幕間 / 第二章-① 一日前の事件


 アルカナ王国は劣悪だ。

 病人や罪人、貴族のような特例を除いて、二十歳以上は必ず軍隊に所属しなければならない。無論性別は関係ない。男性だろうが女性だろうが、指導された上で適性のある部隊へ送られる。その部隊で活躍すればする程、軍としての立場が——国民としての地位が向上する。

 首都ライノスの砦で門番をしながら、二十二歳のレオンは歯軋りをした。

 およそ十年前の大戦ののち、ライノスは多数の国と合併して【王国アルカナ】となった。昔は敵なし最強のライノスと謳われたが、敗戦しただけでエンヌ帝国にあっさり軍事力を抜かれてしまった。今では他国の騎士団にも劣る始末。

 だから首都ライノスでは、世界に内緒で軍事力を強化している。この事実は国内の他の村や都市は知らないだろう。

 なんと愚かで情けない国か。


「おいレオン。聞いていたか?」


 不満で頭を埋めていたレオンの隣で、同じく門番の先輩軍兵が低い声で唸る。レオンは背筋を伸ばし、右手を軽く額に添えた。


「はっ、無論です。昼前にはロスト副団長が戻られるので、砦には魔物類を一匹たりとも近づけないよう、いつも以上に注意致します」


「注意するんじゃなく、確実に近づけるな」


「勿論です」


 このやりとりも飽き飽きする。上官命令は絶対なんて、今の時代帝国ぐらいしか掲げていないのではないか。実際今のライノスは、帝国を参考に制度を作っていると聞いたことがある。所詮はコピーの国。紛い物の穴開き国。

 不平不満は腐る程出てくるが、別にアルカナという国自体を嫌っているわけではない。

 ライノス近郊に生まれなければ徴兵はされないからだ。

 ライノスの自由を奪う政策は恨めしいし、不平等な制約も腹立たしい。なにより適当だという便利な言葉で、自分を激務な割に給料の少ないブラック寄りな商人用門番に配置したのは許せない。自分が銃の腕も剣の技巧も知力も忍耐力もないからと、「門番これで良いだろ?」と辞令を投げた教官を殴りたい。

 思い出し、レオンは舌打ちをした。

 ……もしかしたら自分は国が嫌いなのでは?

 もしかしなくとも、多分嫌いだ。大嫌いだ。この方針が変わらない限り、好きだとは絶対に言えないだろう。


 蒸れる兜をずらしてから、レオンはふと疑問に思った。

 シンシアは多忙なのに、何故聖都まで足を運んだのか。

 槍を壁に立てかけ、汗を拭く。


「おいレオン、槍を手放すな」


「あっ、ははは、ごめんなさい。そんなことより先輩、質問良いですか?」


「無駄口を叩くな」


「どうしてお偉いさんのロスト副団長が商人の護衛なんかに行ったんです?」


「人の話を聞けよ……」


 ——あいにく、疑問はすぐに解決したいタチでして。

 レオンは手拭いをしまい、槍を握った。


 シンシア・ロストはライノスが誇る機甲師団の副団長だ。普段は最前線で国を守り、士官学校の臨時教官として指導もしている。見目麗しく、おまけに強い。いや逆か。女性の中で最も強く、おまけに美人なのだ。

 称号は「序列四位」、役職はエリート中のエリート。ライノスだけでなく、アルカナ全域でこの名を知らぬ者はいないだろう。異性からも同性からも好かれる、本当に凄いお方だ。

 ついさっき国が嫌いと結論づけたレオンだが、彼女のことは尊敬している。こんな国の為に命をす従順さと、期待という重荷を背負える胆力を。

 そこで、先輩軍兵が溜め息を吐いた。彼の話し始める前の癖。レオンは耳を澄ました。


「……どうせ答えなくとも数分後に同じ質問をするんだろう?」


「さすが先輩。私のことはよくご存知ですね。約一年一緒に働いてきた時間は無駄じゃなかったですね」


 先輩軍兵に睨まれ、レオンはそっぽを向く。あまり調子の良いことを言い過ぎると教えてもらえなくなってしまう。これもおよそ一年門番を勤めて知ったこと。また、先輩は命令する以外の勤務時間では親しげに話しても怒らない。注意はするが、処罰なんてのはしない。

