第19話 わからなくなりました!
その時、僕は死神が見えた気がした。いや、確実に見えていた。
「————ぁ」
眼前に広がる底知れぬ暗黒。その周囲を包むようにして並ぶ鋭利な牙の列。その塊が僕を飲み込み、咀嚼し、血肉としようとしている光景を見れば、誰だって見えるはずだ。
「——ハイムぅぅぅぅぅぅ!」
しかし、その死神の大鎌は、この身体の首元を掻き切るまでには至らなかった。
一秒未満の間隙、その認識不可能な超速の領域を縫い、紫電一閃の斬撃が瞬いたのである。
「ギャアァァァァ————!」
実に人間らしい悲鳴を上げ、鼻元から噴出する血しぶきに悶えるシャンザーグ。そして隙の生まれた腹に、一瞬にして無数の斬撃が襲いかかり、さらなる出血を受けたシャンザーグは、僕との距離を大幅に取ることで、追撃を阻止した。
そして、僕の前に戦士の背中が現れる。
「よ、良かった……間に合った、んだね」
「ごめん、少し遅れた。でも安心して。ミルシアちゃんはちゃんと他の新兵さんに任せてきたから」
そこに立っていたのは、誉れ高き騎士として血染めの剣を握る、ローゼの姿だった。
「あと、ハイムももう休んでていいから。あとは私一人で片づける」
「え、で、でも流石にあの巨体を一人でなんて——」
「——見くびらないでよね。もうアクセラレイトも使えるようになったし、ハイムはもう満身創痍でしょ。ここからは私が、魔獣を倒す番よ」
「い、いや……でも……」
何度も言うが、このシャンザーグは本来、全快のハイムとローゼが協力して、ハイムが剣を折ってまで戦って倒すはずの敵だ。この状況からローゼが一人で勝てるとは思えない。
だが、僕はここで一つの誤算に気づく。
「大丈夫よ。私——今、本気で怒ってるから」
そう。それは、この世界で起きているイレギュラーの、プラス作用の可能性だ。
僕が目にしてきた、本来の作品と違う相違点の数々。そのどれもがマイナス要素ばかりで完全に度外視していたが、何もその全てがマイナスに傾くとは限らない。
そしてそのプラス作用が、今目の前で起きている。
「はぁぁぁぁ————!」
大切なものを危険に晒してしまった、自身への怒り。街を容赦なく破壊し続ける、魔獣への怒り。それらが新たなイレギュラーを引き起こし、ローゼの闘志を爆発させたのだ。その大海の如き全てを飲み込む静かな憤怒が、彼女の内に秘めた可能性を呼び起こしたのだ。
「————」
咆哮を飛ばしたローゼは、再び超速の世界に足を踏み入れ、魔獣の肉を切り刻み始める。その速さの戦いに魔獣の反撃の余地はなく、目の前で繰り広げられている激戦は、ただ一方的な蹂躙へと様変わりした。
ケルダンの美しい景観は、家々の残骸と死者の溜まり場を化した後、おぞましき魔獣の鮮血によって、一つの鎮魂を迎えることとなる。あえてローゼが弱点を攻めずに全身を切り回っているのは、きっとそういう意味なのだろう。
「倒れろぉぉぉぉぉぉ————!」
ローゼがシャンザーグの肉体に刃を通してから、数秒後。
「————」
ついに弱点の鼻を斬り落とし、魔獣は息を引き取った。
—————————————————————————————————————
「いやいやお見事! マジでバッチグーだよ、ローゼ君!」
戦いが終わり、戦後処理班と共に顔を出したショウタ副団長の手が、私の背中を何度も優しく叩く。
しかし、私はその手から伝わる喜びの感情を、受け取ることはできなかった。
「申し訳ございません……」
「え? どしてどして? 何で謝るの?」
「私は……個人的な理由で戦場を離れ……一人の少女の命を救うことを、優先してしまいました。そのせいで対応が大幅に遅れ、ケルダンは甚大な被害を受け、たくさんの人々が……」
「あぁ、そんなこと」
「…………え?」
怒られるはずだ。叱られるはずだ。除名されるはずだ。
これらの処罰を受け入れる覚悟で放った言葉は、あまりにも安く、簡単に返されてしまった。
「いやだって、君は少女の命を助けたんでしょ? 市民だってある程度は助かったわけだから、新兵しかいない状態ではこの結果がいいところでしょ」
「で……ですが、私は戦う役目を放棄し——」
「——でも結局勝ったんじゃん」
……この人は、何を言っているの? 問題はそこじゃない。この戦いでは、関係のない市民が大勢巻き込まれた。多くの命が瓦礫に潰されて、ただの肉片と化した。
その遠因は、戦場から自分勝手に逃げ出した私のせい。この現実が、わかっていないの?
