第十八話 自分を守る決断
腕の中にはもふもふの抱き枕。
サキヤノを包むのは、ふわふわの布団。
夢心地で枕に顔を埋め、サキヤノはまさに至福の時を迎えていた。
何か大切なことをしていた気がするが、そんなのどうだって良い。今この瞬間の幸せをじっくりじっくり噛み締めるのが、自分が一番すべきことである。
「最っっ高すぎる……!」
抱き枕に鼻を擦り付けた時、バタバタバタ、と勢いよく階段を駆け上がる音が。
分かった、母さんだ。
いつものごとく、学校に行けって起こしに来たに違いない。でも、今日は休みなんだよ母さん。休みの日に限って少し早く起こすの、ちょっと困るんだよ。
サキヤノは布団の端を掴み、僅かながら抵抗するが——。
「おっはよーございます!!朝ですよーっ!!」
「……ぅう」
抵抗虚しく、無情にも布団は剥ぎ取られた。
癒しが奪われ、サキヤノは小さな抱き枕に身を寄せる。
「朝ー!朝ですよーっ」
首が振られる強さで腕を揺さぶられ、サキヤノは身体の向きを変えた。
「もー、起きるってば。母さ——」
ふと、いつもの声と違うことに気付く。
それから寝惚け眼に映る見覚えのない場所。黒服の相手をそっと眺めると、翡翠の瞳と、目が合った。
「……」
「……」
サキヤノは口元を拭い、自然な動きで身体を起こす。
「おはよう、ゲルトルード」
「はい、おはようございます清斗さん」
そこで一瞬暗転し、サキヤノは目をぎゅっと閉じた。
再度目を開けると、見知らぬ景色が視界に飛び込んできた。青白く光る天井だ。辺りを見渡す。ディックとカスカータがいるだけで、ゲルトルードはいない。
布団や抱き枕も、ない。
ただ左手にはディックの手が握られていた。
「おはようサキヤノ」
「ごめんごめんサキ君、うっかりしてたよ。ここ、聖都の騎士しか入れなかったんだった」
「……いえ、ありがとうございます」
「アナタなんか見たわね?」
「えっ」
「笑顔がぎこちないけど」
カスカータはサキヤノの腕に身体を絡め、怪しげに口角を上げた。
「ここに入る時、たまに自分が今求めてる夢を見るの」カスカータは耳元で囁く。
「夢、ですか」
「ええ、夢。特にここに来たのが初めてのサキヤノはきっと見たんじゃないかしら」
自分が見たい夢、とサキヤノは先程の癒しを思い浮かべる。
至福の枕に憩いの布団、母親のご機嫌な足音にゲルトルードの声——。
「……」
「なに遠い目してんのよ」
「すみません」
あれが自分の願望なのか。
自身より歳下であろう少女に本名を呼ばせ、母親と被らせるなんて何と無配慮で失礼なのだろう。
サキヤノは貧弱な夢から目を逸らし「見たかもしれないですが、見てないかもしれないです」と曖昧に首を振った。
カスカータは一瞬冷めた視線をサキヤノに送るが、特に指摘することなく、艶やかな髪を弄り始める。興味を失ったのか、ディックに顎をしゃくった。
カスカータの合図を受け、ディックは両肩を竦めた。
「ま、まぁ夢を見ることは悪いことじゃないから——えー、とりあえずここは聖都の一部の騎士しか入れない、特別な部屋です。一応『
夢の話を掘り返すのが面倒くさい。そう言いたげに、ディックは説明口調で続けた。
「僕やカスカータみたいに複数の部隊に所属していて、かつ隊員の中でも立場が高い人しか入れません。今の君みたいに特例で入れる人もいるけど」
サキヤノは控えめに驚く。
「はは、まあなんでも豪華であれば良いってわけじゃないさ。こういう質素な部屋が好きな人もいるんだよ」
サキヤノは表情を変えず、声も上げなかったがディックは表情の変化を見逃さなかった。
「カスカータ?」
「あら。遠回しにケチつけておいて、なにか文句でも?」
「文句なら、ずっと君にあるんだけどね……」
二人は好戦的な眼差しで火花を散らした。
やっぱり喧嘩腰じゃないか、とサキヤノは不可思議な関係に歯噛みしつつ、
「あ……のぉ!俺のせいですみません、ディックさんのお話聞かせていただけませんか!」
裏返った声で必死にお願いする。
サキヤノはこの短い期間で、なんとなく二人が噛み合わない理由が分かった気がした。とりあえず二人の間に誰かが介入すれば、口喧嘩が起こることはない。
