第三十話 誰も知らない誰かの故郷


 涼風に乗って、誰かの声が耳を撫でる。


「——……ぁ——……ちはぁ………んにちはぁ……——」


 頭の中に直接響いてくる、聴き慣れた声。

 きっと彼女だと目を開けると、日光をバックに、長髪の少女が顔を寄せていた。漏れた光に目を細めながら、サキヤノは身体を起こす。


「こんにちは。そしておはよう、サキヤノ」


 起き上がったサキヤノに笑いかけたのは、先程まで挨拶を繰り返していたゲルトルード。起こしてくれたことに感謝しつつ、サキヤノは寝惚け眼を擦った。

 おはよう、と挨拶を返してからサキヤノは動きを止める。

 自身の寝ていたところに視線を遣ると、掌をくすぐる草が見えた。見上げると雲一つない青空が、見渡すと雪の積もった山々が眼前を彩っている。

 洞窟にいたはずでは、とサキヤノは首を傾げた。いつの間に外に出たのだろう。欠伸をしながら記憶を辿っていると、不意にゲルトルードがずいっと顔を近づけた。


「な、ななな、何!?」


「これ、痛い?」


 ゲルトルードが指を差した先——右腕には血が滲んでいる。言われて初めて痛みに気付くと、サキヤノは呆然としながら頭を抱えた。

 外に出た記憶もなければ、怪我をした記憶もないなんて、おかしくはないか。記憶力に自信がある訳ではないが、現状の異様さははっきりと感じ取れる。

 肌に合わない寒さに身体を揺らしてから、場を持たせる為にサキヤノは口を開いた。


 「思ったより痛くない、けど」おや、とサキヤノは小柄な少女を眺める。「なんか、変わった?」


「え?」


「あぁ、ごめん。なんか、今ゲルトルードじゃないような気がして……あははっ、頭でも打ったかな?」


 と言いつつ、サキヤノはゲルトルードの容姿と口調に違和感を覚えていた。

 瞳は綺麗な翡翠色だったはず、と彼女の目を見つめながら眉を寄せる。そして敬語が苦手と言いながらも、滅多に敬語を崩さなかったゲルトルードの砕けた挨拶。微かに低い声のトーンが、まるで別人のように見えてしまう。

 だが、思い違いに決まっている。場所と人と記憶と、色々混濁してしまっている夢だろう。

 サキヤノは自身に都合の良い解釈をして頬をつねる。


「ううん、合ってるよ」


「へ?」


 声が裏返る。

 頬を押さえ、サキヤノはゲルトルードに向き直った。


 「私はルー」ゲルトルードにそっくりな少女が続ける。「私の名前はルーだよ」


「ルー……?」


「うん、ルー」


 サキヤノが一応確認すると、少女は改めて名乗った。

 親戚、いや双子の姉妹と言っても良いくらいに似ている。はたまたそっくりさんやドッペルゲンガーの類いなのかと、想像が止まらない。一旦落ち着こうと深呼吸して、サキヤノはルーに笑顔を返す。


「えっと、失礼なこと聞いちゃうけど……い、生きてるよね?」


「私が?それとも貴方が?」


「いや、ごめん間違えた。実在してる、よね?」


 笑顔でやらかした。やってしまった。

 サキヤノは恥を抑えながら、平常心を保ってルーの返答を待つ。

 ルーは「開いた口が塞がらない」を体現するが如く、口を開けたまま呆気に取られている。視線はサキヤノに向けられたまま動かず、瞬きさえしない。


「な、なんて!あははっ、冗談だよ!夢だと思ってさ、ちょっと試しただけだから関係ないって言うのかな?別に気にしなくて良いから……は、ははは……」


 たった数秒で耐えきれなくなって、サキヤノは早口で弁解した。しかし逸れない視線に頭から火が出そうになり、途中で口籠る。


「……ごめんなさい」


 サキヤノは謝るが、ルーは「ふーん」と心底興味なさそうに視線を外した。

 一人で盛り上がって、一人で慌てふためいて、恥ずかしい奴である。穴があったら入りたい気持ちが、今なら死ぬほど理解できる。


「そんなことより」


「えっ」


 何事もなかったかのように、ルーは話を切り替えた。


「サキヤノがこんなところにいる方がおかしいよ。ここまで来た道、覚えてるの?」


 まさか他人の口から違和感について指摘されるとは思わず、緊張と恥が瞬時に引く。サキヤノは思い出す努力をするが、口にするのも嫌になるくらい、ここに来るまでの記憶が欠落していた。辛うじて覚えているのが洞窟内でゲルトルード、ヴァルと話したところのみ。そこから先は初めからなかったみたいに全く思い出せない。

 情けなくなり、サキヤノは目を伏せた。


「ごめん」


「謝り過ぎだよ。仕方ないし、気にしないで」


 ルーの微苦笑で喉が詰まる。

 何も言えなくなったサキヤノの腕に黙って布を巻き、ルーは立ち上がった。


「あ、ありがとう」


「うん、行こうか」


「……は?」


 身に覚えのない怪我の処置に頭を下げつつ、サキヤノは視線だけをルーに向けた。サキヤノを置いてけぼりに歩き出したルーは、含み笑いを浮かべる。


「行きたいでしょ、あそこに」


「へ?え?どこに?」


 口角を上げたルーが細い指を伸ばす。指につられて景色に視線を移すと、空に向かって伸びる建築物があった。

 幾重にも並ぶ水平な板、銀の幅広の踏面ふみづらが空へ近づくに連れて広がっている。サキヤノは、それが巨大な螺旋階段だとすぐに気付いた。

 始めに、好奇心が湧く。

 次に、幻想的な美しさに溜め息が漏れる。


 見惚れるサキヤノが我に返った時には、ルーの背中はかなり小さくなっていた。ルーから離れると行き場を失う為、サキヤノは慌てて彼女を追った。こんなところに一人にされては、帰り道さえ分からなくなってしまう。

 サキヤノは駆け足で彼女に追いつき、隣に並んだ。自身の背丈より小さい少女を見下ろしながら、サキヤノは沈黙を作らないように話題を考える。


「何か質問ある?」


「しっ、質問?」


 心の準備ができぬ間に、ルーから話題が振られた。

 サキヤノはどもりつつも、腕を組んで考える。何も分からない状況で、なんでも知ってそうなルーに質問できるのは正直有り難い。

 色々気になることはあるが、まずは帰れるかを確かめたい、とサキヤノは答えた。


「……じゃあ、ここの国名、教えてもらっても良いですか?」


 何故か敬語。言ってから恥ずかしくなるが、ルーはどうでも良さそうだった。表情を変えず、ルーが


「国名……」


 と、呟いて足を止める。

 もしここがライノスなら、洞窟を出た後に「何かがあった」と仮定できる。ライノスと聖都の間にはシンルナ鉱山しかない為、知らない単語は出ないだろうと踏んで聞いたのだが——。

 腕を組み、唇に手を添えたルーはサキヤノの予想できなかった答えを返した。


「国名はないよ。言っちゃうなら、別世界」


 ルーは白藍しらあいの瞳をサキヤノに向ける。


「隠す必要はないしね、教えてあげる。ここはね、『幻視他界』。それがこの世界の名前。お察しの通り、サキヤノの住んでいるところとは全然違う場所なんだよ」


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