「あ、もしかして死者のこと考えてる? 確かに人口が減って税収は減るだろうけど、それは『創天の騎士団』の問題じゃないし」
「わ、我々は市民を守れなかったのですよ⁉ 彼らが死んだのは、ひとえに我々の力不足が——」
「——何か勘違いしてるね」
その時、副団長の目にあった祝福の意がすっと消えたことを、私は見逃さなかった。
「いい? 私達はガイルス連邦より、タイラン帝国との戦争に協力するよう要請を受けてるの。そしてその戦争の具体的な行動は、魔獣を討つこと。君は十分に、役目を果たしてるでしょ?」
「そ、そんなこと——」
「——君が生きていてくれて良かったよ。君は優秀な人材だ。こんな序盤で死んでもらったら困るからね。じゃ、私は色々やることがあるから本部に帰るね。あそこで固まってるハイム君にも、副団長が褒めてたって伝えておいてね」
予想だにし得なかった返答の数々に唖然とする私を残し、副団長の跨る白馬が本部へと駆けていく。周囲に散らばる瓦礫と、回収されている遺体達の横を、颯爽と通り抜けて。
「あぁ……ああぁ……」
ハイムの声が聞こえる。とても先勝の後とは思えない、悲哀に支配された声が。
「し、死んで……死んでる」
「ハイム、しっかり気を持って。あなたは何も悪いことなんてしてない。悪いのはあなたじゃなくて——」
「——俺は、何をしていたんだ?」
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焚火の中に葬られる、無数の死者の肉体。その死屍累々の山は暗黒の夜空に昇り、炎の煙と共に灰となって消えていく。
その光景を、俺は気がつけば見つめていた。
「俺は……こんな状況で、どこで何を……」
思い出せない。あのデカい槍の進撃を止めるため、剣を構えて衝突したその後から、何一つ記憶がない。
俺は何を……まさか、見捨てたのか? 俺は、こんな大勢の人々が死ぬのを、ただ何もせず見ていたのか?
「ハイム、しっかりして! あなたは戦ってたでしょ? 今だって、まだ痛みは消えてないはずよ。それが証拠。だから——」
「——何で痛いんだよ。俺の身体」
思い出せない。何で痛いんだ? 立っているのがやっとなほど、どういう経緯で追い詰められた? なんであいつの進撃を止められた? 本当に俺がやったのか? 俺が、この俺が、本当に?
違う。俺は戦っていない。俺は何もやっていない。何もできていない。なら、俺はやっぱり、
「見捨てた……俺は、人々をみすみす見殺しにした……そうだ。俺はここにいる全員を見殺しにしたんだ! それが嫌で、都合よく忘れやがった!」
「ハイム落ち着いて! 一度冷静に——」
「——俺は、俺はぁぁぁぁぁ!」
俺は逃げた。俺は戦うことから逃げた。守ることから逃げた。
失格だ。俺は騎士失格だ。いや、騎士見習いすら失格だ。俺は、俺は俺は——
——その日、俺は絶望と恐怖の瘴気に意識を飲まれ、自分を失った。
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