第二十四話 孤独の予兆
サキヤノは夢を見ていた。
ラピズリィの屋敷に泊まってから、度々見る夢だった。
毎回内容は覚えておらず、その日の夜には見たことさえ忘れてしまう夢。寝てすぐは「また同じ夢だ」と認識出来るのに、いざ始まると夢だと忘れてしまう。
深く潜る程——夢幻や蜃気楼のように、とても曖昧で筆舌に尽くし難いもの。
だけど、酷く現実味を感じる。
サキヤノはそんな『夢』を見ていた。
サキヤノは砂漠の真ん中に立っている。建物も、植物も、生物の気配さえも見当たらない孤独な砂漠に一人で直立している。不思議と恐怖や状況への疑問はなく、サキヤノは「何か」を探して歩き回る。足が砂にもつれて転倒しようとも、砂嵐で瞳や口内が不快になろうとも、物なのか、もしくは人なのかも分からない「何か」を探す。
何をしてるんだっけ。
と、不意に我に帰ると急に喉が渇く。
次は水を探した。
歩いて、歩いて、歩いて——飢えに苦しんで、ようやく足を止める。
暑い。
暑い。暑い。
喉が干からびて、しゃがれた声が漏れる。
気持ち悪い。纏わりつく汗と空気が足取りを更に重くしていた。
喉を掻く。喉を絞める。喉を掻く。喉を絞める。
何をやっても、耐え難い渇きは消えない。
「さが——————」
自分の声なのに、自分の声じゃない気がした。ついに声を出してしまい、乾いた空気が鼻や口から侵入する。僅かな水分も奪い取り、皮膚を萎縮させ、肺を灼き焦がす。爛れた痛みと異物感にサキヤノは目を見開き、膝をついた。
呼吸を整えようとすると余計に苦痛が増す。四つん這いになったサキヤノの視界に、キラリと光る何かが入った。
そちらに視線を移すと、ナイフが転がっていた。訳もわからず拾い上げる——寸前、ちくっと違和感を感じて上体を起こす。
切ったのだろうか、指からは出血しておりサキヤノは反射的に舐めた。
すると喉の渇きは和らぎ、呼吸が楽になる。
「…………あ」
しかしそれも一瞬。サキヤノは再び悶絶するが、視線は足元のナイフに釘付けになった。
もっと血を流せば?
恐ろしい言葉がよぎるも、すぐに喉の渇きで思考を染める。
「っは、ぁ」
呼吸は不規則で、脈拍は浅い。サキヤノは胸に手を当て、死を実感する。
目を閉じ、眩む太陽の光から少しでも逃れようとする。
ぽた、と雫が垂れる音を聞いて、サキヤノは目を開けた。霞み、色や輪郭さえ曖昧になった視界に、眼下いっぱいに広がる水が映る。飲みたい、とサキヤノは手を伸ばすが足に力が入らずに膝から崩れ落ちた。
水はじわじわと砂に吸い込まれる。
もったいない——伸ばした手を見て、サキヤノは動きを止めた。手先には、冷たい感触と共に水が付いていた。サキヤノは食い入るように見つめ、指ごと水を舐める。
喉の渇きが、水を舐める程和らいでゆく。
「ぶふっ」
咳き込むと、またしても水が口から飛び出た。
サキヤノは目を疑った。
血だ。
血が己の手を赤く染めている。
一体どこで怪我を。水は空からではとサキヤノは見上げるが、空には雲が一つもなかった。次にサキヤノは両手を眺める。片手には肉塊のついた血塗れのナイフが握られていた。おそるおそる自分の身体に視線を落とす。
胸から下腹部にかけて、血が溢れていた。血だけではなく、臓器も今にも零れ落ちそうだった。傷を認識して、全身がどくどくと脈打つが、それよりも。
サキヤノは、身体から溢れる血液に目を奪われた。
喉が、渇いた。
サキヤノは、噴水のように湧き出る血を掬い上げ、喉に流し込む。
「……あぁ」
潤う。
生き返る。
そこからはもう止まらなかった。自分で自分の血液と内臓を啜り、ひたすらに喉の渇きを満たした。
「足りない、まだ、全然足りない……ッ」
血走った目で、ナイフを自分の身体に突き立てる。何度も何度も刺しては抉る。意識が飛びそうになり、口から吐血するがナイフ動かす手は止まらない。
