浜につくと、先輩は大きく手を振っていた。重い身体をどうにか動かして、そこまで向かう。カラメルのように固まって、からめ取られそうになるような足を引き摺りながら。


 軽量であるとはいえ、濡れたラッシュガードは重く、全身にのしかかってくる。どうやら、陸上に上がると、水を含んで纏わりついた着衣からは、重力を分散することはできないようだ。この力の欠点を、一つ発見した。


 後ろを振り返り、静かに頭を下げる。くじらと、そのほか生態系の存続、繁栄を祈って、海に向き直る。



 ✤ ✤ ✤



 長いこと泳ぎながら、思考に充てる時間は十分にあった。これまで、先輩に対して抱いてきた瑣末な疑問は凝集し、そのわだかまりは、じんわりと沁み出すように、融解することとなった。


 開口一番。先輩に、自分なりの推理をぶつけてみることにする。緊張のせいか、強ばった声が出た。


「先輩の本来の目的は、写真を撮ること、ではないですよね」


 腰を下ろして寛いでいた先輩は、え、と短い声を漏らし、目を白黒させ、私を見上げた。その反応をよそに私は続ける。


「だけど、計算外だった。先輩は私の力の、鯨に対する影響を、考慮していなかった。私も、そう」


 短く息を落としたように、私は言い切る。


「でも。私、先輩の判断は正しかったと思います。鯨の安全を、第一に考えて、私に指示を出してくれたこと。私。昔、テレビでドキュメンタリーを見たことがあるんです。鯨が、取り上げられているのを。座礁した鯨の死骸には、メタンガスが大量に溜まってて、それが爆発の原因になって、甚大な被害を及ぼすそうです。過去には、サーフィンをしていた人が炎上する事故が起こりました。もしあそこで、鯨を放っておくと、私も危険だっただろうし、他の色んな魚にも害が及ぶことになる。だから、先輩は正しかった」


 先輩は困ったようでも諦めたようでもある顔をして、黙っている。沈黙。了承の意であることを目で確認し、続ける。


「そして。昨日、私は調べました。去年のペットボトルロケット大会の打ち上げは、ここ曼殊浜で開催されていた様ですね」


 先輩はばつが悪そうに目を伏せている。


「これ、見つけたんです。プラスチックゴミを誤飲する魚たちが問題になってますよね」


 私はラッシュガードのポケットの裏地をひっくり返す。プラスチックの屑がヒラヒラと舞って、地面に落ちた。


 海底に沈んだ、欠片たち。先輩から貝殻、と言われて足元に目を落とした時に見つけたもの。一見すると、貝殻のようにキラキラと光って見えたが、装飾を施したプラスチック片であることに気付いた。


 去年の大会のゴミだろう。大方、ロケット本体は海上で運営側に回収されたのだと思うが、細かい破片までは、取り除くことは出来なかったのだ。主催者側はこうなることを知っていたのだろうか。なんて愚かで、無責任なんだろう、と私はやるせなく思う。


「それから。鯨のいる海域であることも、もちろん知ってたんですよね」


 平静さを保った顔つきで、先を促すように、先輩は頷いた。表情の読み取れない目をしている。


「でも大丈夫です。先輩の本来の目的をちゃんと、果たしてきましたよ。先輩があの時、なぜGPSを細かく把握して、鯨の海域に私を連れていったのか。去年、ペットボトルロケットを飛ばした位置は、空気抵抗などを考慮して、その海域へと着水するように計算していたのではないのか。そしてその時、分離型のものを恐らく使ったんだと、私は予想しました。本体と別に、部分的に一部が切り離される仕組みの。宇宙空間でもよく見るやつですね」


 どうぞ、と海底で回収した長方形の塊を、私は差し出す。ふふ。一瞬、虚をつかれたような無表情になった。先輩のその拍子抜けしたような、驚いた顔を見て、私は満足げに笑みを浮かべる。


「それは、私が撮影した、瞬間を切り取ったような写真よりも、ずっと価値のあるものでしょう? このレコーダー。撮影持続時間は知りませんけど、深海を記録した映像なんて、滅多に撮れないでしょうから。これを、海底に設置してたんですよね? ペットボトルロケットと一緒に、海に落とした。去年。意図的に」


「私の通信機のGPSと、このレコーダーに内蔵しているであろう、鯨の位置が把握できるような……。そう、例えば、鯨の周波数を検知できる機械を使って、私は先輩に意図的に導かれた。そして、私はくじらに出会った」


