第三十四話 二つ目の約束
次の目的地は【冬の神殿】。
サキヤノはルーに案内されながら、景色が忙しく変化する世界に心を奪われていた。
螺旋階段を出て、森を抜けた平原を少し歩いただけで季節が変わったようだった。
今は秋、と言うべきか。
木々は赤々と燃え上がり、散った落ち葉が
春は花見、夏は散策、秋は鑑賞、冬は周遊とひたすら歩き回った公園。目的はないに等しかったが、散歩は楽しいのだと実感できる家族の行事だった。
こうやって異世界を歩くのも悪くはない。むしろ良いかもしれない。
「いたっ」
「あだっ……ご、ごめん!」
景色に見惚れていたサキヤノは、急に立ち止まったルーに反応できなかった。
ルーの靴の踵を踏み、背中にぶつかってしまう。サキヤノは咄嗟に謝るが、ルーは恨めしそうに見上げていた。ごめんよ、と謝罪を重ねると険しい眉間の皺を解いてルーは再び歩き出す。
「サキヤノは経験ないんだよね?」
「へっ!?」
「魔物と戦った経験」
「……え、あ、う、うん」
いきなり何を言うんだこの子は、とサキヤノは衝撃発言に一瞬冷や汗をかく。ルーは間髪入れず付け足してくれたが、誤解を招く言い方がサキヤノにはむず痒かった。
動揺を隠せず、返事はかなり歯切れが悪いものの、ルーは例によって特に反応を示さない。
そして、それっきり黙るルー。
怒っているのか、興味がないのか。感情をあまり出さないルーに、サキヤノは肩を竦めた。
「あ、そうだ」ふとルーは足を止め、サキヤノに向き直る。「はいコレ」
「これは……ナイフ?」
ルーの手に握られていたのは、刃渡り十五センチ程のペティナイフだった。剥き出しの刃は青白く光り、木の取っ手が小さく見える程の存在感を放っている。
ルーはサキヤノの手にナイフを置くとすぐに、ふい、と首を前方に振った。
「サキヤノ、試しに戦ってみて」
見ると、小さな猪みたいな生き物が雑草の間からサキヤノを睨みつけていた。小さいながらに眼光は鋭く、サキヤノは気圧される。
「あれは【冬の神殿】からあぶれた魔物……ってことにしておくね。とりあえず、今すぐあれを倒して見せて」
ルーは数歩下がり「どうぞ」と首をしゃくった。
「こ、これを倒せって……!?」
呆気に取られ、サキヤノはペティナイフとルーを交互に見る。ルーは黙って頷き、視線を明後日の方向に向けた。
サキヤノは戸惑いながらも魔物と向き合う。
毛並みは黄色く足は長いが、見た目は猪そのものだった。サキヤノの足首までしか高さはないが、鋭い牙と爪が恐怖を煽る。サキヤノは覚悟を決め、ナイフを構えて一歩ずつ魔物に近寄った。
しかし、ちょっと待て、とすぐに動きを止める。
倒すとは、具体的にはどういうことだろう。戦わないようにすること——だが、魔物の戦力の削ぎ方をサキヤノは知らない。なら殺すこと——これもサキヤノの心に余裕はない。
どちらかと言えば、後者かもしれない。自分で考えて、サキヤノはゾッとした。
手をかけるなんてできるわけがない。
まだ考えがまとまっていないが、魔物は待ってはくれなかった。草むらから飛び出すと、魔物はサキヤノに向かって一直線に突進してくる。
とりあえず捕まえようと瞬時に頭を切り替え、サキヤノはナイフを握って踏み込んだ。傷つけなくとも、捕まえることならできるかもしれない。