刺して、刺して、刺して、刺して、刺して、刺して。
「痛っ、あぁ、ははは!ひぐっ、あはは、ああッ、はははははははははははッ、ははははははははは!!」
自分の狂った笑い声が、鼓膜を叩く。
「痛いッ、嫌だぁ!」
そこでいつも目が覚める——覚めているはずだ。
外傷はないもの、夢の生々しい痛みと光景を思い出し、サキヤノは叫んだ口を覆った。吐きそうになるのを堪え、乱れた呼吸を整える。
周りを見ると、揺れる車内でゲルトルードが寝息を立てていた。ゲルトルードの側には、茶色い羽毛に包まって上下する物体——ヴァレリーが眠っている。いつ馬車を移動してきたのだろうか。
荷台の窓を見上げると、まだ外は暗闇だった。
気分は最悪で、二度寝は出来そうにない。
数分後馬車が止まり、シンシアと同じような新緑色の外套を羽織った男性が扉を開けた。おそらく行商人だろう。
「お、兄ちゃん早起きだねぇ」
「ぇ、え、まあ」
すん、と鼻腔に黄砂の匂いが。夢の光景がフラッシュバックし、サキヤノは男性の胸に倒れ込んだ。視界がぼやけ、喉元まで迫り上がってくる。慌てる男性から顔を逸らしてどうにか飲み込み、胸を押さえる。
「酔ったのか……っとぉ、あんためちゃくちゃ顔色悪いな。この馬車、乗り心地最悪だったか?」
サキヤノはなんとか笑顔を作り「大丈夫です」と答えた。
この夢を鮮明に覚えているのは初めてだった。
何回も見ているのは分かっているのに、記憶は今の一回分しかない。気味が悪くて、気分も体調も最悪だった。
「なんなんだよ、夢ばっか見て……」
夢に影響させるなんて、とサキヤノは頭を無理やり振り払う。夢見が悪いことは初めてではないのに、心の底から嫌悪感が湧き上がった。
「あの」サキヤノは深呼吸して尋ねた。「ここはもうアルカナ王国なんですか?」
恰幅の良い男性は大きく頷く。
「もう国境は越えたよ。あと数時間もかからず着く予定だ」
そうなんですね。
答えて、サキヤノはふと大切なことを思い出した。
「入国の時に許可とかっていらないんですか?」
「あー」商人は顎を撫でる。「あんた不法入国しちったな」
「なん……」
サキヤノは絶句した。
寝惚けた頭が急に冴える。気分の悪さも吹き飛んで、心臓が焦りで脈打つ。
「くくっ」狼狽するサキヤノを見て、男性はすぐに吹き出した。「冗談だ、冗談!」
「……」
「焦っただろ?って、あんたなんて顔してんだ」
タチの悪い冗談だと思ったサキヤノは、商人の鋭い指摘で顰め面をしていたことに気づく。
いつもみたいに我慢しきれないのは、夢のせいだろうか。少し疲れているのかもしれない。
サキヤノは夢への怒りを抑えながら顔を隠した。
「すみません、つい」
「いんや、今のは俺が悪かったよ。それより聖都の騎士さん、一大事だぞ」
「何かあったんですか?」
商人の男性は、にかっと歯を見せて笑う。
「アルカナまでの道が塞がれてるんだ」
「……?」
男性は首を傾げるサキヤノに手招きし、
「そーだよな、知らないよな。とりあえずこっち来てみろ」
と言って外に連れ出す。
見ると、先頭の馬車の前に巨大な岩がどっしりと構えていた。腕を組んで難しい顔をするシンシアに詳しく話を聞くと、迂回路はない為、どける作業で一日はかかるそうだ。
「はー、最っ悪。まさか今日中に日を拝めないとは思わなかったわ」
シンシアは腕を組み、細い指で二の腕を規則的に叩いていた。眉を寄せ、淡麗な顔立ちを歪めてもいる。
誰から見ても分かる。
明らかに彼女は苛立っていた。
刺激しないようにとサキヤノは去ろうとするが、シンシアに肩を掴まれて足を止める。ゆっくり振り向くと、彼女は企んだような不敵な笑みを浮かべた。
「サキヤノ。一緒に行きましょ」
「どこへ——って、待ってください!?」
