第三十五話 実践躬行
その後は何かに出会ったり、ルーが含みある話をしたりせず何事もなく目的地に辿り着いた。
その名称通り、冬の神殿は雪の積もる大地に佇んだ氷の建造物だった。無数の柱に支えられた神殿は円形の石畳の上に建っており、その円から外れると雪の面影はなくなる。そして木々はまだ青く、季節のズレを感じざるを得ない。
歪な神殿に眉を寄せつつ、サキヤノはルーの後に続く。ルーは地面の境に躊躇なく足を掛け、石畳の段差を越えた。
サキヤノも同様に神殿へお邪魔する。扉は半壊してその機能を成しておらず、内部にまで雪が積もっていた。よく見ると神殿は風化していて、ひび割れが無数にある。崩れないだろうかと不安が過ぎるが、ルーは問題なしにずんずん神殿の奥に進んだ。積もる雪についた足跡を見ながら、サキヤノはそっと歩く。
内部はそんなに広くなかった。
建物の奥には短い階段、その両隣には扉が二つ。神殿というより、教会みたいな場所だとサキヤノは思った。
「私、ここ嫌いなの」
ルーが唐突に呟く。
「私は孤独が嫌いだから、こんな寂しいところにいたくない。ここは狭いからまだマシだけど、広い神殿は本当に最悪なんだよ」
「そっか。じゃあ、早く出ないとな」
サキヤノは隣に並び、ルーに笑いかけた。
しかし気休めでも自分で安心できるなら、と慣れない行動をしてサキヤノは急に恥ずかしくなる。
「あ、うん。そうだ、早く魔物も探してさ、ね?」
「サキヤノって時々おかしいね」
「……そ、そうかな」
「うん。でもありがと」
眉を下げつつも、ルーは俯きがちだった顔を上げる。また歩き出すが、ルーはすぐに足を止めた。
前方に向けられた白藍の眼差しは動かない。ルーにつられて前を見ると、階段の前の影が目に入った。
全身が青白く、陽炎のように揺れている。自身と同じ人型だが、半透明で頭の両サイドから生えた渦巻く角を見る限り人間ではないだろう。地面にまで伸びた長髪は不自然にまとまっており、果たして髪と呼んで良いのか分からない外観をしている。
ポンチョのような服から見える足は僅かに浮いていた。色、浮遊していること、透けていることを除けば同じ人間のようである。
「魔物ってあれ?」
サキヤノが魔物らしからぬ姿に驚き視線を移すと、ルーは訝しげに眉を寄せていた。そして答えず、黙ったまま目を細める。
その時、視界の端で魔物が動いた。
サキヤノは反射的に後退り、魔物との距離を空ける。いつになっても初めて見るもの、正体の分からないものは怖い。
「あの、ルー?」
ルーは答えない。ただ何かボソボソと喋っている。
魔物がゆっくりとこちらに向かってきていた。
「おかしい……あれ、私じゃない」
「ルー?」
「なんで魔物じゃないの?もしかしてサキヤノ以外に誰か……」
「おーい!ルー!?」
事情を知っていそうなルーに縋るしかなく、格好悪いと思いながらサキヤノは悲鳴をあげた。その間も魔物はサキヤノ達に迫る。ルーの肩を揺らすと、彼女はようやく反応するが
「飛んで!」
「えっ、なに!?」
指示された瞬間、突風が巻き起こった。身体が浮くほどの風圧。次いで、ずばん!と何かの風を切る音。
事態が飲み込めないサキヤノの腰に手が回される。へ、とサキヤノが情けない声を漏らすや否、衝撃音が鼓膜を叩いた。強風が顔面を殴り、目を開けていられない。身体を押される力がなくなると同時に風は止み、サキヤノは瞼を上げた。
目の前には自分の顔。鏡かと思うが、大きな氷柱が反射しているだけだった。
「サキヤノ」
ルーの声が耳元で聞こえる。
返事をしながら振り返ると、雪床の足跡が遥か地面に点在していた。
「おっ……」
「静かにして」サキヤノごと跳躍したルーは言った。「あれは魔物じゃないけど、倒す必要がある」
「倒す?」
「でも今は何も聞かないで。説明する時間がもったいないの」
「……ぉう」
ルーは静かに地面に降り立った。空気抵抗も重力も感じさせない流れる動作でサキヤノを下ろし、青白い影と対峙する。サキヤノは呆然とルーを眺めながら、尻餅をついた。
