第二十七話 ひとつまみの違和感


 『共鳴師』は簡単に言うなら、心を読み、操る特殊な魔法使いだ。自分の思考、感情、理性とリンクさせて相手を自分に染め上げることを可能とする。

 大体は魔法を使った直後に気付かれるが、一度思考を乗っ取るだけで、すぐに動ける人はそういない。一瞬の躊躇い、迷いがあれば何度だって精神を支配することができる。

 更に言ってしまえば、ゆっくり違和感のないように共鳴できれば、そもそも魔法を使ったことさえ気付かれない。


 非の打ち所がない魔法のようにも思えるが、ゲルトルードはこの共鳴魔法が嫌いだった。

 知りたくもない相手の気持ちに動かされ、考えたくもない自分の気持ちに囚われ、言いたくもない最適な言葉を伝える。

 また、自我が強い相手だと心の声が嫌でも聞こえてしまうから、世界は本当にうるさい。

 感情の奔流に呑まれ、人格を揶揄やゆされる——そんな半端な魔法、誰が好むと言うのか。


 ゲルトルードはそう思ってしまう自分も嫌いだった。














 シンシアは腕を組み、首を斜め後ろに傾けた。

 彼女が何度か見せた怒る直前の仕草。しかしアンティークは引かず、むしろシンシアに近寄る。

 間に挟まれたゲルトルードは狼狽えながらサキヤノを見るが、彼はぼんやりと地面を眺めたまま、瞬き一つしない。一人取り残された不快感に、ゲルトルードは眉を寄せてミリを見る。

 ミリと目が合った。彼女は暫し考えた後、閃いたように大きく頷いてみせる。そして双方の沈黙をすぐに破った。


「いいよいいよ、好きにやりな。派手にやり過ぎなけりゃ良いさ」


「そこまでの至れり尽くせりは頂けないです」


 食い気味で答えるシンシア。

 ミリは「わたしが良いって言うんだよー?」と困ったように頭を掻いた。


「ホントだぜ。むしろ親切を無下にする方が頂けねぇよな」


「だから貴方は黙りなさい」


 シンシアは頑固なのだろう。

 今までの彼女を見て、ゲルトルードは思った。他の意見を排除したがる、少し厄介だが臆病なタイプの人間——こういう人には、自分の魔法がよく

 ゲルトルードは胸に手を当て、共鳴魔法で彼女の心と『共鳴』した。

 『心を聞く』のではなく『心を見る』方法で。


 魔法を使って見た心は、心象風景が鮮明に映し出される。

 ゲルトルードは魔法の効果を確認しながら、頭に流れ込んでくる景色に集中する。


 吹雪く視界に、一瞬頭が眩む。時間が経つにつれてはっきりと映る、鮮やかな銀世界にゲルトルードは息を呑んだ。

 視線を上げると見える、上空に垂れ下がった無数の氷柱。前方には鏡のように反射する氷河。足元には幾重にも繋がった巨大な雪の結晶。そして身体を覆う薄氷。

 シンシアの心は、さながら極寒の大地そのものである。感覚はないが、見るだけで凍えそうな風景——。


「————」


 シンシアと目が合い、ゲルトルードは共鳴を中断した。

 何かに勘づいたのか、シンシアは長い睫毛を伏せて天を仰ぐ。そして見上げたまま大きく息を吸い「分かった」と呟いた。


「はん?」


「……分かったわよ。勝手にしなさい」


 聞き取れなかったアンティークを一睨いちげいし、彼女はゲルトルードから顔を背ける。そのまま背中も向けて、ミリと会話を始めた。

 ゲルトルードは首を傾げながらも、再度シンシアと『共鳴』する。

 景色は変わらないが、ふと違和感を感じた。

 ピリピリと肌が痺れる感覚。何度も味わったことのある、この違和感は————何かを、怖がってる?

