第三十八話 選ばれしもの



 カメラのフラッシュのように、ばちん、と耳元で閃光と爆音が轟く。腕の痛みが嘘のようになくなると、肌の擦れる不快感が背筋を這い上がった。反射的に身体が跳ね、指先が痙攣する。

 やがて不快感の呪縛が解け、身体の自由が利くようになるとサキヤノは五感を働かせた。重い背中を包む柔らかな感触に、肌を撫でる寒気。遠くの方でこだまする囁き声。息を吸うと、鼻腔に溜まった甘い花の香りが肺いっぱいに広がる。全て身に覚えがない感覚だが、ひとまず両拳を慎重に握った。すぐに右も左もじんわりと熱を感じ、腕の無事にほっとする。

 そしてサキヤノは目を開けた。飛び込んできた光を神経が拒絶し眉を寄せるが、筋肉が攣ったような違和感に邪魔をされて、瞼を閉じることができない。

 眩しさに目を潤めながら、サキヤノは視界の半分を覆うものに目を向けた。笑顔を浮かべた見慣れた顔。サキヤノを見下ろす、二つのエメラルドグリーンの瞳。


「……ルー?」


 久しぶりに機能したように、声はしゃがれていた。口の中が渇き、名前を呼んでサキヤノはすぐに口を閉じる。

 「へっ」呼ばれたルーは目を丸め、口に手を当てた。「ゲ、ゲルトルードですよ」


 ——……ゲルトルード。


 サキヤノは光を無視して、目を限界まで開いた。


 ——……ゲルトルード……!


 サキヤノは身体を起こそうと腹筋に力を入れるが、走る激痛に悲鳴を上げた。視線だけで状態を確認すると、服の下に包帯が見え、サキヤノはゆっくりと現実から目を逸らす。

 いつ怪我をしたのか。場所的に覚えていない方がおかしいだろう。文句を言いつつ、ルーと出会う前まで記憶を遡る。しかしそれでも、その辺りは曖昧だった。

 サキヤノは諦めて身体を捻ってみる。痛みは僅か。我慢すれば起きれない程でもない。今度はなるべく腕の力で、とサキヤノは時間をかけて身体を起こした。背中を丸めると痛んだ為、ベッドのヘッドボードまで下がって身を委ねる。

 一部始終を見ていたルーは恥ずかしそうに身体を捩り、


「……あの、ルーってサキヤノさんがそう呼びたいなら……私は別に構いませんけど」


「ゲルトルード」


「は、はいっ」


 懐かしい響き。

 あの世界から戻って来たのか、とサキヤノの頭が緩やかに理解していた。同時にあれは夢じゃない、と根拠はないが確信する。

 だが「戻ってくる」よりは「目を覚ました」の方が近いかもしれない。サキヤノは右腕があることを再確認したのち、生々しく、妙にリアルなあの世界に思いを巡らす。

 人工物が少しもない平原で出会った少女ルー。空まで伸びた螺旋階段のある建物で習得した魔術。冬の神殿で対峙した青白い影。

 ——そして、おそらく異界人。

 初めて見た自分以外の異界人は、全く良い印象ではなかった。とりあえず会えば協調できるかと思ったが、やはり甘くはない。まるで別世界の人間で、出会ったタイミングも環境も最悪で——。

 ……ルー。

 サキヤノは、取り残された少女を思い浮かべる。夢じゃないなら、実在するなら、ルーはあのまま助けてもらえないのではないか。サキヤノは目を閉じるが、眠れそうにない現実に歯軋りをする。

 なら、せめて自分みたいに目を覚ましてくれ。

 サキヤノはただ願うことしかできず、自身を導いてくれた少女に感謝を伝えた。そして、もし。もしまた会えたなら絶対に恩返しをしよう、と決心した。


「ゲルトルード、おまたせ」


「あっ、ゲルトルード……いえ全然良いんですけど!おはようございます!」


 サキヤノは頷き、今何が起きているのか聞く為、ゲルトルードに視線を移す。すると嬉しそうな彼女の後ろに、白髪が見え隠れしていた。

 異界人、と心が叫ぶ。まさかここにもいるなんてと背中を伸ばすが、顔を見てサキヤノは戦慄した。

 冬の神殿。

 最後に見た、青年そっくりの顔立ちだった。

 サキヤノは網膜に焼きついた光景を思い出す。今の今まで理解を拒んでいた頭が網膜とリンクして、事実を照らしてゆく。


 青年の手に握られた巨大な鎌。刃先には赤黒い物体がびっしりとこびりついている。同じ色の液体が、氷の床に垂れる。血だった。あの時、大量の血液と臓物で変色した鎌が、スローモーションのように振られていた。上下逆転していたが、間違いない。

 その後、自分の身体が見えた。首から噴水のように血が吹き出す自分の身体。よろめく、首を失った胴体。

 サキヤノは首を一刀両断されていた。

 嘲笑うように口元を引き上げた、あの青年によって。


 背中が粟立ち、血の気が引くのが分かった。ここにいるのは女性だが、顔は瓜二つ。

 何故。何故。こんな偶然あり得るのか?