自分だと本格的な口論になったら止められないのだが、とサキヤノは一人自虐する。
二人はサキヤノの予想通り冷めたのか、溜め息以後言い合いを止めた。視線だけを交わし、鬱々とディックが口を開く。
「まぁ良いや。カスカータ、ゲルトルード連れてきて」
「えっ」カスカータは心底意外な声を出した。今の今まで言い合っていた相手に?——そんな呆れた視線をカスカータは送る。「……アンタに指図されるなんて」
偉くなったものね、と吐き捨てるが、カスカータは言われるがままに部屋から出て行った。
「仲良くないんですね」
「もちろん」
サキヤノは喉元まで出た言葉を呑み込めなかった。
訂正する間もなく、ディックがその独り言を拾い上げる。サキヤノは口元を覆って弁明の意を示すが、彼は特に気にする様子もなく頬杖をついた。
「根本的に……て言うか、性格が噛み合わないんだよ。彼女が悪い奴ではないのは分かるんだけど、こればっかりは、ね?どうしても仲良くするのが難しいんだよ」
懐古を含む視線をサキヤノに送り、ディックは姿勢を崩す。口元を緩め、
「はは、なんでもない。つい愚痴を」
と、ここ一番の柔らかな笑みで囁くディック。
何か複雑な事情でもあるのだろうか。サキヤノは語彙力のなさを恨みながら、傷つけないように、踏み込み過ぎないように、言葉を選ぼうとする。
「あ——……へぶっ!?」
「戻ったわよディック!!」
突如、サキヤノの声が透明感のある大声に掻き消された。声と共に飛んできた何かが後頭部に直撃し、前のめりに腰を折る。
「あら、ごめんなさい……って、サキヤノ?」
扉から飛び込んできたカスカータは、目の前で突っ伏すサキヤノに眉を寄せた。
「アナタなんでまだ入り口から動いてないの?こうやって急に誰かが来た時危ないわよ」
「……仰る通りです。すみません」
強打した鼻を押さえたサキヤノを見兼ねて、カスカータはサキヤノの腕を引っ張った。サキヤノの身体は持ち上げられ、直立の姿勢になる。
あの巨大な武器を振り回すだけあり、凄い力だ。一般男性を片手で軽々引き上げるなんて、とサキヤノは自分には出来ない芸当を容易にして見せたカスカータに、羨望の眼差しを向ける。
「何かしら。何か文句でも?」
「以後気を付けます」
カスカータは肩を竦め、サキヤノの額を軽く小突いた。
「早く席につきなさい。ほら、ゲルトルードも」
「はい!」
元気な返事と共に後ろからゲルトルードが顔を覗かせる。サキヤノも笑顔を返そうとするが、それよりも早くゲルトルードがサキヤノの胸に飛び込んできた。
あまりの勢いに踏ん張ることが出来ず、今度は椅子を巻き込んで派手に転倒する。
「良かったぁ。サキヤノさん、目が覚めたんですね!私心配で心配で……大丈夫ですか?どこか痛いところはありませんか?気休め程度でもよろしければ、私の魔法で痛みなんて吹き飛ばしますが……」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
今の衝撃で打ちつけた臀部と背中が酷く痛んだが、愛想笑いで誤魔化す。サキヤノはゲルトルードを起こし、背中を押さえながら立ち上がった。
「背中?背中が痛いんですか?」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「……でも——」
「————あー、こほん」
誰かの咳払いでゲルトルードが口を噤む。サキヤノもドキッとして、声の主に顔を向けた。
「分かったから早く進めさせてほしいんだけど。僕、そんなに暇じゃないんだから」
呆れた様子のディックは溜め息を吐く。
カスカータも肩を竦めた後、サキヤノ達を横目に乱れた机と椅子を整えた。その時に少し模様替えをし、四人席を作ったカスカータは鼻を鳴らす。
「ほら、だから言ったじゃない。早くしなさい」
「申し訳ないです……」
「すみません」
サキヤノとゲルトルードはほぼ同時に謝罪をし、カスカータの用意した椅子に座った。
