第21話 嫌なこと思い出しました!
こいつの存在を知ったのは、大学に入学して間もない、まだ僕がシナリオライターを志す前の頃。
思えばこいつ——内海翔太(うつみしょうた)の名前は、入学当初から大学内に轟いていたと思う。高校時代はサッカー部でエースとして活躍し、チーム成績こそよくなかったものの、彼自身はプロチームから声がかかるほどの実力者として、大学のサッカー部からも期待されていた。事実、大学のサッカー部の成績は翔太の入部後、様々な大会で好成績を残すようになる。
また成績優秀で容姿端麗という、ラブコメ漫画の世界から転生してきたようなスペックを持っていやがるから、女子からの人気もとんでもなかった。あの扱い方はもはやアイドルだ。そんじょそこらのアイドルもどきなら人気で勝てるレベルの。
そんなこんなで、瞬く間に大学の陽キャ集団のリーダーとなった翔太は、僕のような影を纏いし者(陰キャ)にとっては、ゴキブリよりも触り難い、大敵となったのである。
——そこから、大学の雰囲気が変わった。
「でよぉ、あの野郎試合中に大ミスしやがって。そのせいで試合は引き分けで終わったワケ。せっかく俺の1点が決勝点になるはずだったのによ、あのバカ」
「でもさ、その人先輩でしょ? 翔太君いいの? そんなこと言って」
「大丈夫だよ。俺はあんなミス絶対にしねぇし、そもそもあのバカがミスったのがいけねぇんだろ?」
「さっすが翔太! ぶれないなぁ~」
「おいよせって、あっはは」
人間とは集団で生きる生物。各々がそれぞれの思惑を持ちながら、何かしらの集団に属することで自身の存在を証明する。またその属する集団同士を比べ、何かしらの形で優劣を決める。
その決め方は、いわゆる「空気」というやつだ。誰かがそれとなく醸し出した雰囲気に周囲の人間が飲まれ、その決断を信じる。信じる人間が多ければ多いほどその「空気」は「正義」や「常識」と捉えられるようになり、その空間が決定されるのだ。
そしてその「空気」を作ることができるのは、集団の中でひと際輝く才覚、カリスマ性を持つ者。
僕の学年でその力を持つ人間は、翔太だった。
やつの傲慢で極度の実力主義的な考え方は、いつしか僕の学年の「常識」となり、彼らが見下せる光らない人間——僕のような存在は、間接的な侮辱の嵐の中、野ざらしのまま放置されることとなった。
いやぁ、あの雰囲気は酷かったよ。経験ある人はちょっと想像つくんじゃないかな。イキった集団がぞろぞろ歩いてさ、聞こえるようにして陰口言っていくあの様。吐き気がするよね。
——そしてある日、とうとうその矛先は僕にも向けられることになる。
「なぁ、今更なんだけどあいつ誰?」
それは大学一年の秋。ぼっち学生という立場にもすっかり慣れ、先んじて一番端の席を取り、この世界——処女作を書いていた時のことだった。
「あの端っこの人? あーあたしもわからないかも」
「俺も知らねぇな。っていうか、あんなのいたか? よく気づいたな」
うるせぇ。こっちもお前のみたいなヤンキーもどきの名前なんて一文字も知らねぇよ。
「へへぇ~、だろぉ? ったく、何であんな辛気臭い顔してんのかねぇ」
そう言うと、翔太は群れの中から一人抜け出し、まっすぐにこちらへと向かってきた。
「よぉ、お前なんて名前なの? なぁ」
うるせぇな邪魔だろーが! 何初めての会話で馴れ馴れしく肩に手ぇ回してきてんだあぁ⁉ 離せやオラァ!
「い、いや……あ、あの僕は、あ、天木——」
……みたいに言えればどれだけ嬉しいことか。ここにきて僕の固有スキル『沈黙(サイレント)』が発動したことにより、ペースは完全に翔太のものとなる。
「——んだよ歯切れ悪ぃな。自分の名前くらい言えんだろ、お前みたいなド陰キャでもさぁ」
ヤンキー陽キャらしいやや当たり強めの接触が続く中、僕は精神の甲羅に意識を閉じ込め、耐えることを決意した。
もうこうなっては、僕がこいつを押し返すことは不可能だ。なら僕ができることは、こちらの土俵に敵をおびき寄せ、籠城戦に持ち込むこと。陰キャの強みを最大限に生かし、この太陽の悪魔を根負けさせる。これが、僕の最後の勝ち筋なのだ。
「おい、無視すんなよ。聞いてっか?」
よしよし。やはり予想通り、反応を示さない僕に対してイライラしてきたな。それだ。それで僕にふざけた暴言を吐いて立ち去れ。その引き換えの暴言なら甘んじて受け入れる。だから早くいなくなってくれ!