 ゲルトルードの声が遮断され、思考が停止する。どうして、なんて理由を考えている場合じゃない。

 確認。そうだ、確認を。

 サキヤノは迫り上がる恐怖を抑えて、声を搾り出した。


「…………あの人は、誰?」


 ゲルトルードの姿が霞む。

 直後、がしゃん!と窓ガラスが盛大に弾けた。


「うわっ」


 驚いて顔を庇うが、破片は飛んでこなかった。腕を下げたその視界にゲルトルードはいない。代わりに扉近くで待機していた女性が、ゲルトルードが元々いた場所に立っていた。

 ゲルトルードが外に飛ばされた、と瞬時に理解する。


「ゲルトルードッ」


 女性から目を逸らすと、何をされるか分からない。だがそれよりもゲルトルードの安否を確認しなければならない。

 恐怖で震える身体は、動かない役立たずではなかった。窓へ首を振り、サキヤノはベッドから降りようと布団を捲る。

 ふと視界の端に影を捉えた。

 影を確認する前に、首へ負荷がかかる。ぐっと圧迫された瞬間、勢いよく壁に叩きつけられた。肺の空気が吐き出される。視界が明暗し、頭がくらむ。

 ——しまった、やられた。

 喘ぐサキヤノの首に、すかさず腕が伸びる。女性は前腕を首に当てがい、壁にサキヤノを押しつけた。後頭部を強打し、サキヤノは堪らず呻く。


「貴方は異界人ですよね?」


 白髪の女性は相貌通りのあでやかな声を出した。肩から垂れた髪が頬をくすぐる程、彼女の顔は近い。

 異界人だから何だと言うのか。

 手加減のない締めつけは呼吸もままならず、サキヤノは必死に引き剥がそうとするが、女性の腕は固定されたようにピクリとも動かない。同じ異界人だとしても、直視できないくらい力の差は歴然としていた。


「どうしてあんなところにいたんです?」


 女性は続ける。

 あんなところと言うのは幻視他界のことだろう。性別は違うが、サキヤノにはあの少年が質問しているように感じた。

 質問されても答えられないが、とサキヤノは顔を顰めた。だが女性の力は緩まない。


「お……俺も、知らない……」


 少ない空気でなんとか答えるが、もう限界だった。サキヤノは我慢できず、女性の腕に爪を立てる。なんとしてでも外さなければ、呼吸ができない。


「なら名前を教えてください」


「……ッ」


 丁寧口調で質問を重ねる女性。聞きたいならまず外せと、サキヤノは荒んだ思いを表情に出す。懸命に睨み、訴えかけるが女性は腕を退かさない。

 不意に全身が脱力した。

 あれ、と不思議に思うや否、急速に意識が遠のく。視界に暗幕がかかり、外の喧騒が徐々に小さくなった。力が入らず腕は垂れ、足が折れる。女性の細い腕に支えられ、ぐっと顎が持ち上がるが、その感覚は麻痺したようになかった。

 ここで死ぬのだろう、と弱気な自分が告げる。まだ諦めるな、と強気な自分が鼓舞する。でも、もう良いじゃないか。俺は頑張った。成長もした。まぁ、欲を言うならもう少し——……

 意識の底に沈む直前、ようやく腕が緩んだ。視野が広がり、周りの音が戻ってくる。

 サキヤノは床に崩れ落ち、首を押さえて咳き込んだ。だが咳をすると、胸を激痛が駆ける。身体は酸素を求めるが、急に開いた気道が吸える量では足りず、そして覚えのない怪我で息苦しさは加速した。視界が涙でぼやけ、激しく咳き込みながらもサキヤノは気丈に女性を睨んだ。

 女性は髪を掻き上げ、シフォンスカートの裾をつまむ。

 

「失神させようと思ったわけじゃないですよ?でもこうしないと、貴方達逃げるじゃないですか」


 さも当然のように主張する女性。

 なんだコイツは、と本能が理不尽を叫んだ。

 やられた側は溜まったもんじゃない。下手をすれば死んでしまうのに。

 彼女はサキヤノに目線を合わせるよう膝をついてから、


「名前を教えてください」


「……こんなこと、されて、教えるとでも?」


「まぁ」


 怒りが込み上げ、サキヤノは強気に言い返す。身体の奥底がじくじくと不快な信号を発しているが、気にする余裕はない。

 女性はその不快感を知ってか知らでか、目を細めた。


「異界人同士は対等、と本能に刻まれてるみたいです。今貴方がワタシに反抗しているのは本能のせいなんですよ。対等だから、見下されると気分が悪い」


 とん、と女性はサキヤノの胸に指を置いた。たしかに、言いようのない気持ち悪さがいきなり湧いて出ていた。サキヤノは払い除けたくなるが、言われた通り行動するのが癪で歯噛みして耐える。

 女性が微笑みながら、サキヤノの頬を両手で包んだ。満悦した笑顔が、神経を逆撫でする。

 