白のウィンザーチェアは硬そうに見えたが、座ってみると座板だけが柔らかい不思議なものだった。座り心地に感嘆しながら、サキヤノは「じゃ、本題」と呟くディックを見上げる。
「サキ君達とだとすぐ話逸れるから、退屈しないけど。僕以外のお偉いさんには気を付けてね」
「うっ……すみません」
そう前置きし、ディックはにっこり微笑んだ。
「じゃあ始めようか。叛逆軍を捕まえるきっかけをくれたサキ君達に……異界人の君にとっても良い提案をしたいんだけど」
ディックはそう言ってクリーム色の書類を二枚、机の中から取り出した。
「まず、僕は君達を正式に騎士団として推薦したい。保護部隊ではなく、騎士団に。聖都の騎士なら、あまり浸透していない保護部隊員よりも身が守れる肩書きだと思わない?」
勅使兼騎士とか強そう!とディックは付け加える。
サキヤノはご丁寧に『異界人用』と足されている表題を読み上げた。
「『騎士団入団試験合格通知書』、ですか?」
試験を受けた覚えのないサキヤノは首を傾げて、ディックの顔色を窺った。彼は意味深な笑みを貼り付けたまま「そそ」と頷く。
「これの右下に確認しました、って意味のサインをしてくれたら君達は騎士団の一員になれるんだよ」
サキヤノは再び用紙に目を移した。書いてある内容は、少し前に見た大学の合格通知書に近い。名前も似ていることから、おそらくそれと同類のものだろう。ただ、用紙の下の方に分かりやすく『ぷらす!』と手書きされているのと、署名を求められているのが気になった。ゲルトルードの紙も覗くと、同じように下方に手書きの文字が並んでいた。
「あー、別に変なこと書いてないよ!君達は勅使を担っているから、変な責任や仕事を押し付けられないように書いてあるだけ。サキ君の通知書は、同じ異界人に見てもらうからその文字で書いてあるだけ」
目線の低い二人が下の文章に釘付けになっているのを確信して、ディックは頭を掻く。
「そうなんですね」と言いながら、サキヤノは用紙から目を離せなかった。読み終え、不利な点がないことには納得した。が、果たしてこんなにとんとん拍子でサクサクと決まって良いのだろうか——と、不遇が連続したサキヤノは唸る。
印刷された『ご署名』の文字を指でなぞり、サキヤノは頭を抱えた。
悪い話ではないはずだ。それは分かっている。しかし、今決めるには早い気もする。これに署名をすれば、自分は騎士団の一員という安心の肩書きが出来るだけでなく、この世界で生き抜くための仕事には困らないだろう。
葛藤するサキヤノは自宅を思い出していた。インターホンが鳴り、扉を開けた途端に身体を滑り込ませ——玄関まで侵入するや否、巧みな言葉でこちらの心を揺さぶり、上手い例えを持ち出して購入意欲を唆らせる訪問販売員を。優柔不断な自分が断れる筈もなく、結局高額な買い物をした事実と母の怒り顔を。
差し出されたメリットを易々と手放すのも勿体ないが、すぐに書くメリットもない気がする。
「ちなみに今ここで書いてくれないと交渉決裂ね」
「こ……っ!?」
サキヤノは言葉を失った。
これで決めるしかなくなり、今結論を出す必要がある。サキヤノは用紙を見つめ、黙り込んだ。
「あんまり意地悪しちゃダメよ」
カスカータがすかさず助け舟を出すが、それで黙っているディックではなかった。
「でもサキ君は聖都の『勅使』なんでしょ?なら判断は早いほうが良い。いざと言う時に、大切な時に判断を委ねられるのはサキ君なんだよ。守護をするカスカータじゃなくて、異界人のサキ君の言葉が、聖王の意思になる時だってあるかもしれない」
「言いたいことは分かるワ」
早口で捲し立てるディックに一言だけ返し、カスカータはサキヤノを見据えた。その視線とディックの言葉は、嫌でもサキヤノに刺さる。
そんなこと言われてもあれは自分の意思ではないと、弱い自分はまず言い訳を考えたが、すぐにそんな考えは捨てた。
一度は感謝したのに恩を仇で返すつもりか、清斗——いや、サキヤノ。
「異界人は弱いんだから、別に断られても僕らは痛くも痒くもない」
「そうね、私達には関係ないもの」
サキヤノは唇を噛む。