青白い影の視線はルーを射抜く。ルーもまた、青白い影を睨んでいる。両者の空気は張り詰めており、いつ動き出してもおかしくなかった。
ルーが警戒する理由は分からない。あの影の正体も分からない。分からないことだらけだが「もうどうにでもなれ」とサキヤノは開き直った。ルーの言うことを聞けば、間違いないはずなのだから。
そのルーは地面に手を置き、柄の白い短剣を二本抜いていた。魔法だ、とサキヤノは目を輝かせるが言葉は呑み込んでぐっと堪える。
ルーが短剣を一つ放り投げた。サキヤノは掬うように受け取るも、その重量で身体が前に傾く。
「重っ」
「それは許して。とりあえず、私があれを抑えるからサキヤノはアイツの胸に刺して」
「こんな重いので、俺が?」
「うん。貴方にしかできないの」
サキヤノは絶句した。魔物と言うならまだ分かる。だが先程とは違い、見た目は人そのものである。それをいきなり刺すとなると、かなりの勇気が必要だった。
踏み出せない、とサキヤノは短剣を握り締めた。歯の根は合わず、短剣を握る手はぶるぶると震えている。こんなのじゃ、立ち上がるのだって難しい。
だが、青白い影も待ってはくれない。
青白い影が髪のような塊を持ち上げた。ルーに向け、空中から斜め下にゆっくり振り下ろす。
「走って!」
青白い影の前方に竜巻のような渦ができる。渦はどんどん大きくなり、倒れそうになるくらいの暴風を生み出した。
あれが突風の正体らしい。風圧で目を細めると、いきなり視界が真っ白になった。
「サキヤノッ」
ルーの叫び声。ぐいっと腕を引っ張られるとすぐ、足元でばつん!と弾ける音がした。
「うわっ……!」
「大丈夫?」また重力がないような俊敏な動作で、ルーはサキヤノを抱えた。「やっぱり、難しい?」
サキヤノは無言で頷く。
「俺、俺には無理……だってあの風がどこに飛んでくるか、全く分かんないんだよ。そんな状態で、近づけるわけがない……」
「弱気だね」
「じ、自分で言うのも情けないけど、俺って弱虫だから。危ないことは避けてきたんだよ」
「じゃあ私が守るよ」
「…………でも」
「だから早く行ってきて」
今までにないくらいの笑顔で一蹴するルー。問答無用の笑顔には何も言い返せない。悄然とするサキヤノが顔を伏せると、ルーの足に赤色が見えた。
ルーは足から出血していた。
「その怪我、もしかして今の?」
「全然大したことないよ」
否定しないと言うことはその通りなのだろう。自分が走らなかったからか、と後悔するサキヤノにルーは
「でも、サキヤノが迷わなかったら怪我もなかったかな」
と追い討ちの一言を掛けた。
ルーのふくらはぎの出血はそう多くはない。だが、きっと痛いだろう。自分なら痛い。平気に歩くこともできないくらい辛い。
サキヤノは口角を引き締め、ルーから離れる。
「サキヤノ?」
「ごめん、走るよ。俺は、もうなんでも良い。だからやるべきことはルーが全部教えて?」
短い間一緒にいて、ルーのことが少し分かった。
この世界では、彼女の言ったことを実行すればほとんど間違いない。リスクなく最善と呼べる方法を教えてくれるのだから、優柔不断なサキヤノは従えば良いのだ。
「それは自暴自棄じゃないよね?」ルーは影から目を離さずに言った。「うん、中々良い選択」
「中々ってことは、まだ最高の選択じゃないんだね」
「言葉の綾だよ」
ルーは笑いながら、易々と短剣を顔の前で構える。
「私が合図したら走って。もちろん全力で。それから、何があっても止まらないで」
不安を煽る言葉だが、ルーの自信に満ちた口調はその不安をかき消した。サキヤノは深呼吸し、逸る心臓を叩く。
青白い影が髪をもたげた。びく、とサキヤノの身体は決意とは対照的に引き攣る。一歩目が踏み出せるかどうか不安になるくらい、足が震えている。
「まだ」
ルーは静かに見据えて囁く。サキヤノは頷き、腰を落として走る姿勢を維持した。
恐怖と責任の重さに、全身が押し潰されそうになった。過度の緊張による浅い呼吸がサキヤノの首を絞める。両手で輝く短剣がサキヤノの覚悟を鈍らせる。
