第38話 やってしまった林檎

「政木さん、ですか?」

「はい、そうです! は、初めまして!」


 林檎は出会った相手が政木だと分かった瞬間に、「あーやっちまったな」と思った。


「ええ……初めまして…………」


 何がマズいかと言えば、夕暮よりも先に政木と対面してしまったことがマズかった。

 夕暮が常日頃から「あー政木くんと直接会ってみたいなぁ」と言っていたことは林檎も知っている。最終的には本人は恥ずかしがって会おうとはしなかったが、だからと言って林檎自身が先に政木と会うことは許さない。

 夕暮月日とはそういう女だ。


 林檎の選択肢は2つ。そのまま話して夕暮に対しては何もなかったように振る舞うか、それとも――――。


「じゃあ失礼します。お疲れさまでした~」

「えっ……林檎さん⁉」


 逃げるかである。


 林檎はすぐさま逃げることを選択。暴走した夕暮を想像したら怖くてしょうがない。


 逃げるが勝ち。政木には失礼な感じになってしまったが、林檎もまだ命を諦められるほど十分に人生を生きていなかった。


「じゃあトレーナーさんもお疲れさまでした~」

「はーい」


 林檎は信じられないスピードで、レッスン場から逃げた。







「本当に偶然ですね…………まさか1日に2回も会うとは」

「……………………そうですね」


 だがしかし、林檎は逃げることができなかった。


 レッスン会場を出ると外は雨。傘を持っていなかったため、林檎は近くの喫茶店で雨宿りをすることに。

 なかなか雨がやまないなあと思いながらゆっくりコーヒーを楽しんでいるところに、まさかの政木が来店してきたという経緯だった。


 さすがにここまで来て無視するわけにもいかない。

 仕方なく林檎は相席を許すことにしたのだった。


「林檎さん、1個聞いてもいいですか?」

「なんでしょう?」

「そのぐるぐる眼鏡はなんなんですか……? 最近の流行りとかそういうわけでは……」

「ないですね。いや、マイブームではあるんですが」


 林檎が着けているのは、外から見ると漫画のようにぐるぐると渦巻きが書かれている眼鏡。

 これは林檎が最近ハマっているBL系のマンガで男の一人が着けていたのがきっかけである。わざと見た目を元の素材以上に悪くするというのがポイントだ。


「やっぱり林檎さんも変な人ですね…………」

「いえいえ、月日や政木さんほどではないですよ」


 林檎としては会話をさっさとやめて家に帰りたい。

 そんなわけがないと分かってはいても、夕暮に万が一この場を見られたらと思うとゆっくりコーヒーも飲めなかった。


 だがここですぐに店を出てしまっては、政木にとても失礼であることは林檎も分かっている。

 それにまだ外も土砂降りで、家に帰るにも帰れない。天にも見放されていた。


「そういえば林檎さんはいつからあのダンスレッスンに通われているんですか?」


 政木が気を利かせて話題を振ってくれる。


(くそぅ、いい男じゃなかったら今すぐにでも逃げてるのに)


 林檎にとって政木は恋愛対象にはならないタイプだが、性格がいいのはよく知っているので邪険にできない。


「そうですね。私が3Dに決まってすぐくらいからですね…………ってもしかして、政木さんも?」

「あはは。あんまり大きな声では言えないんですけど、事務所からレッスンをしておいたらと言われたのもそれがきっかけです」

「そうなんですね……おめでとうございます」


 政木の3Dが決まったというめでたい話も入ってくる。なおさら退席するわけにはいかないではないか。


「あのトレーナーの人、結構厳しいですよね……。最初なのにこってり絞られました」

「まあそうですね」


 林檎は空に眼力を飛ばしてなんとか雲を吹っ飛ばすことができないかと試してみたが、びくともしない。雲の連中は偏西風に乗ってのんびりと動くだけだ。

 もしかしたらぐるぐる眼鏡でパワーが失われているのかもしれない、と林檎は本気で思った。


「あ、すみません。少しお手洗いに行ってきますね」

「どうぞ」


 政木が少しのあいだ離席する。


 ここで帰るべきかと思ったが、やはり政木に申し訳ない。

 仕方ない……夕暮には死ぬ気で隠す方針だな、と思ったところで林檎の携帯が鳴った。


「げっ……」


 よりにもよって相手は『夕暮月日』と書いてある。


「もしもし……?」

『あ、もしもし~暇してた?』

「え、ええ……」


 夕暮はいつも通りのアホそうな声。よかった、千里眼で自分と政木のことを覗いているわけではないらしい。


『ん? 外出てるの? なんかガヤガヤ聞こえてるけど』

「……ダンスレッスンの帰りにちょっと喫茶店に寄ったんです」

『あ~なるほど? まだバーがやってる時間じゃないしな』

「そういう納得ですか……」


 林檎としてはいち早く電話を切りたかった。

 何かボロを出さないか、自分で自分を信じることができなかった。


「月日はどういった要件で?」

『いや~暇だからさぎょイプ(作業スカイプ:電話アプリを利用して他人と話しながら作業をすること)しようと思ってさ~』

「そうだったんですね」


 そんなことでこんな時にかけてくるな、と思ったが落ち着く林檎。


「じゃあそろそろ切りますね。また帰ったら連絡し……」

「すみません、お待たせしました……!」


 だがしかし、あと少しで逃げ切りというところで。


 例の爆弾が戻ってきてしまっていた。


『今の声――――――政木くん?』


 林檎は自分の運のなさに、天を仰いだ。

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