 ゲルトルードはハッとして、魔法を切り替えた。今度は『心を聞く』方法に。


『やっぱり、共鳴師は駄目ね。いつまで経っても慣れない』


 『心を見る』のは、理性を読む魔法。これは人の根本的な性質や思考を覗くことを可能にする。そして自分自身でも気付かないその人の『在り方』を抽象的に感じ取れる。

 シンシアという人間を知る為に使った共鳴魔法だ。

 『心を聞く』のは、感情を読む魔法。これは一時の気持ちや思いを聞くことを可能にする。


 切り替えた瞬間に聞こえたのは、きっとシンシアの本心だろう。弱気になって、ようやく聞くことができた。

 ゲルトルードは恐怖の対象が自分であると分かり、目を細めた。


「シンシアさん、大丈夫ですよ」


「……何が?」


 背中越しにシンシアが答える。

 ゲルトルードは見られていないことを知りながら、笑顔で言った。


「私は貴方に何もしませんよ」


 怖がられるのは慣れている。

 だから何を言うべきか、考える必要もない。

 シンシアは間を置いて「そう」と呟くと、ミリとの会話を再開した。


「おっ、了承ってことだな」


 黙視していたアンティークは嬉々としてシンシアの背中を叩く。無反応なシンシアに柔和な笑みを浮かべてから、ゲルトルードを見下ろすアンティーク。

 そんな笑顔もできるのかと、ゲルトルードは目を見張った。


「とりあえず、どちらかが参ったって言うまで戦おうぜ。正々堂々と、満足するまでな」


 だが、驚くゲルトルードを気にもせず、彼は開けた土地をずんずんと歩いて行った。

 たしかに今はどうでも良いかもしれない。

 お互いに力を見せつける、決闘の前なら。

 

 ゲルトルードはふと腰の杖に視線を落とす。

 これではまともに戦えないかもしれない。自分なら杖なしで魔法を使うことなんて造作もないが、アンティークには恐らく武器がある。

 自身の不利を懸念したゲルトルードは、サキヤノの短剣に視線を移した。


「サキヤノさん」


「……ん?」


「その剣、私に貸し……預けてくれませんか」


 自分とアンティークが戦うというのに、サキヤノはぼんやりと突っ立ったままで、止める素振りを見せなかった。ずっと無関心だった。

 そして今もサキヤノは目を逸らしたまま「別に良いよ」と投げやりに言う。


「……」


 なんとも言えない気持ちになり、ゲルトルードは心臓が締め付けられた。

 心を読みたくないから、彼の感情が一切解らない。何を言っても表情が変わらないから、言葉を選べない。矛盾した自分を振り払うように、ゲルトルードは勢いよくサキヤノの短剣を引き抜いた。鞘ごと留め具が外れ、ずしりとした重みがゲルトルードの手のひらを包んだ。

 ゲルトルードはゆっくりとサキヤノを見上げる。

 重りを外したが、彼の表情に変わりはない。


「あ、預かりますね」


 返答を待つことなく、ゲルトルードは踵を返した。

 こんなに他人に動揺するなんてらしくない。この瞬間だけでも忘れて、切り替えなければ。

 ゲルトルードは深呼吸をして、広い土地の端に立つ。反対側には同じように待機し、不愉快な笑みを貼りつけるアンティークがいた。


「ちょっと待って!」


 不意にゲルトルードの後ろで声が上がる。

 振り向かずとも分かる、ミリの声。

 ゲルトルードの視界にシンシアとミリ、サキヤノが中間地点まで走っていく様子が映り込む。

 足を止めたミリはまるで審判のように、ゲルトルードとアンティークを交互に見た。


「うん、じゃあ始めちゃって」


 軽い合図で決闘は始まった。


 心の中で有り難いと呟き、ゲルトルードはアンティークに向き直る。

 先手必勝だろう。ゲルトルードは予備動作なく地面を蹴り、アンティークに飛び掛かった。サキヤノから預かった短剣を握り締め、迷いなく男に切っ先を向ける。

 予想した通り、アンティークは上半身を捩って短剣を避けた。

 最低限の動作で最適な選択だった。さすがの瞬発力だと、不本意ながらゲルトルードは感心する。

 視線を忙しく動かしたアンティークが手を伸ばした。

 腕を掴む気なのが、容易に想像できる。

 きっと避けれるだろうが、念には念をと、ゲルトルードは腕を掴まれる直前に彼の心と『共鳴』した。アンティークが一瞬動きを止めたチャンスを逃さず、ゲルトルードは空中で身体を捻りながら着地した。

