第5話 ひもかがみ 5
目の前に立つ冬の少年、自分の前の季節の司を見た。
雪よりもなお白く塗られた面に、すっと細く引かれた朱の目と視線が重なった。
何故か、酷く腹が立った。
思わず、言葉が口をついて零れ出る。
そんなものまで被って、自分を守っているくせに。
「なのに、わざわざ、己を傷つけるものに手を差し伸べるな!」
風が、ごうと唸りを上げた。ひゅうと音を立てて、春覚の長い髪が舞った。針鼠のように立った冬雷の短い毛も、微かに揺らぐ。空の月は、朧に隠れたままだった。
深々としていた。深々とした闇が、森々とした辺り一面に手を広げていた。
その中で、冬と春が向かい合って立っていた。
春の顔に浮かんでいるのは、はっきりとした怒りであったが、同時に苦しそうな陰りも帯びていた。冬は言葉を捜すように、二、三度首を揺らした。やがて、春に視線を戻すと、何か言おうと鼻先を突き出した。
その時だ。
―――おおい……
声が、した。
突然のそれに、冬雷の肩がびくりと震えた。春覚は一段と眉を顰めた。
―――おおい……
もう一度、声が響く。遠くから聞こえてくるような声。しかし、近くでしているようにも思えた。くぐもっているが、まだ幼い少年のものだとわかる。
―――おおい……
「何だ?」
怪訝な表情で首を傾げる春覚に、同じように首を傾げて冬雷が答えた。
「人の、声だ」
「そんなことは、おれでもわかる。聞きたいのは、何故、人の声がここまで届いているのかということだ」
ここは人里からも離れた山深き場所。どんなに喉を裂こうとも、到底人如きの声など響きようがないはずなのに。
考えるように、冬雷が俯いた。腕の中の赤子を見やる。
おや、と思った。
赤子の表情が、先程よりも俄かに和らいで見えた。
―――おおい……
四度目の声。それは、俯いた冬雷の耳に、先程よりもはっきりと聞こえた。ああ、と小さくため息を洩らした。
「どうした」
腕組みをし、空を仰ぎ声の主を模索していた春覚が、山犬を振り返った。
少年は答えず、片手で赤子を抱き直すと、空いた一方の手で自分の懐を探る。
そうして取り出したのは、真丸く、つるりとした鏡だった。
大きさは、丁度彼の顔程だろうか。
まるで空から満月だけを綺麗に刳り抜いたような銀色の鏡は、磨き上げられた表面に、覗き込んだ山犬の顔を映してはいなかった。
証の鏡が、何だと言うのだ。
不思議そうに瞬きをし、春覚が側に寄ってきた。同じように鏡を覗き込むと、あっ、と声を上げた。
それに被さるように、響く声。
―――おおい……
鏡の中に、雪にまみれた山道が映り込んでいた。
木々も道も何もかも、白く染まる山道。
その中で、まるで埋もれるようによたよたと動く影が見えた。
―――おおい……
影が、呼んだ。冷たい空気に曝された鏡の向こう側で、悲鳴のように影が声を上げた。
―――返してくれぇ……
影が言葉を紡ぐ度、影の傍に白い靄が舞った。それが、生き物の吐いた白い息なのだと春覚が理解するのに、そう時間は掛からなかった。
少年だった。
背丈は冬雷と同じくらいだろうか。今は腰まで雪に埋もれてしまっていて、正確なところはわからなかった。
まだ幼さが残る顔を、寒さで真っ赤にしていた。
凍えた空気は、吸い込むだけで人の喉を辛くさせる。だというのに、彼は大きく口を開け、喉が裂ける程に声を上げ続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます