第12話 その怒りは誰のために
気が緩んでいた、と言うしかない。
暗殺者の撃退。自分たちが殺される未来の上書き。緊張状態からの一時的な解放。
その油断が再び命を危険に晒した。
「おじさま!!」
それを見た詩乃が悲鳴をあげた。
メンタルリンク……誠治の脳に、自分の背後でユラリと立ち上がったメイドの姿が映し出される。
トン!
咄嗟に詩乃をベッドに突き飛ばし、後ろを振り返る。
ガン!!
自分の視界にメイド服の端が入った瞬間、誠治の頭は蹴り飛ばされた。
左側頭部を襲う強烈な痛みと、酩酊感。
蹴られた衝撃で右手に持っていたナイフも手からこぼれ落ち、短剣が転がっているあたりまで床を滑っていった。
「ぉおおおお!!」
目に憎悪を湛えたメイドが、足元をフラつかせながら襲いかかった。
右フック、左フックと側頭部を往復連打され、あっという間に壁際まで追い込まれる。
そして、みぞおちへの強烈な一撃。
ドン!!
「かはっ!!」
誠治は耐え切れずに崩れ落ちる。
その首を、メイドの両手が掴んだ。
「かーーーーっ!?」
腰が床まで落ちた誠治に対し、女は両腕に体重をかけて気道を潰してくる。
「……っ! がっ……!」
誠治は女の手を外そうともがく。が、爪を立てようが何しようが、びくともしない。
息が止まり、酸欠の苦しみが誠治から意識を奪い始める。
(こんなところで終わるのか、俺は)
誠治の顔はみるみるうちに真っ赤に腫れ、舌がつき出た。
目に涙が浮かび視界の輪郭がボヤける。視界の端に、ベッドにへたり込んだ詩乃が映った。
(君だけでも、逃げろ……)
だが、その言葉は届かない。
ベッドに突き飛ばされた詩乃は、あまりの恐怖に固まっていた。
メンタルリンクを通じて感じる、誠治の戸惑いと恐怖。
彼は女暗殺者にいいように蹴られ、殴られ、壁際に追い詰められていた。
腹を殴られ崩れ落ちようとする誠治の首を捕まえ、両手で絞めにかかる女。首に食い込む女の指。
誠治はジタバタと手足を動かして女を引き離そうとするが、女は全体重をかけて誠治の首を絞め、決して離そうとしない。
「や、やめて……!」
辛うじて搾り出した声も、何の役にも立たず虚しく宙に消える。
助けないと……!
そう思うのだが、足が震えて動かない。
手で震えを抑えようとするのだが、押さえた手が震えていて、全く意味を成さなかった。
詩乃がそうやって自分の恐怖と戦っている間にも、息を止められた誠治の顔は真っ赤になり、ついに紫色になってしまう。
誠治は、苦しみ、もがきながら、詩乃に視線を送って来た。
声が出せず、唇だけが動く。
〈君だけでも、逃げろ……〉
メンタルリンクを通じて、誠治の声が聞こえた。
その瞬間、ぴたりと震えが収まった。
恐怖が潮が引くように消え、替わりに湧き上がる強烈な感情。
急激に頭に血が上り、詩乃は生まれて初めて自分の奥底から怒りの感情が噴き出すのを感じた。
脳裏をよぎるのは、自分に陰湿な行為を繰り返したクラスメイト。自分を売り物にしようとした養父。そして…………
いつも苦しかった。悲しかった。辛かった。寂しかった。逃げ出したかった。
逃げ出さなかったのは、懐かしい父親との思い出があったからだ。
周囲の人間に絶望し、世の中に絶望し、それでも怒りを感じることはなかった。
奪われるのが当たり前だったから。
父親が奪われ、居場所が奪われ、人としての尊厳が奪われた。
悲しく、辛い日々だったが、怒りを感じたことはなかった。それらは彼女にはどうしようもないことだったから。
彼女の人生において、父親が彼女を守って通り魔に命を奪われたその日から、全てのものは等しく価値を失った。奪われて怒りを感じる程に大切なものがなくなってしまったのだ。
それが今、彼女の中で大きく変わっていた。
どんくさそうな風貌。
周りに笑われても、困ったように愛想笑いを浮かべていた顔。
その割に時折、驚くほどの早さで回転する頭。
命に代えても自分を守ると言った真剣な瞳。
そして、熱がないかと額に手を当ててくれた時に感じた、その温度。
本当の父親には全く似ていないのに、とてもよく似ているように感じる中年のおじさん。
彼もまた詩乃を守るために、今、殺されようとしていた。
詩乃の中で感情が膨れあがる。
「たしの…………」
少女は静かにベッドから立ち上がる。
一歩。
二歩。
「わたしのパパに…………」
ついに誠治の首を絞める暗殺者の腕に手がかかる。
「近づくな、メスブタぁあああああああああああ!!!」
絶叫とともに詩乃の全身に紫電が走り、拒否と憤怒の感情が、一気に女に、女の頭に、流れ込んだ。
メイド暗殺者は、手足をタコのように揺らしながら、弾かれたように後ろに吹き飛んだ。
「こはっ……はっ……」
「はあ、はあ、はあ…………」
咳き込みながら呼吸を回復する音と、怒りを爆発させた余波で半ば放心し肩で息をする音が混じり合って、辺りに響いていた。
誠治は壁に背中を預けてへたり込み、詩乃はその傍らでぺたんと床にお尻をつけ、顔をぐちゃぐちゃにしてぼろぼろと涙を床にこぼしている。
立ち込めるアンモニア臭。
メイドは何メートルか離れた床に白目を剥いて仰向けに転がっていて、潰されたカエルのように股を開いて全身をピクピク痙攣させながら股間から黄色い液体を垂れ流していた。
呼吸と意識が戻った誠治は、傍らで泣く少女に左手を伸ばした。
「……?!」
詩乃の小さな身体が、びくんと反応する。
誠治はそのまま黙って少女の頭を撫で、彼女を抱き寄せた。
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