第三十六話 三つ目の約束


 血の匂いが充満する。床の雪が、みるみる赤く染まってゆく。目を覆いたくなる光景が、脳裏に焼きつく。

 巨大な氷柱がルーを押し潰していた。正確に言えば、ルーの腰から下を押し潰していた。


「……ルー?」


 声を搾り出す。ルーは身動き一つしない。

 

「ルー?」


 今度は声を張ってルーの名前を呼んだ。それでもルーは動かない。

 サキヤノはむせ返る匂いに顔を顰めながら、慎重にしゃがんだ。氷柱の下の身体は見えないが、腰から下は地面との隙間がない。それは完全に潰されていることを意味していた。ルーの頭と両腕は氷柱の直撃を受けていない。だが、氷柱が溶けたように流れる血の量は尋常ではない。生きているなら、それは本当に奇跡だろう。

 サキヤノは現実を直視できず、ルーの顔に手を伸ばす——と手首をがっちり掴まれた。


「ひぃ」


「……ノ」


 消えいりそうなルーの声。

 良かった生きてると一瞬短絡的に喜ぶが、この状態からルーを救う方法が、ルーを助け出す道筋は全く思い浮かばない。


「……ヤノ」


 サキヤノはハッとして耳を近づける。ルーが血塗れの顔を持ち上げた。


「私は、良い。大丈夫。だから、逃げて」


 絶望的な状況でもルーの声は力強かった。むしろ怒っているように聞こえる。


「でも、だって……俺」


 氷柱の奥に、ルーの千切れた足が見えた。一見するとごみきれのように、無造作に放り出されている。潰れた内臓の一部が氷柱からはみ出してもいた。

 ひゅっと喉の奥が詰まる。サキヤノの許容値を遥かに越える惨状だった。

 目が回る。

 吐き気も酷い。

 頭が追いつかない。

 鼻から入る鉄の匂いが、現実——そもそもここが現実かどうかは知らないが——をつきつける。つい先程まで笑顔に話していた相手が無残な姿になる瞬間は、サキヤノの心を容赦なく抉った。

 「サキヤノ」ルーはサキヤノの腕を引く。「やるべきことは全部教えてって、言ったよね」


 言い聞かせるルーの声は弱々しい。サキヤノは吐き気を堪えて首を横に振った。

 意味もなく逃げられない。それもこんな酷い状態のルーを置いていくなんて、自分にはできない。だが、彼女を助ける手段はまだ思い浮かんでいない。考えようにも、視覚から入る情報で頭は渋滞していた。


「せめて……せ、せめて、なにか……」


「じゃあ逃げて。何も、できないんだから」


 ルーはサキヤノよりも落ち着いていた。視線を彷徨わせたサキヤノは、自身の無力さを嘆きながらゆっくりルーから離れる。ルーはこんな状況でもほっとしたような、柔らかい笑顔で腕を下ろした。


