第三十九話 支えられる存在


 女性が逃げたと分かると、急に足に力が入らなくなってサキヤノは床に座り込んだ。まるで緊張の糸が切れたような安心感と解放感に、溜め息を洩らす。

 結局女性は、名前を聞いただけで立ち去ってしまった。サキヤノは震える目を閉じる。

 立て続けに出会った異界人は、誰もがサキヤノの予想を裏切る人種だった。自分と同じように異世界に戸惑い、試行錯誤して生きている人間だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。この世界に馴染み、同類がいることに喜びもしないのが異界人なのかもしれない。

 サキヤノは、彼らが異世界に来て何年も過ごしている古参だと願った。誰もがあんなに落ち着いているはずがない。たまたま運が悪かっただけなのだと思い込んだ。

 しかし、異界人に対する不信感は拭い切れないだろう。次からは注意しなければ、とサキヤノは己に言い聞かせた。

 後方の扉が蹴破られ、突然音が戻ってくる。振り返ると、軍服を着衣した三人の男性が部屋になだれ込んできた。

 手には湾曲した剣が握られている。三人の内一人が納刀し、サキヤノに駆け寄った。


「無事ですか」


 聞いて、現実に戻される。


「ゲルトルード!」


 自分はまだ良い。それよりもゲルトルードが心配だ。

 サキヤノは痛む身体に鞭を打ち、窓から身を乗り出した。下方には四つん這いのゲルトルードと周りを走るヴァレリー、それからおそらく村民の円が見える。何か口論しているようだが、サキヤノの耳には入ってこなかった。

 ——血痕。ゲルトルードの艶やかな髪が、血で濡れている。頭を打ったのか、それともガラスで切ったのか。サキヤノは真っ白になる頭で原因を探すが、そんな場合ではないと首を振った。負傷している事実に変わりはないのだから、原因なんて後で考えれば良い。

 居ても立っても居られず、サキヤノは窓枠から大慌てで手を離した。勢いを利用し走ろうと思ったが、何かに足を取られて派手に転倒する。息が詰まり、胸が痛んだ。


「……くそっ」


 向かっ腹が立ち見上げると、立ち膝で男性が手を伸ばしている。

 そう言えば、軍人がいたのだった。サキヤノは本音が出そうな口を噤み、身を起こす。


「大丈夫ですか」


「お、俺は……はい」


 脈打つ頭痛と痺れはあるが、歩くことはできそうだ。今は俺じゃない、と息を止めてサキヤノは足を踏み出す。がくがくと震えてバランスが取りにくいものの、壁を伝えばなんとかなるだろう。

 軍人から顔を背け、千鳥足で壁に手をつく。たったこれだけで息が上がるのが情けなく、サキヤノは奥歯を噛み締めた。

 一歩踏み出したところで、浅黒い肌の男性が行く手を遮る。


「手を貸します」


「いえ……大丈夫、です」


 頭の中はゲルトルードと後悔でいっぱいだった。

 あの女性は自分に用があった。つまり、ゲルトルードはサキヤノが巻き込んだ被害者。意図せずとも同じ異界人が手を出したのなら、自分が手を出したも同然。

 ——と、自分に。周りが失望しない為に、本心は絶対に隠し通す。隠し通してみせる。

 サキヤノがもう一歩踏み進むと、不意に腕を引っ張られた。一体誰が、とサキヤノは見上げるなり目を見張る。


「シンシアさん……」


「運んであげる」


 外套を羽織ったシンシアが低い声で言った。サキヤノは首を振るが、シンシアはサキヤノを軽々と横抱きして部屋を飛び出す。


「い、良いです!下ろしてください!」


「どうして?」


「どうしてって……」


「どう考えてもあたしが連れて行ってあげた方が早いじゃない。それにあの子だいぶ激昂してるから、貴方が声掛けてあげなきゃ。きっと貴方じゃないと止められないわよ」


 激昂?とサキヤノは首を傾げる。ゲルトルードにはそんなに怒りっぽいイメージはない。どちらかと言えば、自身よりも冷静な気がする。

 シンシアがカーブに差し掛かると、階段が見えた。広い家だな、と呑気に考えるがちっとも減速しないシンシアにサキヤノは目を剥く。


「かっ、階段、階段が!シンシアさん!」


「もう!黙って……ちょうだい!」


 シンシアは階段手前まで助走をつけ、そのまま勢いを殺さずに飛んだ。無重力。迫る床。サキヤノは細い悲鳴をあげてシンシアの軍服を掴んだ。がく、と身体が上下に揺れて着地の成功を知るが、寿命が縮んだ気がする。


「シンシアさん————!?」


 サキヤノがシンシアから手を離せずにいると、彼女は一瞥だけして正面を向いた。不快そうに眉を顰めていた為、サキヤノは情けない声を控えて押し黙る。

 出入り口はもう目の前だった。外へ出てすぐ、村人の円陣の前でシンシアはサキヤノを下ろした。足から順番に、かつ丁寧に下ろすものだからサキヤノは少し緊張してしまう。

 一方シンシアは無表情でサキヤノを立たせ、


「貴方ってすごく不器用なのね。まぁ、それが良いところなのかしら」


「……はぁ」


「なんでもないわよ、早く行ってあげて」


 突然褒めたシンシアはバツが悪そうに苦笑し、最後にサキヤノの背を押した。サキヤノは頷きつつ、村民の間を縫ってゲルトルードまで向かう。途中異界人だと叫ぶ者、白髪を気味悪がる者がいたが、道を開けてくれたのは有り難い。

