第二十九話 しあわせな選択
ゲルトルードもこの変な場所にいたのか、と安堵の息を吐いたものの、サキヤノは彼女に怪我がないか急に不安になった。確認すると赤くない。服も破れていない。
徐々に視界が明瞭になったところで、ゲルトルードがサキヤノの顔を服で擦った。「生きてる?」
ゲルトルードの服が血で汚れるのを見つつ、サキヤノは小さく頷く。正直、生きているか自分自身でも微妙ではあるが。
「……なら、良かった。間に合って良かったよ」
安堵する声や姿はゲルトルードそのもの。
しかし、口調がずっと彼女らしくない。
サキヤノは怪訝に思いながらも、ゲルトルードの背中越しに見えた桃色の物体に悲鳴を上げた。
あの小鳥がゲルトルードを見下ろしている。
今度はゲルトルードを標的にしているのか。
「あ、ぶないっ」
駄目だ。
こんな怪我をゲルトルードにさせるわけにはいかない。
サキヤノは精一杯の大声と共に踏ん張るが、身体から力が抜けて地面に倒れてしまった。
クリーム色の髪を流して振り向いたゲルトルードは首を傾げ、サキヤノの身体に手を伸ばす。
「ゲルトルード……後ろ、後ろにッ」
「後ろ?後ろに何か?」
サキヤノはまだ動く左腕で樹上を示した。指と一緒に振り返ったゲルトルードは「あぁ」と低い声を洩らし、悠揚たる仕草でサキヤノの頭を撫でる。
「大丈夫だよ」
低い声のまま続けたゲルトルードは、薄笑いを浮かべて腰を上げた。
余裕を見せるゲルトルード。彼女は小鳥を見上げたまま両手を翳し、小鳥が掌に隠れるように動かす。そして花弁を飛ばすようにふっと一息吐き、指の隙間を覗いた。
暫くして「よし」とゲルトルードは手を下ろす。すると、小鳥は初めからいなかったかのように、跡形もなく消えた。
「……」
「ん?あは、君、間抜けな顔してるよ」
呆然と口を開けるサキヤノを可笑しそうに見据え、ゲルトルードは目を細めた。その瞳はいつもの翡翠色ではない。
——この子は、誰だ。
「……ゲルトルードじゃ、ない?」
黄味の強い、白藍色の瞳。
サキヤノは瞳以外は全く変わらない、ゲルトルードに似た少女を見つめた。血縁者と言っても過言ではない程そっくりである。
少女は微妙な距離を保ちつつ、自身の姿に視線を落とす。
「そっか。私、今はこの娘なのか」
少女は儚げな笑みを称えてから、サキヤノに顔を向けた。
「……ゲルトルード。何を、したの?」
サキヤノはゲルトルードではないと思いながらも名前を呼び、目を合わせる。
すらりした背筋を伸ばした少女は、物思いに耽るように遠くを眺めた後、視線をサキヤノに送って「うん」と頷いた。
「私は確かにゲルトルードの姿だね。でも、ゲルトルード本人じゃないよ。脆くてちっぽけな私が被った殻がゲルトルード……だけど私は『私』としてここには確かに存在するから、やっぱり本人なのかもね?」
サキヤノの問いかけを無視し、ゲルトルードに過剰に反応する少女。
彼女の言っていることが半分以上理解できず、サキヤノがつい眉を寄せると、少女はサキヤノの表情の変化に気付いてか、あっと声を上げて慌てて弁解した。
「深い意味はないよ。私は無意味なことしか言わないから」
だが弁解も意味不明だった。
——なんだよ、もう。
サキヤノは思わず心の中で愚痴る。ゲルトルードと違って、少し話しにくいかもしれない。
「ごめん」
少女は顔を顰めたサキヤノに笑いかけると、膝をついた。彼女の服に赤黒い血が滲み、サキヤノは声を掛けるが少女はちっとも気にしない。そのままよいしょと四つん這いになって、歌膝のサキヤノの上にまたがり、少女は耳元で囁いた。
「君は私が何に見える?」
「……は?」
吐息が耳を撫でる。ゾクゾクとした違和感が首筋を駆ける。サキヤノの心臓の鼓動は早くなる。どういう意味だろうと真剣に考えながらも、サキヤノは少女を意識してしまう。
流し目。微笑。見た目にそぐわない色気。
自身の早い鼓動が頭の中に響く。少女を見たまま身体は固まってしまい、サキヤノは結局口を閉じた。
「……困らせちゃったね」少女が離れて眉を下げる。「ゲルトルードにちなんで、私のことはルーって呼んで。呼びたくなければ呼ばなくても良いけど、名前で呼ばれるのは悪い気しないかな」
「……」
「ルーって呼んで良いよ」
ルーは困ったように笑った。
朦朧とした頭では、ルーの回りくどい言い方が理解できない。そして時間が経って緊張が解けたからか、忘れたような痛みが倍増して襲いかかってきていた。サキヤノは深呼吸を繰り返し、目を閉じる。
「君、名前は?」
「なまえ」痛みに耐えながら、サキヤノは答える。「サキヤノ……」
「サキヤノ」
名前を呼ばれて目を開けたサキヤノを覗き込むルー。
「異界人だね?」
サキヤノは頷く。
「私、異界人はとても好きだよ。短い間だけどよろしくね」
よろしく、とサキヤノは返す。
だがルーはつまらなさそうに唇を窄めた。
「大丈夫?もう死んじゃう?」
「………………俺も、分かんないよ」
上手く反応できない。
腕も足も痛い。頭だって重い。この耐え難い悪寒をどうにかしてほしい。