 静止した腕を見下ろして、アンティークは鼻を鳴らす。


「おい、ズルいだろ」


 溜め息混じりに呆れるが、笑顔は絶やさないアンティーク。

 なんて、腹の立つ——。

 ゲルトルードは感情を表に出さないよう、唇を噛んだ。

 彼と同様、これはゲルトルードも望んだ手合いではあるが、サキヤノが見ている以上、いかんせん戦いにくい。

 ゲルトルードにとってこの手合いは、何もしていないサキヤノに手を出し、一方的に嫌うアンティークに文句を言うきっかけに過ぎない。まずは勝つ必要があるが、「勝つ為に手段を選ばない卑劣な奴」とサキヤノに思われるのは嫌だった。

 魔法を使うと、どうしても卑怯に見えるだろう——実際、アンティークもズルいと口にしていた。


 あえて余裕の笑みを見せながらゲルトルードは胸に手を置き、特に詠唱もない、使い勝手の良い魔法に心を委ねる。

 なら気付かれる前に、誰にも知られない内に、魔法を使ってしまえば良いではないか。ゲルトルードは腰を落として、アンティークの心の隙間を探した。

 瞬間、眼前に灰色の閃光が煌めく。

 咄嗟に飛び退くと、自身の髪がすぱりと真一文字に断ち切られた。切断された髪の隙間から、アンティークの貼り付いた笑顔と、握られた柄の長い武器が見えた。

 ゲルトルードは距離をとって停止し、出処でどころ不明な武器を眺めた。

 刃先は短いのに、リーチが長い。柄の底から口金にかけてつたの紋様が施された、等身大の十文字槍だった。

 何故あんなものを、とゲルトルードが目を細めると、不意にアンティークが虚空に手を遣る。

 何もない空間に陽炎のような黒点が浮かび上がった。彼は手中の武器を投げ捨て、徐々に成長する黒点に手を突っ込む。

 警戒したゲルトルードは黒点ではなく十文字槍に視線を移すが、アンティークの投げたそれは煙のように霧散していた。


「……まさか」


 消える武器と謎の黒点は、ゲルトルードの頭の中である魔法と一致した。

 才能に左右される『収納』の魔法。

 理解した途端、びりっと神経に電撃が走り、視界が冴え渡った。アンティークが魔法を使うなら、長期戦は不利になると判断したゲルトルードは一気に畳み掛けようと指を絡めた。


「敬愛せし名はシニラ——」


 自慢の髪が山吹色に変化する。

 ゲルトルードは腰を落としたまま、共鳴以外に唯一使える魔法を唱えて、地を蹴った。

 まさかアンティークが魔法を使うなんて思ってもなかった。

 ゲルトルードは弱点を探る為に、本で培った知識を必死に掘り起こす。

 『収納』の魔法は非常に便利であるが、習得は容易ではない。素質がなければ芽生えず、才能がなければ扱えないのだ。

 羨ましい、とゲルトルードは羨望しながら感嘆もした。そしてアンティークを見る目が少し変わったと思う——が、それで手を抜くことはしない。


「——力を以って、地を割れっ」


 呼吸を止め、ゲルトルードは傷つけることを覚悟して、凶器を振り上げた。黒点から両刃の槍を抜き、アンティークがほとんど同じタイミングで飛び上がる。

 彼の右目。眼帯のある右半身が死角。瞬時に判断し、両手を掲げて斜め上から剣を振るうゲルトルード。それに対し、アンティークは下段から切り払った。金属音が耳を劈く。短剣と同時に弾かれた腕に強烈な負荷がかかるが、ゲルトルードは歯を食い縛って短剣を引き戻した。

 涼しい顔をしたアンティークが槍を突く。ゲルトルードは目を見開き、既に放たれた白銀の線から半身を引いて間一髪避けた。

 両足で踏ん張るが、アンティークの追撃は止まない。視界の端に影が移り、慌てて背中を反ると、目の前を剣が薙いだ。


「————ッ」


 手加減のない攻撃に冷や汗が流れる。

 地面に手をついて距離をとり、ゲルトルードは腰を落としたが。

 

「あー、やめやめ。もう分かった、満足だ、参った」


「……へっ?」


 アンティークは気の抜けた声を上げ、両刃の槍を手放した。音もなく闇に吸い込まれた槍を見ながら、ゲルトルードは首を傾げる。

 体力のない自身にとっては有り難いが、何故中途半端で止めたのだろうか。あのままだとアンティークが勝てただろうに。

 ゲルトルードはアンティークを睨んだ。


「もう良いんですか?」


「おお、試したいことはできた」


「試したいこと?」


 じわりと沸いた怒りを抑えながら、ゲルトルードはアンティークに続けて尋ねる。しかし彼はニヤリと含み笑いを浮かべて「さぁ」と濁した。


 魔法を加減しなければ良かった、とゲルトルードは眉を寄せる。

 