 円の中心に着くと、ヴァレリーが心配そうに翼をパタパタしながら跳ねていた。

 ヴァル、と名前を呼ぶ。ヴァレリーはサキヤノを見つけると、ぱっと笑顔を浮かべた。見た目は鳥なのに表情豊かなのが少し可笑しくて、サキヤノの気持ちが和らぐ。


「サキヤノ。ゲルトルードがおかしい」


「うん、聞いた。大丈夫だよ」


 根拠のない「大丈夫」は正直嫌いだ。だけどとても便利な言葉だと思う。

 サキヤノは自分なんかでゲルトルードの気持ちが抑えられるだろうか、と不安になるが、自分以外に誰ができるんだと逆に叱咤した。


「ゲルトルード」


 ゲルトルードの髪は血で濡れている。地面には僅かに血が染み込んでいるが、二階から落ちたにしては軽症のようだった。サキヤノは安心しつつ、彼女の名を呼ぶ。

 ゲルトルードは嗚咽していた。泣いているのか、と顔を覗いたサキヤノはふと気づく。ゲルトルードは「許さない」と繰り返し呟いていた。

 ざわざわと胸に罪悪感が湧き上がる。出会って間もない自分が言うのもなんだが、こんなに感情を見せるゲルトルードは初めてだった。いつも笑顔な彼女は片手で顔を覆い、翡翠の瞳に怒りを灯している。


「ゲルトルード、ごめん」


「許さない」


 咄嗟に謝るサキヤノに目もくれず、ゲルトルードは顔を上げた。揺れる瞳の微光は彼女の激情を反映しているようで、威圧がサキヤノを黙らせる。


「絶対に見つける……!」


 ゲルトルードの髪が夕日の如き淡い光を放った。

 あっ、とサキヤノは息を呑む。ゲルトルードが魔法を使う直前の変化。今度は赤でも山吹色でもない。薄い樺色かばいろ——オレンジに近い色。

 変化する髪の色によって魔法の種類が変わるのではないか、とサキヤノは予想した。だが効果や影響は何も分からない。ゲルトルードの魔法については、何も知らない。

 もっと知るべきだった。聞くべきだった。

 サキヤノは後悔しながらも、ゲルトルードの肩を掴む。とにかく正気に戻せば良い。


「ゲルトルード、ゲルトルード」


 そのまま身体を揺する。ゲルトルードは不愉快そうに顔を歪め、


「触らないでッ」


 と、サキヤノの手を弾いた。サキヤノが言葉を失う一方、ゲルトルードは顔から剥がした左手を地面に添える。


「敬愛せし名はグレゴリー」


 言葉を放った瞬間ゲルトルードの髪が舞い、周りの村民がざわめいた。彼女を中心に風が起こっているのか、正体不明の奔流が広がる。サキヤノは顔を庇いながら、止められない、と呟いた。


「光を以って——」


 ゲルトルードは完全に周りが見えていない。声も届いていない。こんな状態で正気に戻すなんて、出来っこない。俺なんかができるわけが——。

 その時、ヴァレリーがゲルトルードの手の甲を突いた。

 小さな嘴が刺さると風が止み、彼女は手を庇う。同時に我に返ったように周りを見渡し、サキヤノと目が合った。ゲルトルードは状況が呑み込めていないのか目を泳がす。しかし、この騒ぎ。周りの表情。全てを確認して、彼女は唇を震わせた。


「ご、ごめんなさい……サキヤノさん、わ、私……」


 消え入りそうな声で謝罪するゲルトルード。

 謝ることなんてない、と言いたかったが言えなかった。代わりに正面に座って頷いてみる。

 ゲルトルードの目が潤み、顔が伏せられた。


「ごめんなさい。頭に血が上ると、自分でも制御できないの」


「俺こそごめん。何もできなかったし、逃げられたし」


「いえ、そんなこと……そんなことないんです。ごめんなさい」


 自責の念からか、ゲルトルードは中々顔を上げない。大勢の人に見られる現状は、サキヤノには苦しかった。元々注目を浴びるのは大嫌いで、今にでも逃げ出したい。

 サキヤノはゲルトルードを必死に説得しながらシンシアの姿を探した。


「サク」


 そして救いの手が差し伸べられる。だがこの声と呼び方は、シンシアじゃない。


「アンティークさん……」


 「おう」にかりと歯を見せ、アンティークはサキヤノとゲルトルードの襟を掴んだ。「とりあえず落ち着くまで、宿屋で待機な」


「あの、あの……」


「うるせぇ、黙れ」


 アンティークの一蹴でサキヤノは口を閉じた。まさかアンティークが助けてくれるとは思わず、変に感動してしまう。村民に「おら、退きやがれ!」と乱暴な言葉を吐き、宿屋まで引き返すアンティークに今は感謝しかない。好奇な目に晒されながら引き摺られるサキヤノの足に、ヴァレリーが飛び乗った。ヴァレリーのなんとも言えない表情に思わず笑顔が溢れる。

 目の前ではシンシアが群衆を落ち着かせていた。彼女は襲撃された、とサキヤノを庇うように話している。きっと反感を買うだろうに。

 俺っていっぱい助けられている。そう思いながら、サキヤノは宿屋に戻った。


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