 自分の奔放な性格に合った上司だと心から思う。レオンは人間関係だけは恵まれていた、としみじみ噛み締めた。

 先輩軍兵の二度目の溜め息を耳に入れ、レオンは改めて彼を見る。


「彼女は商人の元締も勤めてらっしゃる」


「へぇぇ、すごいですね」


「そして今回は聖都の勅使がいらっしゃるそうだ」


「勅使さん?」


「……そうだ、滑り込みの情報だがな。果たしてシンシア副団長がそれをご存知で向かわれたのか、もしくは休養を兼ねて出発なさったかは、俺も知らない」


「商人としての仕事が休養なんです?」


「……いちいち煩い奴だ。俺に聞くな、気になるなら本人に聞け」


 言ったのは先輩じゃないですか、とレオンは口を尖らせる。先輩軍兵は視線を真正面に向けたまま、一切レオンを見なくなった。そしてもう喋らないと言わんばかりに、口を固く結んでいる。

 ここまでか、とレオンは肩の力を抜いた。元々口数の多い人ではないから、教えてくれただけで感謝しなければならない。もちろん感謝するのは先輩という中身で、軍人という外面にはしない。

 それ程までにレオンは軍が嫌いだった。


「お前も同じ女として見習ってほしいものだな」


 もう話さないだろうと気を抜いてすぐ、先輩軍兵が呟いた。

 女性だが男性の名をつけられたレオンは、性別を示す表現は全て嫌いだ。だが先輩に悪気があるわけじゃないと苛立ちを抑え、レオンはにっこり笑った。


「あの人は次元が違いますよー」


 あくまで尊敬しているだけ。見習いたいわけじゃない。

 さすがにそれは言えず、レオンは適当に返事をした。

 そうか、と小さく言った先輩軍兵はそれ以降話を振ってこなかった。








 そのまま半日が経過した。

 予定の時間はとっくに過ぎ、もう太陽が山に隠れている。シンシアの帰りが遅いことを不安に思いながら、レオンは休憩という名の勤務を終え、門番の役目に戻った。先輩軍兵は休憩で、相方は一週間程前に配属した後輩新兵。

 二十歳にして国の思想に染まっておらず、純粋無垢な彼はこの国の希少種だろう。商人用門番という最悪の役職に置かれながら「頑張ります」と意気込んだ無邪気さは、見ていて心癒された。逆に楽観的だろうとも思ったが、あえて口にする程無粋ではない。

 後輩新兵はキョロキョロと忙しく見渡し、異常がないことに満足していた。

 そう言えば、シンシアのことを伝えていなかった。


「ねぇ後輩ちゃん」


「はっ!なんでありましょう、副門番長」


「畏まるな畏まるな。ま、それは置いといて……今日ロスト副団長が戻られることは聞いた?」


「はい!」


 後輩新兵は満面の笑みで頷く。

 何故知っているのか。レオンが眉を寄せると、彼は慌てて付け足した。


「門番長からお聞きしました。リフレイン洞窟の落石の影響で、本日は戻られないそうです。その後の予定では、鉱山近くの村で商品を卸してから、明日の夕刻までには戻られるそうです」


「……な、なんで私に教えてくれないの」


 レオンは先輩軍兵に毒づきながら、地団駄を踏んだ。

 何故後輩に教えて、自身には伝えてくれなかったのだろう。約束の時間が過ぎても聞かなかった自分が悪いのか。上官を心配しない非国民だと勝手に決めつけられたのか。

 ぎりぎりと奥歯を鳴らしてレオンは頭を抱えた。

 上官命令は絶対という軍の方針は、暗黙のルールである。明確な制度や法律は決まっていないが、士官学校にて徹底的に仕込まれる為に破る者は少ない。それは否定的な感情を表に出すと、大体は非国民だと言って捕まるからだ。酷い時は処刑までされる。

 だからレオンは心の中にしまっていた。たしかに感情的になることは多かったが、言質げんちをとられるような失敗はしていない。二年間、ずっと隠し通してきたのだから。

 なのにこんな些細なことで密告されるのか、とレオンは項垂れる。先輩軍兵が休憩から戻ってきた時が自分の最後かもしれない。


「あ、あの……レオン副門番長?」


 黙りこくるレオンに、後輩新兵は不安そうな声を洩らす。


「ごめんごめん、なんでもないよ」


 心配させたかなとレオンが嫌々顔を上げると、彼は自分ではなく正面を見つめていた。何か嫌なものを見つけたように小刻みに震えている。後輩新兵の怯えたような表情は、レオンを一瞬で不安に陥れた。

