第二十八話 記憶の奥底の恐怖



 突如襲ってきた、平衡感覚を失う目眩。声を上げる暇もなく景色は暗転し、サキヤノは奈落の底へ放り出された。身体を支えていた地面は消失し、上下左右も分からない暗闇と強烈な浮遊感に、サキヤノは歯を食いしばって耐え忍ぶ。

 数分経ってようやく背中に壁を、肌に寒気を感じ、サキヤノは恐る恐る目を開いた。


 見覚えのない場所。急に眩い光が目を刺し、ぎゅっと閉じる。サキヤノは胸を押さえ、呼吸を整えてから再度目を開けた。

 天高い日が自分を照らしている。

 半身を起こして、サキヤノは寝転がっていた平原を見つめた。草木は生い茂っているが、色彩をもつ花は一本も見つからない。明るい色をもたない地面から、今度は遠くの景色に視線を移す。山々の雪化粧、澄み渡る青空、緩急のある草原と、絵に描いたような大自然が広がっている。

 しかしその自然には人工物があった。今見えるだけでも二つ。

 サキヤノはどこか既視感を覚えながら立ち上がった。

 寝ている場合ではない。とにかく行動しなければ。

 そしてなんでも良いからこの場所の手掛かりを見つけ、あわよくば人に会って元の異世界に戻る方法を聞く必要がある。夢ならまだ良いが、頬をつねったところそうではないらしい。

 悩みに悩んだサキヤノは、とりあえず一番目を惹く建物に行ってみようと平原を突き進んだ。

 周りからは虫の声も人の声も全くしない。まるで無駄を全て省いたような居心地の悪さ、独りを意識せざるを得ない静寂にサキヤノは背筋を伸ばす。

 一体何故こんなところにいるのか。ゲルトルードはどこへ行ったのだろう。ようやく頭が落ち着き、気持ちに余裕が出来たサキヤノは記憶を辿った。

 たしか——そう。

 時系列を追って、思い出してみる。

 シンルナ鉱山に入ったのは覚えている。そこでミリに会って、歩いている途中でゲルトルードやヴァルと話をした。あの時、何を話していただろうか。

 いや待て、とサキヤノは腕を組む。

 他にも何かあった気がするが、記憶に靄がかかったように思い出せない。


「……っと」


 サキヤノは足を止めた。同時に思考も停止する。


「おー、まじかぁ」


 建物までまだまだ先だというのに、道が途絶えていた。どうやら丘を登っていたらしく、回り道をしなければ着きそうにない。何故坂道を登ったのかと、サキヤノは己の行動に頭を掻く。


 ——だけど、まぁ。


 丘から見下ろす限り、歩けば着けそうではある。サキヤノは来た道を回れ右し、丘の端に沿って歩き始めた。途中小川を越え、坂を登り、自分でも不思議なくらい積極的に先を見据える。散歩みたいだ、と密かに思いながらサキヤノはスキップもした。

 やがて低木の森林に辿り着いた。

 もうすぐ建物の入り口が見えるはず。期待し、天に聳える建造物を見上げた。

 地上から蒼穹に向かって広がるように伸びる螺旋階段。それは空の途中で途切れてはいるが、建物を包む幻想的な美しさの前では全く気にならない。近付くにつれて厳かな装飾の輪郭がはっきりと浮かび上がる階段は、サキヤノの好奇心をくすぐった。

 サキヤノは眼前の森林を眺める。

 迷う心配があるが、建物という目印があるなら大丈夫だろう。空を見て行き先が分かるなら、あんまり苦労もないはずだ。

 言い聞かせるように頷き、サキヤノは力強く一歩を踏み出した。






 森の中は思ったよりも涼しかった。

 冷たい風の侵入を許さず、日差しも遮る生い茂った枝で辺りは暗いが、気温的には心地が良い。

 森の中でも相変わらず花はなく、鮮やかな色彩だけが削ぎ落とされているようだった。加えて声も聞こえない無音な森はサキヤノの恐怖を煽る。


「立派な森だ」


「この低い木が良い感じだな」


「花があったらもっと良いんだけど」


 無音にならないよう、適度に呟きながら進んでいると、頭上からがさがさと葉を漁るような音がした。

 サキヤノは肩を揺らし、


「うぉうっ!?……な、なんだ鳥か」


 音のした樹上を見ると、マスコットのような愛らしい鳥が止まっていた。

 畳んだ桃色の翼。白濁した胸。同率の頭と身体は、ふわふわの毛に包まれている。毛玉のような鳥は、強いて言うなら梟に似ていた。小鳥はメガネザルのような眼を爛々と輝かせ、小さな嘴をカチカチと鳴らす。

