第6話 十六分後の世界
コン、コンと、扉がノックされた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
若い女性の声がして、扉が開かれる。
「お食事をされていないということなので、軽食を一緒にお持ちしました」
二十歳くらいのメイドが丁寧に立礼し、ティーセットの乗ったワゴンを押して入ってきた。
「ああ、どうも。助かります。彼女何も食べてなかったから」
誠治は隣に腰掛けている詩乃に目をやる。
詩乃はガチガチと震えながら、怯えた視線を誠治に返した。
「大丈夫?」
誠治の言葉に、必死に首を振る詩乃。
彼女の視線はメイドにくぎ付けになっていた。
誠治は再びメイドの方を見た。
メイドはテーブルセットの脇までワゴンを押して来ると、ワゴンの上に乗っていた軽食の皿の蓋を左手で持ち上げた。
「!!」
目を見開くふたり。
本来ならパンでも乗っているはずの皿の上に、湾曲した片刃の短剣が置かれていた。
ガチャン!
皿の蓋が派手な音を立てて床に転がる。
同時にメイドは短剣を右手で掴み、流れるような動きで二人に踏み込んできた。
「逃げろ!!」
左腕で詩乃を押しやり、ベッドから立ち上がって素手で迎え撃とうとする誠治。
だがメイドは表情を変えることなく、低い姿勢で短剣を逆手に構えて突っ込んできた。
一瞬で距離が縮まる。
シュッ
二人が交錯する瞬間、短剣を握ったメイドの右手が振り抜かれる。
「っつっ!!」
刃は咄嗟に顔を守るように構えた誠治の左腕を切り裂いた。
誠治の白いシャツが皮膚ごと切り裂かれ赤い線が走る。
ガードしなければ間違いなく喉笛を掻っ切られていた。
一撃を防いだものの攻撃は止むことなく続く。
メイドは一撃目を振り切ったところから、今度は逆手のまま短刀の先端を誠治に向け、左の手のひらで柄頭を押し込むように体当たりで刺突してきた。
「くっ!」
誠治も仰け反りながら後ろに逃げる。
が、ワンテンポ遅れてしまう。
グサ
左の脇腹に熱い衝撃が走った。
「ぐぁっ……」
痺れるような激痛に、呻き声が漏れた。
ブシュ
刃が引き抜かれる。
シャツが赤く染まる。
(ヤバい……かな)
刃が深く入り、内臓を傷つけたかもしれなかった。
腹を押さえて片膝をつこうとしたところで、メイドが三たび短剣を振るうのが視界に入った。
ザシュ
真ん中から右にかけて首筋を切り裂かれる感触。
続いて、何かが噴き出す音が聞こえた。
(頚動脈……!)
目の前が真っ赤に染まり、意識が急速に遠のいてゆく。
(柔道もうちょっと真面目にやってたら、何か変わったかな)
中高時代の部活の光景を思い出す。
柔道場。道着。部室。汗の臭い。エロ本。
(せっかくの走馬灯が台なしだ……)
視界の端に、顔を歪めて後ずさる詩乃と、彼女に襲いかかるメイドが映った。
短い悲鳴。
あたりに飛び散る、赤。赤。赤。
(ああ、俺は女の子ひとり守れなかった……)
無力感とやるせなさに押し潰されるように、誠治の意識は闇に落ちていった。
少しだけ時間を遡る。
部屋の扉がノックされた時、坂下詩乃は奇妙な違和感と恐怖に襲われていた。
なぜなら今扉を叩いた人物から、何の気配も感じなかったからだ。
こちらの世界に来てから、彼女は常に不思議な感覚に晒されていた。
それは得体の知れないモヤモヤ……人の感情……が見えることであり、その延長として周囲の人間の気配を感じられることだったのだが、今、扉の向こうにいる人間は、何の気配もなくいきなりそこに現れた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
だが扉が開き姿を現したメイドを見て、詩乃は理解した。
メイドの指に光る赤い指輪。その指輪が彼女の気配を吸い取っていたのだ。
彼女と、ワゴンの上に乗せられた皿から溢れ出る黒い気配を。
「お食事をされていないということなので…………」
「ああ、どうも。助かります…………」
誠治はそれに気づいていない。いや十分警戒はしているのだろうが。
「大丈夫?」
詩乃の様子に気づいた誠治がこちらを見た。
詩乃は必死で首を振る。この危機を伝えようと。
そして、皿の蓋が取られた。
「逃げろ!!」
誠治が詩乃の肩を押し、立ち上がる。
詩乃は急いでベッドを這い、向こう側に逃げた。
ベッドから降りて振り返ると、誠治が短剣で腕を切りつけられていた。
致命傷を避けられたメイドは、今度は短剣を両手で構え、誠治に体当たりしながら突きかかる。
「ぐぁっ……」
誠治が呻き声を漏らした。
体が影になって見えないが、腹の辺りを刺されたようだった。
誠治の肩越しに、メイドが詩乃を見た。獲物を狙う冷たい眼。
「ひっ!」
(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……)
逃げようとするが、足が震えて動かない。
メイドは誠治の体から短剣を引き抜くと、トドメを刺そうと構えなおす。
「やめてー!!」
気がつくと詩乃は、今まで出したことのない大声で叫んでいた。
が、メイドの腕は止まらない。
そのまま短剣は振り抜かれ、誠治の首から真っ赤な血液が噴水のように噴き出した。
「いやあぁぁぁぁ!!」
詩乃の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
自分のことを心配してくれた誠治。
死んでしまった父親と似たにおいのする優しい人。
少しぼんやり抜けてる感じなのに自分を守ると言ってくれた年上の男の人。
気がつくと、目の前にメイドがいた。
メイドは空いた左手で詩乃のブラウスの襟を掴むと、短剣を握った右手を軽く後ろに引く。
詩乃は無意識に自分の襟を掴むメイドの左手を両手で掴んだ。
次の瞬間、詩乃の人生は終わった。
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