 ライノスの門番は耳が良ければ就ける職業。大抵は何かの音がしてから異物を見つけ、上に報告するだけの簡単な作業。後は人任せ。

 だから音のない侵入者にはてんで弱い。それを防ぐ為にこの砦以外には無数のセンサーが張り巡らされ、ライノスの中心部にある軍部の司令塔が天高くに伸びている。

 真正面からの襲撃は予想外だった。門番二人が少し余所見をしただけで近づかれるなんて、想像もしていなかった。

 レオンは恐る恐る視線を移す。だがそこには、犬のような魔物が一匹佇んでいるだけだった。


「あれって魔物、ですよね」


「う、うん。多分」


 似ているが、初めて見る魔物。

 ライノス周辺にも魔物が出るが、目の前にいるような魔物よりは毛深く、一回り大きい。

 魔物の突然変異かもしれないが、おそらく生息地がこの辺りではないのだろう。ライノスでは全ての魔物が解明されておらず、まだ未発見の新種だっているのだから、初めて見る魔物がいてもなんら不思議ではない。

 レオンは魔物について詳しくない。長く門番を勤めている先輩軍兵の方が詳しいし、真面目に学校を通い続けた後輩新兵の方が知識があるだろう。


「後輩ちゃん、あの魔物見たことある?」


「いえ、初めてです。形態はどちらかと言えば、東にいる魔物のようです。東の魔物は太陽が近いので、ああやって首が長いんです」


「た、太陽が近いと首が伸びるのね……謎原理だわぁ」


「生態はまだまだ謎ですからね。草食系の魔物に見られる特徴なので、おそらく植物と同じなんでしょう」


 さも当然のように語る後輩新兵。レオンはわざとらしい笑顔さえ浮かべられず「そ、そう」と身を引いた。

 すると、ほとんど変わらないタイミングで魔物が一歩進んだ。


「ひ、ひいぃぃ!ちょっと、ど、どうにかして!私人間相手しかできないのっ、魔物の相手は先輩の特権なの!」


「えええっ!?レオン副門番長、二年も門番やられてたのに倒したことないんですか!?あっ、しっ失礼しました……」


「二年じゃなくて一年!それになんでも良いよぅもうっ!とりあえず追っ払って!」


「大層な鎧を着られているというのに、なんて慎重なのでしょう……お見それしました」


 捉え方によっては皮肉に聞こえる言葉を放った後、後輩新兵は槍をぐっと握った。レオンを横目に、彼は魔物と距離を詰めてゆく。

 槍を地面と平行に構え、後輩新兵が「ん?」と頓狂とんきょうな声をあげた。槍を引き、彼はレオンに近寄る。


「どうしたの?」


「いえ……あの魔物、だいぶ弱ってるみたいです。もう死にそうですね」


 レオンは魔物の様子を観察した。

 言われると確かに足元はおぼつかず、視線が虚空を彷徨っている。犬のような魔物は二歩目を踏み出したところで、震える足を折った。その場で眠るように横たわると、ぐったりとして動かなくなってしまう。


「こ、こんなところで寝ちゃ駄目だよ。確かにこの砦は商人専用で滅多に人は通らないけどさ、明日はロスト副団長が戻られるし……」


「副門番長、誰に説明されてるんですか」


「魔物も話せば通じるかなーって」


「……おそらく、もう聞こえてませんよ」


 後輩新兵は沈痛な面持ちで呟くように言った。魔物の死をいたむ優しい心がライノスで生まれるなんて、と一種の感動を覚える。レオンは感動しつつも、仕事は全うしなければならないと切り替えた。