「よし。あっ、ちょっ!」
しかし魔物のは素早かった。もしくはサキヤノの動きが遅いのかもしれないが、とにかく魔物が捕まえられなかった。
そもそも刃で傷つけることに抵抗があるのに、戦えるわけがない。だがそのナイフを手離すのは不安である。
複雑な気持ちに挟まれながら、サキヤノは「えい!」とナイフを振り下ろした。
「きゅっ」
魔物の悲鳴。ナイフは奇跡的に魔物をかすったようだった。赤い血が滴り、魔物はよろめく。
怪我をした魔物を見ながら、サキヤノは息を呑んだ。肉を切った感触。食材を切るのとは違う、柔らかい独特な感触に鳥肌が立つ。
自分が切って、相手が怪我をした。その事実が、怖い。
「ぴぎゅ!」
魔物が可愛らしい声を上げて飛び上がった。小柄な身体が、呆然とするサキヤノの鳩尾に直撃する。可愛い声とは裏腹に、ものすごい威力だった。
「……は……ッ」
違和感の後、急に呼吸が乱れた。息が吸えなくなり、サキヤノは四つん這いになって顔を伏せた。苦しい、と胸を押さえる。押さえるだけでは足りず、服を握りしめて息を整えようとする。
だが当然、魔物は待ってくれない。魔物はサキヤノの伏せた顔面に躊躇なく突進した。
首と背中が引き攣り、サキヤノは尻餅をついた。
視界が涙で歪む。サキヤノが痛む鼻に手を遣ると、ぬるりとした嫌な手触りを感じた。触った指には血がついている。
「っはぁ、はっ」
まだ呼吸がしにくい。サキヤノは出血した鼻を服で擦り、ぼやけた視界で必死に魔物を探した。
「遠慮しちゃ駄目なんだよ」
背後からルーの声が飛ぶ。それは完全に傍観者を決め込んだ、冷たい言葉だった。
「だって、どちらかが死んじゃうんだもの。手加減なんてできないよね」
そんなことは知っている、とサキヤノは拳を握った。少し大袈裟だが、確かにルーの言う通り。自分は簡単に死なないにしろ、魔物は小柄で、あと一撃でも与えれば絶命しそうだった。
歯を食い縛り、サキヤノは膝に力を込めた。前傾姿勢で立ち上がり、魔物の影を目で追う。
視力には自信があるが、動体視力には自信がない。サキヤノがようやく魔物を見つけても、すぐに草むらに身を隠してしまう。
と、今度は背中に衝撃。
「いっ……」
サキヤノは感情に任せてナイフを振るった。
だが、闇雲にナイフを回しても当たりはしない。魔物は嘲笑うかのように、サキヤノの死角となる部位を的確に攻撃し続けた。
しかし初めのように人体の急所ではない為か、一撃一撃は重いが、耐えられないことはない。
魔物に翻弄されながら、サキヤノは初めて策を練っていた。場所が悪くなければ、痛いだけで魔物の攻撃はどうってことないのだと自身に言い聞かせる。少し我慢すれば、魔物の動きを止めることだってできるはず。
あれ、とサキヤノは不意に違和感を感じた。自分の特殊能力を思い出し、今の矛盾した状況を訝しむ。
『致命回避』。これは死ににくい能力。しかし言葉の意味そのままに捉えるなら、致命傷を——。
「ぐっ」
サキヤノの膝裏に衝突した魔物は、もう何度も見た動きで草むらに隠れた。今は他ごとを考えている場合ではないか、とサキヤノは違和感を思考の外に捨てた。
魔物は次にきっと顔面に飛んでくる。
ワンパターンな攻め方に、サキヤノの目は慣れていた。
がさ、と草むらが強く揺れた。
——今だ!