研ぎ澄まされた刃で、自分は人型を刺せるだろうか。
その時、風が髪を揺らした。影の前に竜巻が出現し、じわじわと巨大化してゆく。足が地面から浮きそうになり、サキヤノは必死に踏ん張った。
——雪の上に、加えて鈍足。
もし他に人がいれば、ルーだってこんな悪条件の自分に任せるわけがない。常に自信はないが、それでも彼女の期待には応えたい。
「走って!」
突風が巻き上がった瞬間、ルーが鋭い声を発した。
サキヤノは反射的に飛び出した。それまでの思考は忘れ、全身全霊で走ることに集中する。風によって身体は全然前に進まないが、サキヤノは怯むことなく前へ前へと走る。
ルーがサキヤノを飛び越え、前に躍り出た。風圧によって薄目になるサキヤノは、ルーが剣を真横に薙いだのを目撃する。
ルーは文字通り風を切った。不可視の風はルーの剣によって真っ二つに裂かれ、相殺される。
何があっても驚くな、とサキヤノは心に言い聞かせた。重りの剣を片手に収めて腕を振る。
その剣の構え方は知らない、使い方も知らない。しかし逆手で握るのか順手で握るのか、片手で持つのか両手で持つのか、細かいことは全て無視する。考えるべきは、いかにこの重い短剣を刺すかだ。
青白い影は驚くように身体を引きながらも、変化のない表情で髪を振り下ろした。
瞬時に竜巻が二つ出現する。
たじろぐサキヤノだったが「大丈夫、そのまま走って!」とルーに背中を押されて歯を食いしばる。守ってくれるという安心感は、サキヤノの底力を発揮させた。
とまるな。とまるな。走れ。
自分を鼓舞して、サキヤノは駆ける。
ルーの励ましと援護により、怪我なく青白い影と対面することができた。影の視線が、初めてサキヤノに注がれた。睨み返し、サキヤノは剣を振り子のように背中へ振って、勢いよく突き出す。
「——ッらぁッッ!」
覚悟の一撃は、青白い影の胸元に吸い込まれた。
刺した感触はなかったが、短剣が触れると影は絶叫した。走る勢いが衰えなかったサキヤノと衝突し、影は雪の上に倒れる——前に姿を消してしまう。
驚く間もなくサキヤノは一人で地面に激突した。
「あれ……痛っ!」
したたかに顔面をぶつけるも、痛みより疲労が勝っていた。サキヤノは地面に突っ伏しながら視線を巡らすが、影は跡形もなく消えている。
「た、倒した……?」
久々に全力疾走した身体は悲鳴を上げていた。息を乱しつつも身体を起こし、サキヤノは刺した右手を見る。倒した手応えはない。だが消えたのは、倒したということなのだろうか。
「やった、のかな」
サキヤノは目の前でしゃがむルーに聞いた。ルーは首を傾げ、両手で膝を抱える。だが小さく唸った後、影の立っていた場所を見つめて不意に呟いた。
「……待って、違う」
ルーがサキヤノの袖を引っ張る。声は震えていて、怯えるように表情が固い。
「ルー?」
湧き上がる、漠然とした違和感。サキヤノは、ウォンが豹変した時と同じ感覚を思い出していた。
「そもそもこんなところに、私が知らない生物がいるはずないの。もしいたとしても、こんなに簡単に倒せない」
サキヤノに語りかけるように、ルーはゆっくり続ける。
「ここはこの『幻視他界』で、死に一番近い場所だから」
ルーの理屈は分からないが、焦りようを見る限り相当異質な状況なのだろう。
「呆気なさすぎる。弱すぎる。これなら、私が来なくても——」
ルーは
ルーの瞳が揺らぐ。
「お、俺は、何も……分かんないよ……?」
「サキヤノ」
見つめられ、我慢できずに口を開いたサキヤノにルーは詰め寄った。サキヤノは距離の近さに戸惑い、息を止める。
そしていきなり、真剣な眼差しでサキヤノを真横に突き飛ばした。見た目以上の力に飛ばされ、目を白黒させたサキヤノは地面に伏せながら振り返る。
「な、何?」
「……て」
聞き取れない。
「え?」
「逃げて」
——————ぐちゃり。
その瞬間、何かの潰れた音と同時に視界が真っ赤に染め上がった。
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