「そう。それで良いよ、それが、正解」


 消え入りそうな声だった。

 なんでルーがこんな目に、とサキヤノは唇を噛む。服に染みついた彼女の血を一瞥し、ルーの身体を潰した物体に目を向ける。

 氷柱。あれが降ってきたからだ。もしかしてまだ落ちてくるのだろうか。


「見ないで」


 サキヤノが見上げる前に、ルーの静止がかかる。


「上を見ないで、絶対」


 強調するように声を張るルー。

 言葉を発するのも辛いであろう彼女が止めるのは、只事じゃないとサキヤノは思った。


「そのまま、後ろに下がって。……そう、それに、隠れて。声は出さないで、これも、絶対に」


 ルーの指示通りに動くと、背中に何かが当たった。部屋の奥に位置していた階段だった。

 もうこんな神殿の奥に来ていたのか。サキヤノは絶対に見上げないように顔を下に向けて、階段の裏に身を隠す。狭いが、屈めば身体は収まった。

 隠れてどうなるのだろう。いつまで待てば良いのだろう。全力疾走をしてしばらく経っても、鼓動は早いままでうるさい。どくどく脈打つ心臓は口から飛び出そうだ。

 サキヤノが隠れてすぐ、ぽすと何かが雪に落ちる音がした。咄嗟に荒い呼吸を抑える。


「惨めですね」


 何者かの声。その初めて聞く女性の声に血の気が引いた。感情のこもっていない機械的な声に何故か身体は震え、背筋がぞくぞくとする。

 サキヤノは身体を丸め、息を潜めた。


「そうでもないよ」


 おそらくルーの声。サキヤノと話していた時よりずっと声のトーンが低く、一瞬誰か分からなかった。


「作り物の身体だから、これくらいどうってことない。なんとでも言えば良いよ」


「我が母ながらなんたる負け惜しみ……」


「母なんて言わないで」


「なんとでも言え、と言ったじゃないですか」


 ルーの息が僅かに漏れる。

 サキヤノはとりあえず、単語を覚えようと努力していた。ルーの身体は作り物。そして、聞き知らぬ声の母。あんな小さな身体で母親とはどういう意味か。

 ふと、ざくざくと雪を踏む音がした。次いで「よくやった」と男性の声。一体何人いるのかと、サキヤノは身体を強張らせる。


「アンヘル。遅かったですね」


「あぁ、少し手間取った。っと、こんなのがソフィアの探してた奴か?」


 ソフィアと呼ばれた女声が「はい」と答えた。


「どこからどう見ても子供じゃないか……」


 アンヘルと呼ばれた男声が唸る。


「見た目に惑わされてはいけませんよ」


「分かってる。……ところで、他に誰かいなかったか?声が聞こえた気がしたんだが」


「……!」


 びくっ、と肩が上がった。

 バレたのか、とサキヤノは腕を抱えてなるべく身体を小さくした。意味がないのは分かっている。だが、見つかった時の恐怖を考えると身体が震えて止まない。

 顔面が引き攣り、奥歯がかちかちと音を立てた。心臓が爆音で跳ね、耳元でけたたましく鳴り響く。呼吸が速くなり、空気を吐く音がいつもより大きくなった。

 見つかるな見つかるな見つかるな。

 相手に聞こえそうなくらいの呼吸音、それに心音。サキヤノはぎゅっと目を閉じ、小鹿のように震えた。


「…………いえ、知りませんね」


 が、ソフィアという名の持ち主はたっぷり間を空けて否定する。

 「なら良いよ」アンヘルという男性もまた、そんなに深くは突っ込まなかった。

 サキヤノは一旦危機が去ったことに胸を撫で下ろす。だが、ルーはまだ危機的状況に変わりない。何故彼女が自分を隠したか、それは今話している二人がサキヤノよりも格上の人物だからだろう。身を挺して、ルーは自分を守ってくれたのだ。

 なら、とサキヤノは音が鳴らないように首を振る。目線の位置に階段のヒビがあり、その隙間からそっと覗いた。


「——————!?」


 サキヤノは呆然とした。ルーの前に立っているある一人に目を奪われ、息をするのも忘れる。

 一人は黒衣のワンピースに漆黒の髪をもつ美女。もう一人は防寒着を着込み、ルーを見下ろす男性。彼は自分と同じ真っ白な髪をしていた。

 ——まさか、異界人?

 顔立ちから、年齢も自分と近そうに見える。サキヤノは仲間を見つけた場違いな親近感を感じながらも、自分の脅威になり得る容姿ではないことに疑問をもった。


「とにかく、ようやく本体を見つけたんだ。教えてもらうよ、『呪い』の正体」


「教えてくださるなら、もうここには来ませんから」


 白髪の男性——アンヘルは口元を歪めた。

 その隣で、黒髪の女性——ソフィアが続ける。

 呪いの正体?とサキヤノは目を細めた。初めて聞く単語のはずだが、何故か前から知っているような既視感を感じる。少し考えても何も思い浮かばなかった為、サキヤノは何か助けるヒントがあればと耳を澄ました。