「とりあえず、運んであげなきゃね」


「あっ、レオンさん。不用意に触れてはいけませ……」


 後輩新兵の言葉が途切れる。

 レオンの手を掴んだ瞬間、後輩新兵の背がぐらりと傾いた。彼は受け身もとらず、顔面からダイレクトに地面へ倒れ込んだ。

 「へっ?」貧血だろうか、とレオンは後輩新兵の肩を揺する。「おーい、後輩ちゃーん、おーい」

 しかし反応はない。腕を持ち上げると、まるで眠っているように重い。首を傾げながらレオンは彼を肩に背負った。

 数歩進んで、レオンはあることに気がついた。


 ——後輩新兵の呼吸が聞こえない。


 レオンは慌てて彼を下ろし、口に耳を寄せて胸の動きを見た。呼吸音が聞こえないのはおろか、胸の上下運動さえない。


「えっ、えっ、なんで?なんで?」


「うウうう、ウウゥ……!」


 不意に魔物が喉を鳴らす。レオンが驚いて後退ると、魔物は瞳孔を細めて笑っていた。見た目は動物なのに、笑っているのが分かる。

 魔物は不気味な笑顔を最期に、もたげた頭を下ろして目を閉じた。混乱するレオンの側で、魔物は呆気なく死んだ。


「う、あ……そ、そうだ。まず、まずは後輩ちゃん……」


 死は見慣れていないが、レオンの立ち直りは早かった。まず、後輩新兵の蘇生を試みようと地面に寝かせる。

 何かの発作か。前兆はあったか。

 動揺しながらも一つ一つ丁寧に、確実に思い出してゆく。だが、分からない。何も変わりはなかったはず。


「あっ」


 その時、レオンの頭に最悪の回答が浮かんだ。突然死と、弱った魔物の死と繋がるなら——死の病だ、とレオンは震える。

 実際に見たのは初めてだった。確信は持てないが、それ以外で『死』が伝染すうつるなんてあり得ない。こんなに簡単に亡くなるのは、それ以外に考えられない。


「ま、待ってて。先輩を、も、門番長を呼んでくるから……!」


 もはや一人で対処なんてできなかった。レオンは立ち上がって、砦の東に備えられた小屋へと走る。今、先輩軍兵は休憩中だ。自分が離れて、砦の見張りがいなくなることを咎められるかもしれない。

 いや、そんな場合ではない。不安なんか見捨てて、早く伝えなければならない。


「せ、先輩!!」


 扉を壊す勢いで室内に入り、レオンは膝をつく。中には優雅に紅茶を飲む先輩軍兵と、場違いな法衣ほうえを纏った女性がいた。見覚えのない女性だが、軍服には「序列九位」を示す勲章が付いている。

 すぐに次元の違う人だと判断したレオンは背筋を伸ばし、敬礼をした。


「どうしたレオン」


「せ、せんぱ……いえ、門番長。その、ええと、魔物が来て、し、新兵が倒れて、それが病で……」


「何を言っている。要点を教えてくれ。もしくは、結果を言え」


 レオンは目を泳がせながら頷く。


「病です。おそらく死の病が、今、自分の目の前で伝染しました」


「そうか……分かった」


「え……」


 驚く程冷静な反応に、レオンの思考がフリーズした。動揺を隠す為、レオンは捲し立てる。


「あの、お言葉ですが、流行り病ですよ?む、無差別に人が死ぬんですよ?なんでそんなに落ち着いて——いっ!」


 反論を自身の悲鳴が遮った。レオンは顎を床に打ちつけ、先輩軍兵と「序列九位」に見下ろされる。後ろを振り返ると、深緑の軍服姿の数人に身体を押さえつけられていた。真っ白になった頭は一瞬で、何故、何故と疑問に覆い尽くされる。

 何故自分は地面に伏せている?

 何故状況を真剣に捉えていない?

 何故先輩は落ち着いていられる?

 何故先輩は動かない?


「何故ですか、門番長ッッ!!」


うるさい」


 冷え切った声がレオンを一蹴した。

 「ならこちらも質問させてもらうぞ、レオン副門番長」先輩軍兵が紅茶のカップを置く。「本当に死の病なら、私に移すつもりで報告に来たのか?」


「……!そ、そこまで頭が回りませんでした……」


「これは立派な大罪だな」


「そん……ッ」


 レオンは言葉を失った。ただ報告をしただけで、自分は大罪人になったのだ。まだ死の病かどうか、確定してもいないのに。

 レオンは必死に言葉を絞り出した。


「も、申し訳ございません。ただ、あれが本当に死の病かどうかは分かりかねます。私は、初めて見まして……」


「それはそうだろうな」


 先輩軍兵は女性に耳打ちする。女性が頷いて手を伸ばすと、後方の扉から複数人の足音が遠去かった。


「まさか的中させるなんて、さすがですね」


「別にぃ?私はただ上司の予言を伝えただけだから。よかったね」


「ええ、本当に感謝しかありません。まさかこんな私が出世できるなんて」


「出世とかはどうでも良いけどー、しっかり報酬は払ってね?」


「勿論ですとも」


 唖然とするレオンの目の前で、先輩軍兵と「序列九位」が楽しそうに会話を始める。二人の会話は、まるで賄賂わいろのように危険な匂いがした。


「この呪いは初めて発現したんですか?」


「ん、多分そーだろうね。じゃあ、この呪いの個体名を『ユベール』と名づけましょっか」


 赤縁眼鏡を上げながら「序列九位」が得意げに語る。

 ——呪い。個体名。それは流行り病とは違うのか?