 一見して掌サイズの小鳥は、ぐっと喉を伸ばしてサキヤノを見下ろしていた。

 この世界の鳥だろうか。色は変わっているが、見た目は小さくて可愛らしい。

 僅かな時間癒されたサキヤノだったが、森に入った目的を思い出して首を振った。そして「寄り道はしないようにしよう」と、自身に釘を打つ。

 名残惜しみながら歩き始めると、不意に右腕に痛みを感じた。


「いた————って……」


 痛みのある右腕に視線を送るなり、腕についていたものに驚いて、サキヤノは目を見張る。

 先程の小鳥がサキヤノの二の腕に噛みついていた。

 小さな嘴だが、つねられるよりは痛みがある。森で暮らす鳥はこんなに凶暴なのか、と呑気に考えるサキヤノが小鳥に手を伸ばした瞬間、小鳥の嘴が大きく膨れ上がった。


「……!」


 次第に目玉は飛び出し、掴まっていた爪は鋭くなって、あっという間に小鳥の姿が一変した。アンバランスで異様に醜くなった小鳥に目を疑い、サキヤノは声が出ない。

 もはや化け物のような小鳥が首を振ると、腕に激痛が走った。小鳥は一瞬で血塗れになり、足元の若草も絵の具のような赤色に染まる。

 自分の腕からの出血と理解するのに時間がかかった。


「あづっ……あぁぁぁあぁ……ッ」


 血が直撃したにも関わらず、小鳥は飛び出た目玉でサキヤノを睨みながら再度噛みついた。サキヤノは慌てふためき、小鳥を掴んで引き離そうとするが、むしろ深くめり込むばかりで一向に離れない。ただ取ることを一心に、今度は思い切り小鳥を引っ張った。

 またしても激痛。全身が雷に打たれたようだった。

 サキヤノは尻餅をつき、目に涙を浮かべながら小鳥を見つめる。潰れた蛙のように地面にへばりついた小鳥は嘴を鳴らすなり、がたがたと痙攣を始めた。

 ひっと喉の奥から悲鳴が漏れる。

 次第に身体が赤く光って爆散した。幸いにも爆発の威力は小さく、小鳥のいた地面を焦がすだけだったが、散らばった血肉がサキヤノに貼り付く。それだけでなく、小鳥の眼球そのものが足元に転がった。目玉はちょうど視線が合う位置で停止し、サキヤノは吸い込まれるように目が離せなくなる。

 茶色の——琥珀の瞳。鏡で見た、自身と同じ色の瞳。


「——ゔっ」


 突然吐き気に襲われ、サキヤノは顔を背けた。口を覆い、せり上がってきた液体を少量吐き出す。残りは飲み込むが、ひぃひぃと喉の奥で鳴る音が余計煩わしくなる。口元を拭い、サキヤノは膝を抱えた。


 落ち着け。落ち着け。まだ俺は生きてる。

 死んでない、生きてるぞ。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫——。


 自分に言い聞かせて一呼吸置くと、周りの景色が浸透し、血液で濡れた草が視界に入った。尋常ではない出血量。素人ではあるが、このままでは不味いとサキヤノは悟り、咄嗟に左手で傷口を押さえた——が、すぐに手を離す。


「……」


 左手に嫌な感触。思わず止血を戸惑う程の。

 サキヤノは目を細めながら、息を呑んで傷口を観察した。

 腕の一部は小鳥に噛みちぎられていた。あるはずの皮膚や筋肉がなく、半月状に抉れている。血溜まりの中に、僅かだが露出した骨が見えた。自分の腕だと信じたくないが、二の腕の熱がサキヤノを現実に突きつける。

 サキヤノは尻餅をついたまま後退り、小鳥の亡骸に背を向けた。

 ……止血。そうだ、まずは止血をしなければいけない。

 サキヤノは歯を食い縛りながら、肘から下の服を破る。千切れかけた上着は容易に破ることができた。

 サキヤノは震える手で患部に布を巻くが、すぐに血が滲んでほとんど意味をなさなかった。止血できそうなズボンのベルトを外そうとするも、震えた片手では上手く外れない。布の隙間から絶えず出血しているのを見ながら、サキヤノは諦めて力を抜いた。

 二の腕は酷く熱い。

 不思議と痛みはないが、そのまま腕の感覚ごとなくなりそうだった。

 

「でも生きてるなんてすげぇよ……頑張ってるんだな、俺の身体……」


 こんなに出血しているのに死なないなんてどうかしてる。

 サキヤノは自傷気味に笑って、布の上から右腕を握った。ほぼ肉のない状態で圧迫止血とやらの効果があるかは分からないが、試さないよりはマシだろう。

 足に力を入れるも、すぐに尻餅。

 でも多分腰は抜けていない。歩ける。

 サキヤノは腕を押さえながら、木に背中を預けた。木を支柱に足の力だけで起き上がり、梢から覗く螺旋階段を見据えた。

 あそこに人がいれば助けてもらえるかもしれないと淡い希望を抱いて、サキヤノは歩き出した。

 無言で数メートル進むが、身体が思うように動かず、サキヤノはすぐに足を止めてしまった。細い幹に体重を預け、乱れた呼吸を整える。

 森の涼しさは最早感じなかった。むしろ擦り減った神経と怪我のせいで身体は熱い。



 休憩がてら、自身の身を守る為に考えるべきだろう。

 まず『小鳥は一匹ではないかもしれない』。

 サキヤノは最悪だが可能性の高い予想を立て、汗を拭った。

 果たしてどうすれば襲われないのか、と地面に滴る血を見ながら襲われた状況を思い出す。

 可愛いと思った。

 小鳥と目が合った。

 背中を向けた。

 と、思いつくのはこのくらい。

 全てやらないでおくべきだ、と結論づけてサキヤノは次の予想を立てる。

 

