第60話 落下
「ぐすんっ、ぐすんっ……」
それから夕暮が立ち直るのに10分以上。ようやく涙が収まってきたところで。
「…………えっと、そろそろ私も会話に参加していいですよね?」
政木のいる病室の壁にもたれかかった林檎が、呆れたようにそう切り出した。
「――あ、みかんいたんだ」
「『あ、いたんだ』とかぶっ〇すぞごら」
「みかん、トーンが本気すぎんか?」
夕暮は林檎を無視していたことを一切悪びれもせず、純粋無垢な目で林檎にツッコミを入れている。
「そういうあなたこそどうなのよ。上下ジャージにすっぴんって」
「あっ――――」
仕返しとばかりに返された林檎の指摘に、夕暮の喉からカエルの鳴き声のような音が出た。
「あ、えと、これ、これは……」
夕暮は自分の服装をなんとか自分の体で隠そうとする。だが服は自分の体についているもの。隠せない。無駄な抵抗である。
「さすがに同業者とはいえ異性と会うのに、その恰好はどうなのよ。急いでいたんだろうけど、ねえ」
「ぎゃ、逆にどうしてお前はそうもしっかりと化粧をしている⁉」
夕暮の服装とは対照的に、林檎は夜遅くについても関わらずきちんと外行きの格好をしている。化粧もほんのりとだが欠かしていなかった。
そんな林檎を指さして、夕暮は慌てたように叫ぶ。
「さてはお前が政木くんを病院送りにした犯人だな‼ 自分だけ化粧して、こんにゃろうっ」
「バカなことを言うな」
「いでっ」
林檎のチョップが夕暮の頭に刺さる。
「私はちょうどこの近くのスタジオで収録をしてただけですよ。そうしたら政木さんのマネージャーから連絡があったので駆け付けただけです」
「そうだったんですね」
林檎の説明に反応を見せたのは政木。
実際は林檎の方から『政木の体調を心配したほうがいい』というアドバイスを大津に送っていた。それが結果的に大津が林檎に連絡する理由になり、最終的には夕暮のところに政木の搬送先が伝わったというわけだが。
「その節は本当にご迷惑をおかけしました……」
「大丈夫ですよ。3D直前みたいな時期は張り切りたくなってしまいますからね。私も昔同じようなミスをしたことがあります」
「ありがとうございます……!」
林檎のフォローに涙を含ませながら感謝する政木。林檎はそこまでしっかり感謝されると思っておらず、困惑気味である。
そしてそんな光景を、夕暮は静かに見ていた。
(なんだ、結局2人の方がお似合いじゃん……)
政木はイケメンだし、林檎だって顔だけならいい方だ。
一方の自分は、ジャージ姿のド陰キャ。身だしなみひとつも気を使えない。明らかにこの場で浮いた存在だ。
(…………帰るか)
2人に気付かれない間にさっさと帰ろう。邪魔者はその場にいるだけで邪魔なのだから。
と、そう思った矢先のことだった。
「あのっ、夕暮さんも、今日はありがとうございましたっ!」
夕暮が出口に足を向けた瞬間に、政木はベッドの上で深く頭を下げたのだった。
自分がそんな卑屈なことを考えていたのを察知したからなのか、それとも彼の天然な女たらしの部分が発揮されたからなのか。
理由はわからない。それでもいきなりのことに、夕暮は戸惑った。
「いや、その、褒められるようなことは何も……。ただ心配で来ただけで…………」
「それだけでも、いや、だけって言い方は失礼か……。でも、すごく嬉しかったです」
「――ッ!」
ドキリっ、と夕暮の胸が跳ねる。
なぜならそれは、過去の失敗した思い出。あの時のデートで言われたかったセリフだったからだ。
「林檎さんはああ言ってましたけど。服装も自分の身だしなみも気にせず、僕のところに来てくださったってことです……よね?」
「いや、えっと、その、そう言われたらそうなるんだけ……ど」
「そのことがすごく嬉しかったです。自分のことをそうやって心配してくれることが嬉しくて。だから本当に、ありがとうございました」
「…………」
夕暮は突然のことに言葉が出ない。
自分は林檎と違って何か特別なことをできたわけではない。ただ無駄に足を運んできただけだ。
だからこそ、そんなことを言われるとは思いもよらなかった。心配をするだけでお礼を言ってもらえるなんて思ってもみなかった。
まるで自分の行動なんかに存在価値があるのだと言われているようで。大袈裟だが、今までの辛い思い出が救われたような気になった。
「…………あ、ありがとうございましゅ。あっ。ありがとうございます。か、帰るっす……」
舌が回らなかったり変な語尾になったり、さらには声が小さくなったりと不自然な挙動の夕暮に政木はぽかんとしている。
だが、林檎は何かを感じ取ったようで。
「よかったじゃん、月日。厄介なガチ恋勢にならないでくださいよ?」
「……うっさい、バカみかん」
小走りで走っていく夕暮の後ろ姿を見て、林檎は笑っていた。
政木は何が何やら分からないまま、むしろ「何か悪いことしたかな……」と反省をしていた。
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