「『呪い』の正体なんて、ないよ。この世界にいること自体が、『呪い』の、存在証明にならないの?」


「……そんな答えは求めていない」


「さぁ、もしかしたら————ッひぐ」


 アンヘルが溜め息を吐くと、長身のソフィアが氷柱を下方に押した。氷柱は更に地面に吸い込まれ、ルーの口から悲鳴が漏れる。鮮血がルーの身体から勢いよく散った。


「ふざけないでください」


 ゲルトルードと重なり、サキヤノは口を覆って目を逸らした。神殿の床がみしみしと音を立て、いかに氷柱が重いのかを物語っている。ルーの微かな悲鳴を聞きながら、存在の不確かな世界でサキヤノは神様に祈る。どうか、誰かルーを救ってくれ。

 救いの手は意外なところから差し出された。

 

「ソフィア、やめてくれ」


 アンヘルが不快そうに眉を寄せ、ソフィアの手を叩く。ソフィアは唖然と手を見下ろしてから「はい」と素直に応じた。


「おふさげが過ぎますよ、我が母」


「…………母じゃないって、言ってるじゃない……」


 ルーは目を閉じ、力なく地面に伏せる。声はもう聞き取れなかった。

 ——このままではルーは死ぬ。

 信じたくない現実が、サキヤノの心に広がった。

 しかしこのままサキヤノが飛び出しては、ルーの行動が無駄になる。優しさも気遣いも、全て無下にしてしまう。だけど、命に関わるなら、そうも言っていられないだろうか。

 どうせ自分が出ても、役に立てないだろう。どうせ未来が変わらないなら、このままルーの言う通り隠れておけば良いのではないか。

 葛藤するサキヤノがもう一度隙間を覗くと、ルーと目が合った。髪を乱して血の海に横たわり、薄目を開けていた彼女はサキヤノに気づくと、血塗れの口元に笑みを浮かべる。それで良いよ、それが正解と言っているような笑顔。


「……ま、待ってくれ!」


 サキヤノはがむしゃらに飛び出していた。階段から姿を見せ、二人の人物と向き合う。

 二人は僅かに目を見開き、驚きの表情を浮かべると何か言いたげに口を開けた。

 あんな笑顔を見たら、卑怯者の自分が許せなくなった。ルーに甘える、自分の弱さが嫌になった。後先考えずに立ち上がったが、サキヤノは二人が言葉を放つ前に叫んだ。


「っルーを離せ!頼むから、それ以上手を——」


「待て!」


 アンヘルがサキヤノに手を伸ばす。待て、って何を待てば良いんだ。

 その時、ぶち、と何かが千切れた音がした。空気が凍り、景色がスローモーションで流れてゆく。


「ッあ、ぁああああああぁぁぁぁあァ!!」


 絶叫したのはサキヤノだった。

 とてつもない痛みが身体中を駆け巡り、立っていられなくなる。一体何が起きた?とサキヤノは痛みの中心に視線を送る。


「ぅ、ぅぅぅうッ」


 右腕がなかった。肩から先がぶつ切りされたみたいに千切れ、近くには見当たらない。自身の肩から半円状に血液が流れ出しており、金属の匂いが鼻を刺激した。

 サキヤノは雪の上で悶え、歯を食いしばる。何をされたのか、そんなことはどうでも良かった。ルーの安否確認が今一番優先すべきことだ。


「っ……ルー」


 サキヤノは震えながら左腕で身体を起こし、ルーに視線を移した。ルーは顔を上げている。サキヤノを、心配そうに見つめている。

 逆に心配されるのか……情けない。

 サキヤノがようやく四つん這いになると、側から「離れろ!」と男性の声がした。離れるなんて、とサキヤノが声の聞こえた方向に顔を向けると、白髪の男性が必死の形相でサキヤノに駆け寄ってくる。

 不味い、殺されると覚悟した瞬間、恐ろしい程落ち着いた声が頭上から降ってきた。


「————あぁ、やっぱり他にいたじゃないか」


 誰だとサキヤノは視線を上げるが、その後すぐに首にすさまじい衝撃を感じ、サキヤノの世界は反転した。そして目の前にアンヘルとは違った白髪の青年を見た瞬間、サキヤノの視界はブラックアウトした。


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