 次に『建物には人がいないのかもしれない』。

 ここまで人の姿は、ましてや人の住んでいた形跡さえなかった。建物に人が集中していると思い込んではいるが、そもそもここは人間のいない場所かもしれない。

 それなら、自分は怪我を治療できずに死ぬだろう。



 サキヤノは頭を抱えた。

 何にしろ最悪な状況に変わりはない。掌ににこびりついた赤黒い血液と、ピクリとも動かない右腕を交互に見ながらサキヤノは眉を寄せた。


 と、頭上から葉をかき分ける音がした。聞き覚えがある。

 どくん、と心臓が高鳴る。サキヤノがゆっくり見上げると、枝の隙間から先程と同じ小鳥が姿を見せていた。当然だがもう小鳥から癒しは感じなかった。目を合わせてしまった、と早速上手くいかない決意に歯軋りし、恐怖を抱えながらも、サキヤノは小鳥を睨む。

 なら目を離さなければ避けれるか?

 できるわけないだろ、とサキヤノは瞬時にファンタジーの頭を振り払う。小鳥の速さがどれくらいかも分からないのに、そして怪我もしているのに避けられるはずがない。

 小鳥を睨みつつ思考するサキヤノに、更に追い討ちをかけるかのような葉が擦れる音。


「…………嘘だろ」


 小鳥が三匹に増えた。

 首や胴体を噛まれたら死んでしまう——きっと死ぬ。

 恐怖に怯えるサキヤノの頭には、もう『逃亡』の文字しかなかった。だが背後を取られると、あっという間に死んでしまうだろう。

 少しでも抵抗すべく、小刻みに震える両足に喝を入れ、サキヤノは小鳥を睨んだまま、一歩また一歩と後ろに下がる。

 小鳥は動かない。だがサキヤノは着実に距離がとれている。

 距離が空いてホッとしたのも束の間、後ろに遣った足が何かで滑った。視線を送った地面には、腕から流れ落ちた血溜まりがある。あれは自分の血だ、と思ってすぐ派手に転倒し、サキヤノは背中を打ちつけた。


「ひぎッ……!?」


 背中より腕の怪我に響き、初めて痛みを感じる。

 声が出なくなる程の激痛にサキヤノは身体を丸めるが、慌てて身体を起こした。

 小鳥に動きはない。

 今のうちに早く立たないと、と一瞬足元を確認してから小鳥を睨んだサキヤノは顔を歪めた。

 小鳥が枝の上から距離を詰めていた。

 ひくっ、と頬が攣る。——待て、やめろ。


「くるな、くるなぁッ!!」


 サキヤノの叫びは虚しく、ついに小鳥が羽ばたいた。

 首は絶対守らなければと、サキヤノは動く左手で顔を覆った。

 左前腕。左脇腹。右脛。

 三箇所ほぼ同時につねられたような痛み。


「いっっ」


 三匹の変化は始めの一匹より圧倒的に早かった。考える時間も、昔を振り返る時間も与えないと言うことか。

 小鳥の嘴が膨れ上がり、身体により食い込む。それだけでもう痛い。

 三匹合わせて六つの目玉が、サキヤノを睨む。それだけでもう怖い。

 二度目の恐怖映像にサキヤノは心の底から絶叫した。死を覚悟し、涙ぐんだ目を瞑る。もう気味の悪い自身の怪我も、小鳥の醜悪な姿も見たくなかった。

 皮膚が肉ごと引っ張られる感覚。もう分かったから、死んでも良いから痛くしないでとサキヤノは小鳥に乞い願う。


 ——死って、意外と呆気ないよね。


 小鳥に引き千切られる直前、サキヤノの頭に声が響いた。


 ——生まれるのは、あんなに大変なのにね。


 ……その通り。

 サキヤノは他人事のように頭の声に同意するが、それが頭の声ではなく、耳を通った声だと気づく。同時に引っ張られる感覚が消えたことにも気づいた。

 細目を開ける。噛まれた三箇所に、小鳥はいなかった。だが噛まれた場所は裂かれたように血で染まり、今度は熱さよりも痛みが優る。


「でも『生』は身近で——あ、起きた」


 ぼやける視界。曖昧な輪郭で顔のパーツは見えないが、髪が長い低身長なシルエットは見覚えがある。

 そしてこの声は。


「…………ゲルトルード」


「うん?」


 サキヤノはこの不可解な世界で、唯一見覚えのある少女の名を呼んだ。

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