最も切り拓かれた道を外れ、サキヤノはシンシアに別の洞穴まで腕を引かれた。馬車からはあまり離れておらず、お互いに目視できる場所ではある。
理由も言わずに連れ出したシンシアが振り向いた。馬車は見えるがこれは二人きりでは、と息を呑むサキヤノに向けてシンシアは腕を伸ばす。彼女はそのままサキヤノを壁際にまで押しやると、後ろの壁に掌を勢いよく突いた。
「聞きたいことがあるの」近距離でシンシアが囁く。「貴方、ゲルトルードの正体を知ってるの?」
美麗な顔が迫り、サキヤノは本能的に顔を逸らした。視線だけをシンシアに送ろうとするも、ほぼゼロ距離で目が合うのでとてもじゃないが出来なかった。
「無視しないで」
しかしシンシアはサキヤノに気を遣う、なんてことはせず、むしろ更に顔を近づけた。
綺麗さと格好良さを兼ね揃えた桜色の瞳、拗ねるように突き出した薄紅の唇、そして仄かに香る上品な匂い。シンシアの全てに戸惑い、足が震えた。
「ちょっと、勅使さん」
サキヤノは身体を捻り、シンシアと壁の間から抜け出した。今度は緊張しない距離をとって、自分から話を続ける。
「あ、あの、えっと、正体っていうのは?」
「彼女、普通の人じゃないでしょう。貴方に話さないはずないと思うんだけど、何か聞いてない?」
シンシアは微妙な距離に一瞬眉を上げるが、それ以上は表情を崩さなかった。
シンシアが求めているのは、ゲルトルードが魔法使い、もしくは共鳴師だという情報だろう。質問してどうするかは知らないが、果たしてゲルトルードの許可なく話して良いのだろうか。
共鳴師は珍しい魔法使い、とゲルトルードは言っていた。
サキヤノは、彼女と初めて出会った檻を思い出す。
もし捕まっていた理由がその『共鳴師』ならば、自分の口から軽々言って良いものではない。むしろ逸らすべき話題だろう。ゲルトルードが教えてくれたのはきっと、自分を信頼したから。
全て憶測に過ぎないが、サキヤノは想像上でもゲルトルードを裏切る行為はしたくなかった。どう表現すべきか、とサキヤノは言葉を選ぶ。
「魔法は使えるらしいですね」
「ふぅん、どんな?」
「それは俺の口からはなんとも……本人に聞くのが一番良いと思うんですが、どうですか」
「そうね。もう良いわ、ありがと」
あっさりと引き下がるシンシア。
呆気にとられるサキヤノを置いて、彼女は回れ右をするも「きゃっ」と可愛らしい声をあげて尻餅をつく。そんなシンシアの目の前には女性がいた。
「なんだぁ、珍しい。逢引きか?」
サキヤノとシンシアを見比べ、にやりと口角を上げる。
女性の服はいささかサキヤノには刺激の強いものだった。上半身のはだけた真紅のつなぎに黒のタンクトップと、サキヤノの見慣れた『作業着』に近い。肩に揃えたボブカットと丸い瞳は薔薇色で、暗闇でも映えていた。左手には見るからに重そうなハンマーを、右手には顔の二倍はある発光した鉱物——石英を抱えている。
女性は喉から笑いを漏らし、
「なはは、そんなに見ないでくれよ!確かにこの身体はお子様にはちょいと刺激的かもしれんが、タダでは見せられんなあ?」
「し、失礼しました。あの、癖で、その……」
サキヤノは胸元を寄せる女性から顔を背けた。
起き上がるシンシアが
見ちゃってすみません、と心の中で呟く。
「逢引きじゃありません」
髪の毛を払い、シンシアは女性を見据えた。
女性はシンシアに睨まれながら馬車とサキヤノと、それから道を塞ぐ岩を順に見て、口笛を鳴らす。
「アンタ達、困ってんのかい」
「いえ、別に。そもそも貴方は誰なんです?」
抱えていた鉱物を下ろし、親指を立てる女性。
「わたしはここに住んでるものでね。良かったら、みんなまとめてうちに来な」
訝しむシンシアを気にも留めず、彼女は胸を張って言った。
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