「それは……ぃ、痛っ」


 腕の締めつけが強くなる。発言するな、と言われているようだ。

 「さて」先輩軍兵が椅子から立ち上がり、レオンの目の前で歩みを止めた。「ここまで聞かれたからには、生かしちゃおけないな」


 全身から血の気が引いた。大罪人として牢に入れられるより悲惨な結果が脳裏を過ぎる。


「まっ、待ってください……私は、ただ、報告しただけで」


 「『死の病』——いや、確か帝国が正式名を発表していたな」先輩軍兵は考え込むように、顎に手を添えた。「……そうだ、確か『夢現ゆめうつつ』か。あぁ、夢現は伝染病だ。いつどこで現れるか分からない流行り病だ。さっきも言ったように、今のお前が病原菌を持っている可能性だってある」


「ほっ、本当に……申し訳ございません!」


「この国は謝罪で結果は変わらんぞ」

 

 突然レオンの足にヒヤリとした何かが触れた。視線だけを移すと、小型のナイフを足首に当てられている。

 全身の毛が逆立った。命の危険を感じ、レオンは先輩軍兵に乞い願う。


「ま、待ってください!まだ、まだ確定してないじゃないですか!私の見間違えかもしれないですし……!」


「いや、見間違えじゃない」


 誰かが躊躇なく、レオンの足首にナイフを刺した。

 瞬間、脳天に激痛が駆け上がる。レオンの身体は痛みを堪える為に弓なりに曲がるが、締めつけられているせいで腰の骨が軋む。


「いっ、痛い痛い!痛いです!!やめて、やめてぇ!」


「大人しくしろ」


 まるで野菜を切るように、足首に刺さったナイフが左右に動く。肌を切られるたび、レオンは喉が裂ける程絶叫を繰り返した。

 地獄の時間は足の腱を完全に切るまで続いた。レオンはナイフが抜かれた感覚を感じながら、涙で濡れた床に顔を置く。


「さ、次は右足だ」


 まだ続くのか、とレオンは顔を上げた。切られた足首はずっと痛みを発信し続けている。この痛みを、もう一度耐えろと言うのか。

 レオンは奥歯を噛み締め、最後の抵抗を見せた。


「いっ、一緒に働いてきた……じゃ、ないですか。それに私、国に、尽くしてきたのに……」


「殺されないだけマシと思え。大罪人のお前は、帝国に移送することにした」


 殺されない訳あるか、と怒りが湧く。

 おそらく、左足はもう使いものにならない。こんな怪我じゃ生きていても死んでいるようなものだ。それに今も痛みのショックで意識が飛びそうなのだから。

 レオンは肩で息をしつつ、涙を堰き止めた。


「し、『死の病』は、死ななきゃ、感染しないんですよね?私……まだ、死んで、ないですよ」


 先輩軍兵はしゃがみ、レオンの目の前に顔を寄せる。


「お前があの死を身近で見たことに価値がある。この国では初めてのことなんだよ、病——いや、夢現を目の前で見た人間が生きているのは。他はすぐに死んでいるから、お前は貴重な検体になったんだよ。なら死ぬ前に、生け捕りにしないとな?」


「な、んで……いッッ」


 ナイフが痺れる足に切れ込んだ。身体が反射的に跳ね、喉から絶叫が漏れる。


「最後に教えてやろう……あれは流行り病じゃない。この世界に広がる、なんだよ。まるで増え過ぎた人間を減らすようなシステムなんだ。魔物より唆る研究内容だろ?ライノスが発展する為には、この呪いを解明するしかないんだ」


 徐々に声のトーンを落とし、先輩軍兵は寂しそうに言った。だが、「出世」という単語がレオンの耳にはハッキリと残っている。それに「的中」「予言」と、まるで死の病改め呪いが発生することを分かっているような言い草だった。

 つまり先輩軍兵は、出世の為に自分を売ったのだ。危険だと分かっていたから、休憩もずらしていたのだ。


「もちろん呪い——すまんな、夢現だったか。それについては一部の人間しか知らない」


 ようやくナイフが引き抜かれる。

 レオンは伏せながら、両足首から血の抜けていく喪失感を味わっていた。痛みに顔を歪め、震える拳を握り締める。


 ——誰か、誰かこの国を変えてください。


 レオンは神に祈りながら、涙を流した。


「じゃあ、帝国でも頑張れよ」


 軍の立場で国民の身分が上がるなんておかしいのだ。だからこうやって出世に目が眩む馬鹿が生まれてしまうのだ。

 国民はみんな平等に生きるべきではないのか。最低限の自由さえ保障されないのが正しいのか。

 レオンはライノスを——アルカナを恨んだ。

 やっぱり、アルカナ王国は劣悪だ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る