「そんなことより中々やるな。見直したぜ」


「貴方に見直されても、ちっとも嬉しくありません」


「んなこと言うなって、付き合ってくれてありがとな」


 「……もぅ」お礼に慣れない感情じぶんがとても嫌になるが、とりあえずこの流れで言いたいことを言わなければならない。「じゃあ、サキヤノさんを虐めるのはやめてくださいね」


「おー、まぁ努力するわ」


「お願いしますね?」


 ゲルトルードは念を押して、アンティークに背を向けた。

 きっと自分の戦い様を見ていたサキヤノに、感想が聞きたくて堪らない。ゲルトルードは子供のように走ってサキヤノに飛びついた。


「サキヤノさん、見てくださいましたか?」


 嫌だったかな。また距離が近いって言うのかな。サキヤノの次に発する言葉を色々考えながら、ゲルトルードは顔を上げる。


「………………うん」


 サキヤノは期待した言葉を何も言わず、小さく頷いた。少し悲しくなったが、ゲルトルードは気にせずサキヤノの身体を軽く抱き締める。

 そこで、サキヤノは予想外の反応を見せた。


「やめろッ!」


「きゃっ」


 聞いたこともない低い声で、ゲルトルードを押すサキヤノ。

 呆然と立ちすくみ、ゲルトルードは己の目を疑った。暴力とは無縁のサキヤノが自分を押した事実に、頭がついてこない。

 サキヤノは息を荒げてゲルトルードを見つめるが、突然身体を脱力させた。だらんと垂れ下がった手を揺らし、虚ろな瞳を宙に彷徨わせたサキヤノの口が、微かに動く。


「……なきゃ」


「え?」


 びくん、と一度サキヤノは大きく跳ねた。視線を右往左往させ、口の端から唾液を溢したサキヤノが首を傾ける。


「うん、もう良いや」


 吹っ切れたように呟くが、異常な姿に変わりはない。

 変わり果てたサキヤノに、ゲルトルードは恐怖した。それでも、心の奥に押し留めて、ゆらゆらと揺れる彼に手を伸ばす。


「…………」


「サキヤノ、さん」


 身体を前後に揺らし、サキヤノは眼球が飛び出るくらい瞼を開けた。彼の視線が、ゲルトルードの手に注がれる。

 何を持っていたか。ゲルトルードが確認する前に、サキヤノは掌から何かを奪い取った。


「きゃあっ」


 皮膚に食い込む程強く爪を立てられ、ゲルトルードは悲鳴をあげる。


「……きゃ……なきゃ……」


 尚も何かを呟き続けるサキヤノの手には、短剣が握られていた。刀身を力強く握ったからか、指の隙間から血が垂れている。

 産毛が逆立った。

 身の危険を感じながらも、ゲルトルードは彼に近付く。何が起きているのか頭は追いついていないが、きっと、サキヤノは怖がっているのだ。

 そうに決まっている。

 自分とアンティークの喧嘩を、本気で捉えてしまっただけ。

 絶対に違うだろうけど——と否定する自分を振り払って、願うように言い聞かせたゲルトルードは、サキヤノから短剣を奪ろうと手を差し出した。


「サキヤノさん、危ないです」


 サキヤノはゲルトルードに耳も貸さず、まだ血が滴る短剣を舐め回すように見ると——迷いなく、自身の胸に刃を突き刺した。


「——————ひっ」


 喉の奥から、望まぬ声が漏れ出る。

 サキヤノを怖いと思ったことのない自分が、恐怖の感情を露呈してしまった。露骨な態度が目に見えると、きっと彼は嫌がる。そう分かっていたのに、ゲルトルードは声をあげてしまった。


「……食べなきゃ」


 ようやく彼の言葉がはっきり聞こえた。

 一体何を、と疑問が頭をよぎるが、それを気にしている場合ではない。

 ゲルトルードは血液に躊躇いながらも、サキヤノに駆け寄る。しかしサキヤノはゲルトルードを一切見ず、血濡れた短剣から目を離さない。


「ッぐぇ……」


 くぐもった声と共に、サキヤノは胸から短剣を引き抜いた。ばたばたとおびただしい量の血が彼の足元に垂れ落ちる。一瞬で血溜まりを作ったサキヤノは、続け様に躊躇なく短剣を腹に刺した。