心中で暴れる本音をなんとか抑え込みながら、僕はひたすらキーボードを打ち続け、悪霊退散を願った。
「てかさ、お前これ何? 何書いてんの?」
「えっ⁉ ええと、こ、これは……」
だが、それがまさか仇になろうとは、流石に予想がつかなかった。
「ええ~と何々? 『そうか……お前だったんだな。お前が俺達を——』」
「や、やめて! 読まないで!」
「おおぉ、なんだよ急に。なんか変な文章ばっか書いてっけど、これお前が書いたの? 小説か?」
手を広げて画面を塞ぐ僕。しかしそんな行為が意味を成すわけもなく、翔太は僕のパソコンを奪い、そのまま僕の稚拙な文章たちを音読し始めた。
「『ハイム! あなただけでも向かって!』で次が『何バカなこと言ってんだ!』」
「やめてって! 返せよパソコン!」
この頃の僕にとって、作品は自分そのものだった。つまり自分の文章を他人に音読されることは、公然の場で素っ裸になっているのと同じ、強烈な羞恥心をもたらすのである。
「何だよこれ、だっせぇ! こんなの……ふふっ、あはははっ! こんなもん書いてて……恥ずかしくないの⁉」
「返せぇ!!」
大爆笑の隙を突き、やっとの思いで僕はパソコンを取り返す。しかし、もう僕の裸は、教室中に知れ渡ってしまっていた。
翔太の爆笑に釣られ、手下どもが同じように満点大笑いを披露。僕と、僕の作品を侮辱する。その笑いが伝染を始めると、いよいよその笑いの波は僕以外の全員に普及し、巨大な笑いの悪魔がこの地に生まれた。
「ふざけるな! お前に、僕の作品をバカにする、権利なんてない!」
当然の怒りだった。だが彼らの目には、僕がミジンコやミドリムシのような、微生物にしか見えていないのだろう。どこまでも蔑視の表情を浮かべ、悪魔の首魁は口を開く。
「——だってお前さ、いる意味ないじゃん」
これが「空気」を生み出す者の力なのか、彼の低い声音の一言で、周囲の笑いがすんと消え去った。
「お前はいる意味がないんだ。だってそうだろ? 何の才能もなく友達もいないお前の、どこに価値があるんだよ? なんか言えるか? 自分の優れたところ」
「なっ……」
「どうせ人に言えるようなこと何もしてねぇんだろ? それで今まで生きてきて、今更ライター気取りか。くっだらねぇ。まぁでも仕方ねぇか。お前みたいな何も持たない馬鹿は、恥の上塗り以外やることがねぇんだから」
周囲の沈黙に、少しずつあの醜い笑いが蘇っていく。だが僕は、そのクラスの雰囲気を打破する術を持たず、憐れに嘲笑の的となってしまう。
「珍しく俺に口答えしてきたから教えてやるよ。いいか? お前には何も価値がねぇ。今までも、これからもな。わかったら素直に馬鹿にされてろよ。俺みたいな才能の塊に」
——その時、僕は密かに誓った。
なんとしてでも、自らの夢を叶えてやると。今ここで笑っている連中を、必ず笑ってやろうと。
真上から全身全霊を込めたマウントを、必ず取ってやると。
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その怨敵が。僕にとってのラスボスが。今目の前に立っている。僕が決して忘れま
いと、あえてやつをモデルにして書いたキャラの中に宿って。
「っ! どうしてお前が!」
現実に意識を向けた時、その怨敵に手を掴まれていることを悟った僕は、反射的にその腕を振りほどき、すぐさま距離を取って拳を握った。
「おぉおぉ、なんか立派な動きするようになったじゃねぇか。戦いの中で、ちっとは成長したってことか」
「答えろ! どうしてお前が僕の……僕の世界にいるんだ!」
「まぁまぁ、そう焦んなよ。教えてやるから。大馬鹿で能無しのお前でもわかるようにな」
その口が今、もう一つの事実を語る。この世界に呼び出された、もう一つの道を。
僕は、息を呑んだ。
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