の作る企画には平気で嫌な過去をつっつかせるようなものがある。パワハラに当たる可能性がある。
そしてコンプライアンスの問題には、歯向かうことができない。コラボを拒否される理由にコンプライアンスを持って来られると、誰だって太刀打ちすることはできない。
「だから先に水都さんを懐柔してもらおうかと思いまして。場合によっては政木さんにも出てもらうことで、ちょっとでも風当たりを弱くしていただきたいとも考えています」
「な、なるほど……。それなら、自分から話をしておきます」
政木は林檎の申し出を快諾した。
登録者数の多い彼女たちとのコラボは、水都にとっても良いことになるはずだ。それに下ネタや強要系の会話を取り除けば、彼女たちの会話なんかは勉強にもなる。
しかしこの安易な政木の行動により、最悪のコラボが実現してしまうことになる。
そのことに気がついていたのは、林檎だけだった。
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