 鮮血が舞い、ゲルトルードの視界を赤く染め上げる。呼吸を忘れ、苦しくなる胸を押さえつつゲルトルードは叫んだ。


「やめて!やめてぇ!!」


 ピタリとサキヤノの動きが止まる。一瞬ほっとするゲルトルードだったが、サキヤノは唾液と血液を垂らしながらも、痙攣する手で更に短剣を突き立てた。刃はみるみる内に身体の奥に吸い込まれてゆく。

 数秒後、彼は盛大に吐血した。


「……——うっ……サ、サキヤノ、さ……」


 数回に分けて血を吐いたサキヤノは、肩で息をしている。

 衝撃的な光景に足が動かなかった。

 声も出せなくなる。

 止めなければとゲルトルードの頭の中では声が鳴り響いた。だが、感覚や神経が麻痺したかのように、身体が脳の命令を全く受け付けない。

 ひゅう。ひゅう。ひゅう。

 サキヤノの浅い呼吸がこんなにはっきりと聞こえるのに、何もできない。

 明らかにサキヤノは死にかけている。このままでは死んでしまう。分かっているけど止められない。

 咳き込み、苦しげに短剣を抜こうとしたサキヤノの手を、黒い手袋が掴んだ。


「何やってるのッッ!やめなさい!!」


 鋭い声。

 ミリと話していたはずのシンシアが、サキヤノの腕を掴んでいた。

 ゲルトルードはようやく周りを見た。

 目を覆うミリに、深刻な表情で固まるアンティークに、顔を歪めるシンシアと、全員がサキヤノを注視していた。

 シンシアは血だらけのゲルトルードに「怪我はないわよね!?」と言い放った後、サキヤノに顔を寄せる。


「馬鹿なことしないでッ」


「……はー、はー」


 サキヤノは不規則に呼吸したままシンシアを一瞥した。シンシアからゲルトルードに視線を移すと、サキヤノの焦点の合った瞳に初めて苦痛が滲む。

 ゲルトルードは声を搾り出した。


「……サ」


 名前を呼ぶ前に、サキヤノの両手が短剣から滑り落ちる。続けて膝が折れ、シンシアに倒れ掛かった。

 糸の切れた人形のように動かないサキヤノを横抱きし、シンシアは地面に寝かせた。サキヤノの胸元に耳を遣り眉を寄せると、血で汚れた顔を拭うこともせず、ミリに叫んだ。


「ミリさん、とにかく止血しないといけない。ありったけの包帯と薬。それから、いるなら回復魔法の使える人を呼んでちょうだい。全部急ぎで頼むわよ」


 ミリは頷き、震える足で走り出した。アンティークも無言でミリに続く。

 シンシアは自身の外套を脱ぐなりサキヤノの傷口を押さえた。


「詳しいことは後で聞くわ。まだこの子は生きてるから、助けることを優先するわよ」


 シンシアは冷静に言うが、ゲルトルードは冷静になれなかった。

 地面に流れる血の量が異常な、見たこともない程の大量出血。それに刺さったままの短剣が痛々しい。血の気のない顔も、見ているだけで辛い。

 ゲルトルードは変わり果てたサキヤノを、直視できなかった。


「何やってるのッ!?」


 目を逸らしたゲルトルードは肩を揺らし、恐る恐るシンシアを見る。シンシアはゲルトルードを見ていなかった。血まみれの手で額の汗を拭い、彼女はもう一度言った。


「何やってるの、手伝いなさい!貴方の、大事な人なんでしょ!」


 大事な人だからこそ、近寄れない。

 大事な人だからこそ、身体に触れられない。


 ゲルトルードは首を振り、後退りした。

 

「な、何もできないです……う、動けないんです……」


 声が震える。何ができるかなんて、すでに考えられない。


「私、初めてなんです……信じたいと思った人……サキヤノさんが、初めてで」


 何を言いたいのだろう。


「だから……こんなお姿、想像も、してなくて。もう、ええ……」


「分かった、じゃあミリさんの手伝いをしなさい」


 シンシアは一蹴し、ゲルトルードを流し見るだけで、それ以上何も言わなかった。




 心の中で何かが崩れ去る音を、ゲルトルードは聞いた。



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