第59話 四十九時間後 (前編)

 

 カンカンカンカン


 遠くから耳障りな鐘の音が聞こえてくる。


 詩乃はその音に顔を顰め、眠い目を擦りながらベッドから抜け出した。


「…………?」


 窓の外から聞こえる喧騒。

 なり続ける鐘の音。


 詩乃は窓際まで歩いてゆくと、木の窓に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。


 朝焼けの赤い光が部屋に射し込む。

 ひときわ大きくなる喧騒、鐘の声。


 詩乃が外の様子を確認しようと窓から首を出そうとした時、目の前を黒く大きなものが横切った。


「ひっ!?」


 詩乃はのけぞり、悲鳴をあげながらも、その影を目で追う。




 三階建ての建物の間を滑空する何か。


 その先の路上には、小さな女の子を抱きかかえ、逃げ惑う女性がいた。


 二人を追いかけるその飛行生物は、ロミ村南の森で見た怪鳥に少しだけ似ている気がした。

 いや、実際には全くの別物なのだ。

 共通点は、黒いことと飛ぶことくらい。

 だが詩乃は直感的に「似ている」と感じた。


 長い尾と蝙蝠のような羽を持つその魔物……漆黒のワイバーンは、逃げる二人に上空から接近すると、狂ったように大きく口を開ける。


 次の瞬間、通りは炎に包まれた。


「「きゃああああ!」」


 女性と女の子が火だるまになり、地面に転がる。


 ワイバーンの吐いた炎は地面を舐め、さらにその先で逃げようとしていた老人をも呑み込んだ。




「?!」


 一瞬、辺りが暗くなった。

 何かが朝焼けの光を遮ったのだ。


 詩乃は恐る恐る顔を上げる。

 視界に飛び込んできたのは、紅い空を埋め尽くす化け物の群れ。


 城塞都市ザリークは黒い魔物たちに覆われていた。


「いや…………」


 詩乃はあまりの光景に、顔を歪め後ずさる。


 数歩下がったところでベッドにぶつかり、そのまま尻餅をつくようにへたり込んだ。




 その時、


 ドンドン!!


 背後で激しく扉が叩かれた。


「詩乃ちゃん! 起きて、詩乃ちゃん!!」


 よく知る声が、彼女の名をよんでいた。


「おじさま……」


 詩乃は部屋の扉にかけ寄り、鍵を開ける。


 扉が開くと、そこには一番会いたかった人物がいた。


「詩乃ちゃん、大丈夫かい?!」


 額に汗を浮かべ、心配そうに自分を見つめる誠治。


「おじさまっ……!!」


 詩乃は誠治の胸に飛び込んだ。





 二人が階段を降りて来ると、宿屋一階の食堂はテーブルや椅子がひっくり返り、強盗でも押し入ったような有様になっていた。


 降りて来るまでの部屋に人気がなかったことを思い出し、詩乃は、既に他の宿泊客は逃げ出した後なのだと悟る。


 宿屋の入口では、クロフトとラーナが最低限の荷物をまとめ、二人を待っていた。




「一体、どうなってるんだ?」


 誠治の質問にクロフトが答える。


「魔物の大侵攻(スタンピード)です。数百年に一度発生する大災害。ワイバーンの襲撃はその第一段階です。間もなく大樹海から溢れた大量のゴブリンやオークが街を襲うはず。僕たちも一刻も早く逃げなければ」


「……クロフト、今ならいけそう」 


 外を伺っていたラーナの言葉に、クロフトが頷く。


「申し訳ありませんが、馬車は使えません。はぐれないようについて来て下さい!」


 四人はラーナを先頭に道に飛び出した。





 ラーナはすぐに裏路地に入り、誠治、詩乃、クロフトの順でその背中を追う。


 大きな通りには、あちこちに黒焦げになった死体が転がり、それをワイバーンや人面鳥(ハーピー)が貪っていた。


「……倒していたらキリがない。戦ってる間に他が寄って来る。できるだけ見つからないように行く」


 ラーナはそう言って、極力大通りを避けて裏通りを行く。


 ラーナの誘導は的確だった。

 五感と気配探知を使って危険なルートを避け、迷うことなく進んでゆく。


 これまでの直接戦闘では敵を抑えきれないこともあったが、元々彼女は潜入工作を得意とする隠密である。

 こういう局面でこそ、彼女の実力が発揮されるのだった。




 だから彼女の責任ではない。

 彼らの行く手に絶望が横たわっていたのは。


 ただ運が悪かっただけなのだ。

 それこそ宿の場所を選ぶところから。

 別の宿を選んでいれば、例えば門近くの安宿を選んでいれば、あるいは違う展開もあったのかもしれない。


 だが、それは取り返すことのできない選択。


 故に一つだけ言えることは、彼らには運がなかった、ということだった。


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