第20話 本物がいました!

 静かで暗くて重い空気の溜まる宿舎が、これほどまでに辛く苦しい空間なものとは、想像もつかなかった。

 ほとんどの人間は戦後処理に出向いているため、この宿舎には今誰もいない。本来ならば、戦いの傷を癒すには格好の環境だろう。だが無力で無責任な俺には、逆にその静寂が、まるで俺自身への断罪の沈黙のように感じてしまう。

 無数の死霊の手が、俺に伸びてきている気がする。ほら、もうすぐそこにいる。そこにいるんだ。

 ひたすらに問いただしてくるのだ。お前はあの時何をしていた、と。お前はあの時何ができた、と。

 肩をゆすり、首元に腕を絡ませ、足首を掴み、延々とその質問だけを反芻するのだ。


「わからないんだ……わからない、わからないんだよ……」


 今までは、記憶なんてどうでもいいと思っていた。別に覚えていないことがあっても、何も問題はないと軽視し過ぎていた。

 だがそれは、事の大きさを俺が理解していないからこそできる、幼稚で未熟な考えだった。ハルバード平野でのことは、奇跡のようなものだったのだ。

 あれだけの戦いを繰り広げて、誰も死んでいないことがどれだけ幸運なことなのか、俺は全くわかっていなかった。もしあの戦いでローゼが死んでいたら、俺はどうすればいい? 

 何もわからない。何故俺が生きているのかも、何故ローゼを守れなかったのかも、記憶にない。だからどうでもいいのか? 忘れていいのか? 

 そんなわけがない。そんなこと許されるはずがない。そして俺は今日、その許されないことをやってのけた。大勢の人々が逃げ惑う中、その全てを忘れる大罪を犯した。


「…………ダメだ」


 永遠に終わらない懺悔と後悔、そして落胆の渦。その中心にうずくまる惨めな俺に光明などなく、冷たい暗黒の空気が俺の世界を覆い尽くす。

 その孤独な俺に付きまとうのは、自我が勝手に生み出した、罪滅ぼしの象徴たる死霊達。彼らが実在しないことは俺もわかる。でもそれらを認め、必死に弁明しているのは、きっと心のどこかで俺が、まだ赦しを求めているからだと思う。

 ったく、どこまでも自分勝手な人間だな、俺は。誰もそんな甘いことしてくれるはずが——

「——んぅ」

 ここで唐突に、俺の精神は渦から解き放たれた。

「っ!」

 部屋の中から妙な呻き声が聞こえる。まるで深い眠りから覚めた直後のような、本当に小さい声が。


—————————————————————————————————————


 静かで暗くて重い空気の溜まる本部が、これほどまでに恐ろしく心細い空間なものとは、見当もつかなかったな。マジで怖いわここ。普通にちびりそう。


「静かに……誰もいないとは思うけど、万が一ね」


 戦後処理で、ほとんどの人間が出払っている今しかないと思って本部に潜入したけど、やっぱり日を改めた方が良かったかもしれないな……こんな深夜に人気のない施設に入るなんて、完璧にホラー映画の冒頭シーンじゃん。


「あれ? でも僕の姿が見えないなら、この場合は僕が幽霊役か。じゃあ誰か別の人がいないことを祈ろうっと。僕が失神するからな」


 まぁ、こんなどうでもいいこと考えられてるなら、大丈夫な気もするが。

 さて、本部に潜入した理由はもはや明白だろう。もちろん、特殊魔法起動装置を見つけて、元の世界に戻るためだ。

 これ以上、僕がこの世界にいてはいけない。僕がいることで、この世界は本来の道からどんどん外れてしまっている。いわばバタフライエフェクト——歴史改変だ。たとえこの世界が作られた世界だったとしても、そんなことあっていいとは思えない。

 それと……もう一つ。


『ハイム……大丈夫かな……』


 そう、登場人物達への悪影響、とりわけハイムに対しての心配だ。

 あの戦いの後、ハイムは自分が何も覚えていないことを責め続けている。今回の犠牲者の全てが、自分を恨んでいると思い込んでいる。それだけ正直で愚直な男なんだ、ハイムって。

