浸
撮影日当日になった。
真っ白な砂浜。風に吹かれては、砂がさらさらと飛散していき、表面の細かな起伏が浮き上がる。
帽子の
その姿に近づくにつれて、先輩、夏に全身黒は無いですよ、と内心呟いてから、あ、と気づく。同じく私も、先輩が調達してきた黒のラッシュガードを着ていることに。
✤ ✤ ✤
砂浜に立って、私は両手を左右に、押し開くように伸ばす。
海面がぐにゃりと曲がった。本当に、曲がった。スプーンのように。
これが、今ここに重力場を生み出しているということなんだろうか。こんなにも抵抗なく、海が、私を受容していることを実感する。それから、こぽこぽ、と振動し、弾けるように流体は私を取り囲んで、左右に分かれた。
ザバン。切り取られた海の断面が左右に広がり、水族館のショーケースのように色とりどりの魚が、その中を泳ぎ回っている。
その間に、道が広がる。約2メートル先の範囲まで、砂浜と地続きになった、地面の表層が露わになった。横に波打って盛り上がる海面が寄せられている。
奥まで広がる窪んだ地面。
もともと、海底だったであろう場所が歩けるようになってしまった。私の、力で。スプーンさえ、曲げる力のない私が。想像だにしない光景が生まれ、私はそのまま呆然と立ち尽くしてしまう。
──理論上は、可能だね。
先輩の声が、頭の中で反芻する。
「ね、言ったでしょ。一重さんは、できる」
後ろではしゃぐ様な先輩の声がする。
「じゃあ、僕はこの砂浜で待ってるから。海底の様子とかは、耳の通信機のGPSと照らし合わせて把握しておくね」
それに応えるように私は、はい、と威勢よく返事をして、一歩を踏み出す。ひんやりとした、砂道を歩き始める。
✤ ✤ ✤
波がドミノのように、こちらへ連鎖していく。道を進むごとに、こぽこぽ、と前方の景色が開かれた。それと同時に、ざざ、ざざ、と半径2mの範囲外の後方空間が削ぎ落とされるように、海水に満たされていく。連続して重なる二つの音は聞いていて、心地よかった。
カシャ、カシャ。
首に掛けたカメラを向けて、色鮮やかな魚たちを写真に収める。そのうちの何匹かは、シャッター音に反応して、驚いたように尾を翻す。
おもしろい。幻想的な、魚の世界。
こういう、断面を見ることは滅多にないだろう。水族館のガラス越しとは違って、水を隔てて、すぐそこに魚がいるのだから。
感動に浸りながら、私はどんどん歩を進めていく。
✤ ✤ ✤
「先輩、そろそろ戻りましょうか。色々と写真も撮れたし」
カメラの時間表示を見ると、もう地上では、お昼を回っていた。夢中で歩いていたので、スタート地点の浜から結構な距離、離れているだろうと察する。
「あー、一重さん。もう少し、あとちょっと。進んでくれないかな? そう。もうちょっと前方。その辺にきれいな貝殻とか落ちてないかなー」
先輩に言われて、足元に目を落とす。
──その瞬間。
ごご。ごごご。鈍い音が、海底に大きく響く。ギギ。ギギ。 それと同時に、調弦されていないバイオリンのような調子の狂った、くぐもった低音が重なる。ぐらん、と視界が揺れる。
ざざと震動の影響か、通信機からも砂の混じったような音が漏れた。
……なに?
目を凝らして、周りをざっと見回す。
チラッと何かが。横目で何か、大きな影が横切るのが見えた。そちらに、顔を向ける。焦点を結う。一点に標準を合わせて、目線を止めた。
──くじらだ。
その巨体が、ゆっくりと移動している。暗い青の中で、存在感を放つ大きさ。自らの重みを支えながら、周りの水を従えるように、クジラは前方へと進む。
初めて、見た。生、と言うとおかしな言い方だけれども、こうやって実物のくじらを見るのは、初めてだ。私は興奮気味になりながら、通信機に向かって、先輩に話しかける。
「先輩。せんぱい、くじらを見つけました!」
早口になりながら、急いでシャッターを切る。カシャ、カシャ。カシャカシャ。勿論、この瞬間を肉眼にも刻みつける。
私はくじらよりも深いところまで、はるばるやって来てしまったのか、と改めて、感慨深く思った。幼少期に図鑑で見た通りの、その荘厳なイメージを崩すことなく、くじらは今、私の目の前に現れて、深海を横断している。
……あれ? 待って。
ふっと微かな違和感が胸を掠めた。
けれどそれは素通りすることなく、じんわりと私に思考を促す。見ろ、と。そういうように。
鯨が、沈んでいる。今よりも、もっと深く。なんだか、くじらの様子がおかしい。
「すみません。先輩、聞こえますか? くじらが。くじらが。体が、動かなくなってます。どんどん沈んでる」
目の前の状況と、それを説明する言葉が追い付かなくなって、思考が氾濫する。どんどん沈んでいく、くじら。
声が、震えている。自分の顔から、血の気が失せていくことがはっきりと自覚できた。
有り体に言ってしまえば、怖かった。
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