「それが本来の貴方なんですよ。他人の為に動くような、偽りの優しさなんて要らないんです」


 ——ほら、あの子を助けようとしたみたいに。

 続けられた言葉は、まるでルーの為に動いた自分を見ているような物言いだった。


「ここまで知ってるんです。だから、ワタシに名前を教えてください」


「……そんなの……俺の勝手だろ」


「えぇ、勝手ですね。名前を貴方が教える義務はないし、貴方が私と会話する意味はないでしょう。だけどワタシにはあるのです。貴方の名前を聞く、義務が」


 女性の瞳が収縮し、鈍く光る。


「意味が分からない?……結構。教えたくない?……それも結構。元より、貴方なんぞにワタシ達の崇高な目的が理解できるとは微塵も思っておりません」


 興奮したのか途端に饒舌になり、女性は早口で捲し立てた。


「だから聞いているのです。聞くだけなら誰にでもできるでしょう?無知な貴方でも、質問に答えることぐらいできるでしょう?……いえ、質問と言う程難しくないでしょう?貴方という存在を形成している名前を、ワタシに言えばいいんです」


 女性はサキヤノの頬から手を離し、


「その名前を、ワタシが活用してあげると言っているのです」


 同じ異界人なら、と思ったが、どうやらこの女性とも合わないらしい。ゲルトルードに手を出したのは許せない。答えたくもない。腹立たしい。

 ……だが、何を言っても論破されてしまうだろう。サキヤノは見切りをつけ、渋々答えた。


「……サキヤノ」


「神託は?」


「……たしか、パルマコン」


 久しぶりに自身の名前を口にした気がする。名前を伝えただけで女性は満足気に微笑み、サキヤノから離れた。相変わらず胸のむかつきは収まらないが、女性の威圧からは解放され、サキヤノは心底安心して息を吐く。

 そんな中、女性は耳に横髪をかけて静かに立ち上がった。


「それより、ずっと感じませんか?」


「……何を?」


 急遽話題を取り替え、女性は唇に指の腹を当てる。


「気づいてないんです?それとも、気づかないフリをしてますか?」


 女性は焚きつけるように言うと、再びサキヤノに顔を寄せた。口から離した人差し指でサキヤノの額を突き、女性は覗き込むように見上げる。


「胸の……いえ、意識の最奥さいおうからの警鐘に、ですよ」


「……訳分かんないな」


「それは恐怖ですよ」


 上目遣いで囁いてからサキヤノと距離をとり、彼女は部屋の中心でステップを踏んだ。


「対等だと譲らない異界人としての本質に加えて、ワタシ達が放つ異彩に恐怖するこの背反……なんだか魅力的に見えませんか?」


 果たしてこの人の話を聞く必要はあるのか。ふと疑問に思ったサキヤノは無視を決め込み、目を逸らして唇を噛む。

 周りに注意を巡らすと、外から荒れた声が聞こえた。同時に聞こえる配慮の声は、ゲルトルードに対して向けられているようだ。見た限り二階から落下したようで、サキヤノは早く駆けつけたい衝動に駆られる。

 膝を曲げ、女性を避けて扉まで走れるか隙を伺った。女性は頬に手を添えたまま動かないが、その瞳はじっとサキヤノに向けている。そして「一応、貴方が聞く権利はありますよね」と女性は二転三転する話を、独り言のように発している。

 だが今度は、サキヤノにも関係のある貴重な話だった。


「ワタシは異界人であってそうでない者——『境守さかいもり』と呼ばれる、選ばれた異界人です」


 ——選ばれた、異界人。

 聞き逃せない単語に、サキヤノは肩を揺らした。


「異界人が選ばれる?」


「そうですよ、選ばれます」


「……その『境守さかいもり』って言うのは?」


「あ、それはまた別の話です」


 ここから先は内緒と言わんばかりに、女性は人差し指を口に添えた。

 しかし不意に視線を扉に送ると、早口で続ける。


「ワタシ達の目的は簡単には教えられませんが、貴方は中々良い可能性なまえを持ってますね」


 笑顔を貼りつけたまま、女性は壊れた窓枠に足を掛けた。そのまま硝子が割れるのを厭わず、半身を外へ傾ける。

 女性が逃げることを恐れたサキヤノは壁伝いに起き上がり、女性の肩を掴んだ。

 女性はサキヤノの手を凝視すると、


「その勇気に免じて、今はまだ助けてあげます。ただし、障害物となり得るのでしたら……」


 窓枠を掴んでいない右手で、サキヤノの首を掻っ切る動作。


「全力で排除します。もちろん、貴方以外の近しい者も」


 その直後、不規則な足音が廊下から響いた。それは複数人がこの部屋に集まってくることを意味していた。

 だがきっと間に合わない。サキヤノは直感し、両手を女性に伸ばした——が、上品な笑みを溢した女性はサキヤノの手を弾き、ジャンプするように飛び降りてしまう。


「にっ、逃げるのか!」


 サキヤノが負け惜しみのように叫ぶと、女性は正面を向いて微かに首肯した。


「パルマコンさん、またいつか。お願いですから、もう邪魔はしないでくださいね」


 言い終えた瞬間、女性が勢いよく落下した。サキヤノは慌てて下を向くが、そこにはもう女性の姿はなかった。


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