サキヤノはナイフを振り上げる。予想通り、魔物は跳躍をして正面から姿を見せた。
魔物をなるべく傷つけないように、サキヤノが切る対象は足。だが、ナイフに関して全くの素人で、料理以外では使ったことがない。それでもサキヤノは、ナイフを地面と平行に構えた。
「ぴゅいぃぃ!」
「——!?」
魔物の叫び声に驚き、ただでさえ不安定な腕がびくりと揺れた。その一瞬で的はずれ、魔物はサキヤノの手を這い上がってくる。
もはや声も出なかった。
自分を補足して離さない眼光が迫り、サキヤノは後退る。そのサキヤノの顎に、小さな脅威が激突した。
「いっだ……ッ!?」
本能が不味いと告げる。
顎が跳ね上がり、脳が揺れた。ぶれた視界が黄色の塊と放り出した両手、そして空を映す。踏ん張りの利かない足が地面から離れ、世界がひっくり返った。
——あ、落ちる。
サキヤノは後頭部の衝撃を覚悟したが、自身の頭は固い地面ではなく何か柔らかいものの上に落ちた。
「仕方ないなぁ」
サキヤノの眼前を白い影が飛ぶ。何が起こったか分からなかったが、ぐるぐると回る視界では柄の白い短剣は魔物を宙で捉え、身体を貫く様子がはっきりと見えた。
きゅい、と消え入りそうな声。
魔物がサキヤノの視野から消えた。
「これが殺すこと。サキヤノが生きる為、約束を守る為に必要なスキル」
頭上からルーが言った。
サキヤノの顔を覗き込むように俯き、ルーは艶やかな髪を耳にかける。なんでルーが自分の上に、とぼんやり考えたところで、サキヤノは動転して身体を起こす。
頭が揺れたが、そんなことを気にしている場合ではない。
「あっ、ごめ……ルー、ごめんっ」
「別に良いよ。サキヤノ、未熟なのに頑張ったもんね」
サキヤノはルーに膝枕をされていた。
くすくすと微笑み、大人の余裕を醸し出すルーにサキヤノは頭を下げる。
「情けないよ……助けてくれてありがとう」
「別に気にしないで。それより、命と向き合って」
「あ……う、ん」
サキヤノは鼻を押さえながら、短剣の刺さった魔物を見つめた。僅かに痙攣し、胸らしき毛玉が上下している。短剣から溢れた血液は真っ赤で、人間と同じ色をしていた。
辛うじて生きている、とはこういうことなのだろうか。
サキヤノは胸の奥が痛んだが、こうしないと助からなかった自分がいる現実は否定できなかった。事実、ルーが助けてくれなければ自分は致命傷を負ってしまっただろう。
サキヤノは目を閉じ、手を合わせた。
目の前で消える命を受け止められる程の胆力は持ち合わせていない。だから、体裁だろうが偽善だろうがサキヤノは祈る。
再び目を開けた時には、魔物はピクリとも動かなかった。
「……貴方が頑張ることで、救える命がある」
ルーがサキヤノの隣で呟く。
「ルー?」
ルーは魔物から目を逸らし、地面に視線を落としたまま薄紅の唇を開けた。
「みんな生物の命は平等だって、生まれながらに平等だって、簡単に言うの」
ふぅ、と小さな溜め息。
「なのに躊躇いもなく命を奪う人間がいる。サキヤノみたいに気丈に振る舞って、世間の当たり前の枠に収まろうと頑張る人間もいる。私はどちらが正しいかのか、分からない」
魔物に心揺さぶられたのか、ルーは何か大きな問題を口にしているようだった。
だがサキヤノはあまりピンと来なかった。ルーの言っていることが理解できないわけではないが、何故このタイミングで言ったかが分からない。
ルーは首を傾げるサキヤノの手首を掴んだ。
「何が言いたいかって言うと、私はサキヤノの甘さが好きってこと」
ふふ、と上品に微笑んでルーはサキヤノの手を引く。褒められているのか微妙な心境のサキヤノは連れられるがまま、ルーの歩幅に合わせて歩いた。
「私は無意味なことしか言わないから。気にしないで」
サキヤノは後ろを振り返る。
魔物と短剣は、元々なかったかのように消えていた。血痕もサキヤノが蹴散らした草も元通りになっている。
サキヤノが思考する間もなく、ルーは腕を抱き締めた。サキヤノは前を向き、腕を引いた少女に「どうしたの?」とやんわり尋ねる。
ルーはどちらかと言うとサキヤノに寄り付かないイメージかあった。そんな彼女が自分の腕を抱くなんて、何か変化があったのだろうか。
「魔術は見せてくれなかったけど、強くなって向き合うことはできたね。次の『生きる』——に行く前に、もっと挑戦してみよっか」
声は柔らかいが、彼女の前を見つめる瞳は鋭い。緊張感のある表情で、ルーはサキヤノの腕を抱いたまま足を進めている。
サキヤノは何も聞けず、ただ小さく頷いた。
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