第十五話 妥当な犠牲
サキヤノが作戦を決行する二時間前——。
煉瓦の屋根に座り込み、賑やかな市場を見下ろす人物がいた。風に揺れる明るい青髪を気にもせず、街の喧騒に耳を傾けていた女性はそっと目を閉じる。
——カスカータは悩んでいた。
自身が異界人に手を貸すか、貸さないか。
短気な自分が手を貸すと、また救えないのではないかと心臓が締め付けられる。一生忘れられない異界人の名前が、カスカータの一歩目を縛り付けていた。
カスカータは、ディックの言葉を思い出す。
『役に立つ』と『役に立ちたい』は違う……ね。
ディックに腹が立って飛び出したは良いもの、このままではサキヤノが危険に飛び込んでしまうだろう。だが、一生懸命考えた彼に喧嘩を売ったのは自分だったため、いかんせん帰りにくい。
……別に、私は心配してるだけよ。
カスカータは髪を掻き上げ、膝に顔を埋める。溜め息を吐きながら、彼女は自分の性格を悔やんだ。
危ないから参加しないで、って一言声を掛けるだけで全然違うのに。出しゃばらないで、なんて言われたら誰でも嫌なはずなのに。
暇つぶしに、とんとんとん、と屋根瓦を叩く。風に乗って聞こえる街の音をハミングし、カスカータは瞼を開いた。
「……悩んでても仕方ないわね」
一人呟き、カスカータは街中に飛び降りた。
元帝国騎士のカスカータは聖都の人々からしたら、英雄に近い存在だ。異界人保護部隊としてではなく、聖都の騎士としての名が知れ渡っているため、彼女を慕う人間は多い。
「おや、カスカータじゃない」
「カスカータ、いつもありがとうね」
「今日も見回り?」
だから、すれ違うたびにこうやって話し掛けられるのだ。カスカータは、曇りのない笑顔と共に放たれるお礼が好きだった。
なのに、あの異界人は。
声を掛けられ、手を振りながら、カスカータはサキヤノの笑顔を思い出す。下がった眉、斜め下に向く瞳、片頬だけ引き攣らせた口角、添え物のように呟く「ありがとう」。
——まるで、まるで忘れられないアイツみたいだった。
カスカータは、自分でも怒りっぽいと自覚している。だが、サキヤノの人を裏切る行為は、誰でも怒るだろう。わざわざ異界人を助けられなかった、ってせっかく話したのに、彼はそれを無視してきた。
もしかして、言葉足らずだったかしら。
でもまさか、と首を振りカスカータは行きつけの武器屋の前で足を止めた。
一応、対叛逆軍には参加する予定である。心許ない武器の手入れや、足りない備品を買い足す良い機会かもしれない。
「おっ、カスカータじゃないか。いらっしゃい、今日も弾薬をお求めで?」
客の対応を終えた店主が、カスカータに白い歯を見せた。
しばらく来ていないというのに、自分がよく買う備品の名を挙げられカスカータは少し気分が良くなった。
「しばらく、来ていなかったけどよく覚えてるわね。感心だワ」
「光栄でさぁ」たくましい店主は、笑顔を崩さずに硬貨を片付ける。「とっておきのもの、ありますんでね」
カスカータは自身の腰にそっと触れた。このポケットには、魔法で小さくした愛用の武器が入っている。武器を撫で、カスカータは「いただくワ」といつものように、店主と短いやり取りを済ませた。
ここの武器屋は、聖都で一番栄えている大通りにありながら、マニアックなものを揃えている。そのせいで一部の客層しか集まらないため、収入は少ないだろう。だが、あまり汎用性のない自分の武器にはうってつけの武器屋なので、少々値段が高くても買ってしまう魅力がある。
「ありがと」
カスカータは会計を済ませ、買った弾を弾薬箱に仕舞った。
それから魔具店と、保護部隊
——準備は良い。
気持ちもそこそこ落ち着いて、今ならサキヤノに素直な言葉を話せそうだ。
冷静になったカスカータは、路地裏の壁を利用してまた屋根に飛び乗った。歩くよりこちらの方が、臨時のアジトへは遥かに近道だと知っているからだ。
屋根伝いに、臨時のアジトへ足を進める。
サキヤノに会ったら、何を言おう。思い切って、心配だから参加しないでとか。
ふと、声が聞こえた。カスカータ、と自分の名前を呼ぶ小さな声。立ち止まり、耳を澄ます。
「カスカータ……さんっ、カスカータさん!」
——この声は。
「ゲルトルード!?」
カスカータがいる家の下に、壁に手をついて胸を押さえるゲルトルードがいた。
「……カスカータ、さん。ようやく、見つけたわ」
走った後なのか、呼吸が早いゲルトルード。汗で張り付いた髪を、赤く染まった頬から引き剥がして「カスカータさん」と彼女はもう一度名前を呼んだ。
「どうしたの、アナタ。そんなに走って」
作戦は中止なのかとカスカータは心の奥で一息ついていたが、すぐにそんなはずはないと安易な考えを取り払う。
ゲルトルードの側に飛び降り、カスカータは彼女を見下ろした。ゲルトルードの丸い翡翠色の瞳に、カスカータが映し出される。
「カスカータさんを探してたんです。早く、行かないと。間に合わないんです」
「待って。まさかとは思うけど、もう叛逆軍と接触したの?」
「……いえ、まだ」
もう、そんなに時間が経っていたのか。カスカータは時間を確認し、正午過ぎだと分かると目を見張った。
「嘘、もうこんな時間?」
ゲルトルードの深刻そうな表情で、不安に駆られた。
「ゲルトルード、ありがと。今からすぐに戻って、ディック達に作戦を——」