サキヤノは苦痛も、問いかけも、ルーの視線も、自身の感情も、全てが他人事のように見えていた。自分は笑顔を崩さずに質問を繰り返すルーに、腹が立っているようだった。
頭が働かないから考えることを放棄する。
苛立つからルーの話を適当に流す。
もしかして、いや——俺って、結構
サキヤノは自嘲した。
行き場のない怒りが八つ当たりになり、サキヤノは話したばかりのルーに無言の視線を送る。ルーは怒りを助長するような含み笑いを浮かべるが、唐突に「そうだ」と指を立てた。
「ねぇ、治す前にひとつだけ質問」
全てが彼女のペースで、サキヤノは更に他のことなんてどうでも良くなる。だが、そんなサキヤノお構いなしにルーのテンションは非常に高い。
ルーが膝を抱え、首を傾げると淑やかな髪が肩から垂れた。不意に視界に入った瞳に光はない。
サキヤノはぎくりと肩を揺らした。
見た目はゲルトルードとなんら変わりないのに、声質が変わっただけで印象も変わった。サキヤノを射抜く怜悧な眼差しで、ルーは薄い唇を開く。
「サキヤノは強くなりたい?それとも、家に帰りたい?」
突然のチャンスだった。
ほとんど興味を失っていた頭が、急に回転を始めた。サキヤノは目を丸め、痛む身体に鞭を打ってルーに顔を寄せる。耳が聞こえにくいからと言って、彼女の言葉を聞き逃すわけにはいかない。
ルーは淡々と続ける。
「家に帰る選択肢も良いと思う。サキヤノはもう逃げ出したいんでしょ、見れば分かるよ。でも、現実から目を逸らさないで戦うって手段も大事だと思うんだ。私は苦だと思うけど、貴方のことを思って、後者を勧めたい」
ルーが言葉を切る。
「難しいようなら、言い方を変えようか」
カメラのピントが外れたみたいに、ルーの姿が一瞬ぶれる。
サキヤノは目を細めた。ルーの表情も見逃さないように、霞む視界を出来るだけはっきりと浮かび上がらせる。
ルーは勿体ぶるように間を開け、口角を上げた。
「サキヤノは立ち向かう?逃げる?」
——逃げる。
可能なのか、とサキヤノは息を呑んだ。
この世界に来て、生きる為には「逃げる」なんてことはできなかった。自分なんかの為に役割を与えてくれたディックやゲルトルードに恩を返すべく、苦手なことも逃げないでやってきた。正直、対話力の必要な勅使は荷が重いと今でも思っている。
だが、それは自分にしかできないこと。自分だからできること。
そう教えてくれたから、やるしかなかった。
『やらされた』とは絶対違う。違うはずなのに「逃げる」という選択肢がもらえた今、やめたいと思った——思ってしまった。
サキヤノは目の良さと我慢強さは人一倍と自負している。昔から頼まれたことはなんでも熟したし、嫌だ嫌だと言いながらも苦手なことを途中で投げ出さなかった。
友達がいなくても、部活はやめなかった。
無視されても、授業は必ず出席した。
いじめられても、学校は通い続けた。
つまり、逃げなかったと言っても過言ではない。
そこまで考えて、サキヤノは現実を見た。
——我慢するということは、今の立場を嫌だと思っているのか?仕方なく、言われたことをやっているだけなのか?
サキヤノは身を屈めた。
なんて酷い奴。
なんて罰当たりな奴。
なんて恩知らずな奴。
心の中でサキヤノは後悔した。
立ち向かう勇気はない。しかし、逃げる道もない。どうすれば、どうすればと自問自答を繰り返すが。
「え、選べなぃ……」
「せっかくの二択が台無しになっちゃうよ」
サキヤノは選べない。
ルーが決めてくれるはずもない。自分自身の問題を、他人に押し付けるわけにはいかない。だから自分で考えないと。
サキヤノが視線を泳がせていると、ルーが深い溜め息を吐いた。
「もっと分かりやすく言うなら……生きたい?死にたい?」
「……え」
ぐるんと視界が回った。
またしても暗闇に投げ出される感覚。だけど今回は背中がしっかり地面に触れていて、浮遊感はない。
その分気分の悪さはあった。
奥に響く頭痛に猛烈な吐き気。頭と顔、右腕は火照っているのに全身は寒い。
サキヤノは目的もなく左手を突き出した。
その左手に、ひんやりとした何かが触れる。寒いのに、不快感のない不思議なもの。それはサキヤノの頬にも感じた。
「どっちにするの?」
ようやく目が光を捉えた。視界は狭く、物の判別が出来ないくらいぼやけているが、自身の目の前にいる人物は見える。
頬の手が右腕に移った。サキヤノは自由な左手で彼女の手を握り、喚いた。
「逃げない……逃げたく、ない……!俺は、頑張らないといけないから……もっともっと……みんなを、裏切りたくないから、せめて——ッ」
「うん、うん」
ルーは頷きながら、サキヤノの右手に指を絡めた。
「元はと言えば間に合わなかった私が悪いから……でも、貴方の気持ち。確かに伝わったよ」
ルーに砂嵐がかかり、サキヤノはそれ以上彼女を見ていられなかった。
落ちた視線の先には、真っ赤な手。それに絡む、細いルーの指。そのほとんど感覚のない手に温もりを感じながら、サキヤノは重い瞼を閉じた。
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