「サキ君は自分で茨の道を進むって決めたんだろ。優位な立場を勧めることしか……僕らには出来ないから、判断はサキ君がするしかない」
だよねサキ君、とディックはサキヤノの肩に手を置いた。サキヤノは顔を上げ、真剣な眼差しのディックと向き合う。その目を見て、サキヤノはもう何も言えなくなった。
「そうです、仰る通りです。だけどこんな俺でも、決断は出来ますよね……」
サキヤノは置かれたペンを手に取り、半ば自棄になって「桜」に抹消線を引いた後に「サキヤノ・パルマコン」と署名した。
「サキヤノさんも騎士になるのね、思った通りだわ。良かった」
「さすがサキ君」
「中々やるじゃない、見直したワ」
三人が口々に褒め、サキヤノは照れ笑いを浮かべる——が、まんまとのせられた気もした。
ディックが言ってることは全て正論で、サキヤノの心に響いた。それで良いじゃないか、と言い聞かせサキヤノは目を細める。
「ディック、その前に入団試験を受けてもらわないと」
「えっ」
「えっ、じゃないわよ。それに『合格通知書』って書いてあるじゃない。なら試験受けないとおかしいでしょ」
至極当然のように話すカスカータは首を傾げた。
「まあそうだよね」ディックが続ける。「でもサキ君にぴったりの試験だと思うよ、簡単だし」
「やっぱり囮が試験ってわけじゃないんですね」
「ははっ、あんなの試験に出来るわけないじゃないか!試験と言っても……勅使とは全く違って騎士団として受けた依頼だから、気楽に自分のペースでやってくれれば良いよ」
難しい。簡単。どちらにでも解釈出来る「あんなの」に引っ掛かりつつサキヤノは首肯する。
「ちなみにどんなご依頼なんですか!?」
気合充分なゲルトルードは目を輝かせた。食い気味に尋ね、まだ内容を聞いていないというのに「楽しみですね、サキヤノさんっ」と
「か……ぁなり楽しみだよね」
可愛い、と素直に言えなかった。
誤魔化しながらサキヤノは同意する。
「そんなに良いもんでもないけどね」
ディックは無邪気なゲルトルードに微笑みながら、サキヤノ達に地図を渡した。
「はい。これ」
「ありがとうございます!」
ゲルトルードは躊躇わず地図を広げる。右下辺りに赤丸があり、丸内には「そうじ」と赤ペンで書かれていた。サキヤノは見慣れた文字に納得し、ゲルトルードは初見の文字に唸る。
「掃除が試験なんですか?」
うん、と頷くディック。
「受けている依頼の中で最も安全で最も簡単。正直サキ君が騎士団に入るって言わなかったら断ってたような依頼だよ。ね、カスカータ」
「ええ、わざわざアナタの為に私が引き受けたのよ。感謝なさい」
私が、を強調しながら、カスカータは器用に片目を閉じた。
「何から何まで本当にありがとうございます」
「ホント幸せ者ね」
あはは、と起きる笑いの中、ゲルトルードは一人でまだ難しい顔をしていた。
「どうしたのゲルトルード」
サキヤノが声を掛けると、ゲルトルードは地図を指差して、
「これで掃除……と読むんですね。サキヤノさん達の使う言葉って難しいです」
と、珍しく溜め息を吐いた。
「意外と簡単だから今度教えてあげようか?」
「本当ですか!?」ゲルトルードは満開の笑顔を浮かべるが、すぐに眉を下げる。「でも、きっとサキヤノさんが私達の文字に慣れるので大丈夫です」
「俺が?……分かるかな」
「私が教えてさしあげます!」
立場が逆転すると、ゲルトルードはサキヤノの手を握った。柔らかい女性の手に包まれ、サキヤノは「ひぅ」と謎の奇声を発してのけぞる。
「これでサキヤノさんと文通、出来ますね」
ゲルトルードはサキヤノの手を上下にぶんぶん振り、声を弾ませた。
「文通は離れてる人とやるものじゃないかな」
「……!じゃあサキヤノさんは私から離れないということですか?」
ゲルトルードの握力が少し強まる。
なんて前向きな、とサキヤノは苦笑して両手をそっと引き抜いた。心臓がどきどきしているのは、きっと緊張のせいだろう。緊張に、違いない。
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