 意表を突かれたように、目を見開く。

 それから先輩は、はぁとため息をついて、でもそれは安堵の息だったのかもしれないが、へたり込むように、手を広げて浜に転がった。


「ありがとう、一重さん」


 観念したように肩をすくめて、それから感謝の言葉を口にする。


「どういたしまして。でも、もう私を利用しないでくださいよ。楽しかった、ですけど」


 照れるのを隠すように、私は先輩に尖った口を利く。ごめん、と先輩は柄にもなく、すぐに折れ、今度奢るから、といつ果たされるか分からない、所詮口約束にすぎないような、不確定な未来を私に提案してきた。


 いいです。結構です、ときっぱりお断りする。私、真意を測りかねるような、善意の芽はその場で摘み取っておく主義なので。


 なんだぁ、つれないなぁ、とはぐらかすように先輩は目を細めて笑った。


「それに、私も。実は、お宝拾ってきました。別に、先輩だけ得をした訳じゃないので、お互い様です」


 ふふ、と堪えきれなかった悪戯っぽい笑い声が漏れてしまう。


「曼殊浜にある崖から軽自動車が落ちる、と事件があったのを覚えてますか。ニュースでも一時期注目を集めました。事件、と言いましたが、あれ、警察の調べでは事故として処理されたんです。なんでも、崖となっていた駐車場の白線のラインが、通常より奥に引かれていたことが原因だったそうで。運転手のバックのしすぎ、だと言われています。石灰の白線を引いたことに関して、単なる人為的ミスではあるものの、駐車場管理者の殺人予備行為としては捉えられなかったようです。管理人の方は出掛けていたので、アリバイもあるということですし」


「ただ。もう一つ、謎が残されています。現場検証の結果、運転手は睡眠薬を飲んでいた可能性があるんです。誰かが、それを飲ませて崖から転落させ、殺そうとしたのではないか、と。そう考えると、駐車場の白線が引き直されていたことにも合点がいきます。しかし、海に落ちてから、意識を取り戻した後、検査を行った時には運転手から薬物反応は出ませんでした。従って、結局、証拠不十分で事故として処理されました」


「そこで。私が、見つけたのは。携帯、お守り、とコンビニおにぎりのプラスチック包み、です。多分、携帯とお守りの方は関係ないでしょうが、このプラ包みから薬物反応が検出されたら、事件性が有ることの立証ができるかもしれません。コンビニのおにぎりで使用している脂分に、睡眠薬の成分に染み込んでいれば、十分な証拠になります。脂分は水では落ちないので、海水に晒されていても問題ないでしょう。それに。時効に関しても、まだ大丈夫ですし」


 私は証拠をしまいこんだ、もう片方のポケットをポンポンと叩いてみせる。


 ……ビスケットが出現する訳ではない。仮に、そんな能力が与えられてたとしても、私は嬉しくなんかない。今の力だって、扱い方が大変だというのに。


 またしても先輩は、呆気に取られたように、それから歯噛みするように、なんだよ、と悔しそうな表情で睨むように私を見る。


 ふふっ。うん、私。その辺のキャラキャラした女子とは違って、頭のナカお花畑じゃないですから、と誇らしげに達観を滲ませた表情をつくってみせる。



 ✤ ✤ ✤



 その二ヶ月後。私の撮った写真が、フォトコンテストで優秀賞を受賞したそうだ。クラスの前で、先生から口頭で伝えられたものの、未だ実感が湧いてこないまま一週間が過ぎた。


 先輩からは、「おめでとう。君の成果だよ」と心から嬉しそうに祝って貰った。


 私よりも受賞に喜ぶ先輩の顔を見て、「私の許可なく、勝手に応募してたんですね」なんて問い詰める気は毛頭起きず、素直に先輩の言葉を受け止めることにする。ありがとうございます。受験勉強頑張ってください、と一言返しておいた。


 改めて、写真を見返す。


 紺碧の海。そこは広大な世界。深海に眠り、柔らかな水の抱擁を受けて生きる、その姿は、自由の象徴にも思える。


 壮大な青に染められた背景に、一頭のくじらが横切った。



 ✤ ✤ ✤



 あれから数年が経ち、いつもこの時期になると、海のにおいが無性に恋しくなる。あの日、くじらに出会ったことも含めて。


 窓から吹いた、涼しい風が襟元を通り抜ける。湿り気のある暑さの余韻と、梅雨明けが間近に迫る予感を肌で感じながら。


 ああもう夏だ、と私は思った。

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鯨よりも深く 押田桧凪 @proof

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