 だから、なおのこと僕がいてはいけない。僕が一緒にいるせいで、彼は絶望のどん底で膝を抱えて震えている。本当に頭を下げなければならないのは、僕なんだ。


『最後まで話せなかったのは残念だけど……僕が帰れば、全て丸く収まる。それが第一だ』


 そんなこんなで部屋を巡りに巡り、いよいよ残るは指令室のさらに奥。今日の夕方に見つけた名もなき部屋だ。あの時は特に意識してはいなかったが、ここまで施設内を探し回ってどこにも見当たらないとすると、もうあの部屋にあるとしか考えられない。

 まさに『灯台下暗し』を実践してしまったわけである。

 先程まで部屋を物色していた第二館から中央の本館に戻り、記憶を辿って指令室への道を進んでいく。そうして一直線の通路に差しかかると、大がかりなドアと共に、何の変哲もない普通の極みたるドアが視界に映った。


『よし……』


 ようやく見つけた突破口の存在に惹かれ、僕は意識していた抜き足差し足を思考から除外。思い切って走り出した。

 これでようやく終わる。これですべてが元通りになる。そう信じて。


「————」


 しかし、その思いは突如として開いたドアによって遮られ、僕の足は驚愕によって固められることとなる。しかし予想とは裏腹に、情けない悲鳴は飛び出なかった。              

 どうやら人は、本当に怖い瞬間に遭遇すると、悲鳴もなく静かに硬直するらしい。


「ふぅ……いい気分だねぇ。静かってのは」


 そう言って現れたのは、あのショウタ・ゲイルだった。何でこんなところにいるのかという疑問はあるが、なんとなくこいつなら、一人でかっこつけてたそがれてるイメージもつく。

 ったく、愉悦に浸った顔しやがって。幽霊役として絶叫させてやりたい。まぁ僕

は、その男の登場に言葉が出ないほどビビり散らかしてるわけだけど。


「なんと居心地のいい場所なんだ。月もきれいだし」


 無視だ無視。こんなキャラ生み出さなきゃよかった。さっさと通り抜けよう。

 僕は彼への苛立ちによって恐怖を解消し、再び足を進めた。


「懐かしい雰囲気を感じるよ。みんなが俺の言うことを聞いてくれて、それに合わせて動いてくれる。最高だ」


 うわぁ……マジ引いたわ。世界中にはいろんな嫌われ役が存在するが、バックボーンのない純粋なウザさはこいつが一番なんじゃないか。こういう傲慢なところも、よくできてるよ。僕のキャラクターメイキング完璧だな。

 ショウタの最低な言葉を聞き流しながら、僕は腰をかがめてその前を通る。見えてないんだからやらなくていいかもしれないけど、ついやっちゃうんだよね。社会人生活がまだ抜けてないや。


「まるで学生時代みたいだな。懐かしい」

「————ぇ」


 瞬間、僕の思考に一つのピースが投げ入れられる。そのピースは僕の記憶や経験のピースと瞬く間に連結していき、想像を絶する速さで一つの答えへと繋がった。


「あの頃は楽しかったよ。みんなが俺についてきてくれて。朝から晩まで楽しく笑って遊んでの繰り返し。あんな天国をもう一度味わえるなんて、お前には感謝しなきゃな」


 この口調にこの雰囲気。これはもはや、あいつをモデルにしたショウタ・ゲイルではない。模倣のキャラクターの範疇を越えた、完全なるオリジナルの印象だ。


「——っ! なっ……」


 その時、僕の右腕が素早く握られる。この世界に来て、魔獣にしか触れられることのなかった、僕の腕が。

 そしてゆっくりと僕の視線が、引き寄せられるようにやつの顔の方へと向けられ、再び石像のように硬直した。


「——よぉ天木。久しぶりだな」

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