「ディックさん達はもう準備を終えられました。なので、走りながら私が話します!」
歯噛みし、カスカータは自分の行動が愚かで無駄なものだと自覚した。初動が遅れるだけで、その後の戦況も変わることを、実戦経験豊富なカスカータは知っている。
——もし私のせいで
カスカータの胸には、救えなかった××××とサキヤノがいつのまにか重なっていた。
「助かるワ、急ぎましょう」
そう言ってカスカータはゲルトルードを軽々と横抱きする。
「へぁ!?カスカータさん!?」
「こっちの方が早く着くワ!それに、話しやすい……でしょう!?」
まだ手遅れでないことを祈って、跳躍し屋根に飛び移るとカスカータは走り出した。
*****
痛みは感じない。だが、違和感はある。
サキヤノは徐に目を開け、現実を逃避しようとした。
「僕達叛逆軍はー、異界人が嫌いなんだよー」
そんなサキヤノの頭上でウォンの軽快な言葉が飛ぶ。
「だから、保護したら殺すんだよね、うん!仲間にしちゃえばこっちのもんだし?叛逆軍ってグループでの中で仲間割れしたと思えば、仕方ないと思うんだよね」
嫌でも現実に引き戻される異世界の用語。
サキヤノの頭に靴を擦り付け、ウォンは「あっはっはっ!」と愉快な笑い声をあげた。
泣きたくなったサキヤノは、ぎゅっと瞼を閉じる。
結局、逃げるのに失敗したサキヤノは室内に引きずり込まれた。胸に刺さった異物は特に抜かれず、止血もされない。僅かに指が動く程度で全身脱力しており、目の前に広がる血の海から逃れることは出来なかった。息が出来るだけ、何故か痛みを感じないだけ幸いだと言える。
自分の血を見るというのは、不思議な感覚だった。
現実味は全くないが、確かに身体から血液が失われていくのは分かる。
「……ボス」
「ん?」
サキヤノの頭から靴を退け、ウォンは遠くのソファーに座った。
別にどうでも良いと思いながらも、サキヤノはウォンとケイシーの会話を薄目を開けて聞く。
「ケイシー、また邪魔するのか?」
不満げにウォンは腕を組む。
「いえ。邪魔なんてそんな」
ケイシーは両手を振り、サキヤノを見下ろした。目が合うが、彼は何も言わない。
「……もし、噂が本当ならコイツはすごく大切じゃないですか?」
「噂は所詮噂でしょ?僕はそういうの、信じないよ。ケイシーはすごく信じてるよね、それ」
「……はい。神託者に、聞いた話ですから」
やっとケイシーは俺から視線を外した。
「信じるなぁ」今度は立ち上がったウォンとサキヤノの目が合った。「あれっ」
「まだ大丈夫そうじゃん!!」
まるで玩具を見つけた子供のように、目を輝かせてウォンはサキヤノの顔面を蹴り上げた。
「————!」
少し動いた瞬間、痛みが波のように押し寄せてきて、堪らずサキヤノは呻いた。
「……なんだ、つまんないな。もうさっさと殺しちゃおうか」
ウォンは片耳を塞ぎ、空いた手で部屋の奥の長槍を手にした。サキヤノの背に刺さっているものと、似た形状をした凶器だ。
ウォンがうんざりと武器を構えて、サキヤノに一歩、また一歩と距離を詰める。
今生きているのが自分の特殊能力のおかげと言うのなら、この力に感謝しよう。サキヤノは希望を見出そうとするが、自身の鮮血を見て瞼を閉じた。一撃で動けなくなるなら、あと一突きなんて耐えられるわけがない。
「何寝てんだ、異界人。ムカつくなぁ」
サキヤノの目の前に迫ったウォンは、ゆっくりと槍を持ち上げた。首辺りに狙いを定め、彼は
「バイバイ、パルマコンく……」
不意にウォンの動きが止まった。
ピリリ、と電子音が微かに聞こえると、ウォンはバックステップでサキヤノから飛び退く。
「……んだよ、こんな時に」
長槍を放り投げて、黒コートの仲間からトランシーバーを受け取り「おい、なんだよ!」と大声で喚くウォン。
異常を感じてサキヤノは目を開ける。ウォンは自分の近くにいなかった。
無意味に死を引き延ばされたサキヤノは一時的な安堵を味わっていた。「自分はまだ生きている」と言い聞かせ「死にたいか死にたくないか」と自問自答を繰り返す。死にたくはないけど多分死ぬ、とサキヤノは脱力した——。
『でも、最後まで足掻かないと駄目だよね?』
と、そこで誰かの声が聞こえた気がした。
諦めていたサキヤノに、勇気が湧き上がる。ゲルトルードだろうか、と微かな希望を抱き、サキヤノはどうにか腕を持ち上げようとする。
「うっ……くっ」
ウォンはこちらを見ていない。周りの人達も、ウォンに注目している。
モニカ達は自分を見捨てていない、きっと。
サキヤノの左腕が動いた。
血溜まりに手をついて身体を起こす……起こさなければならない。
身体が通常の何十倍にも重く感じた。だから時間もかかるし、背中が痛い。
——痛みは僅か。
だが、止めどなく涙は溢れる。流したいわけではないから、反射に近い涙で視界がぼやける。
これじゃあ、ウォンの様子が見えないじゃないか。
がく、と肘が曲がった。
「うっ」
側頭部を打つ覚悟をしたサキヤノであったが、何も衝撃はない。むしろ何かに包まれているような。
「……すまない」
目を開けた先には、辛そうに俺を支えるケイシーがいた。
なんで、とサキヤノは口を動かした。呼吸でさえ痛いのに、言葉を紡げるわけがないと思ったから、口パクで彼に尋ねた。
ケイシーは何も言わず、そっとサキヤノの頭を下ろすと両手を力強く握った。
「サキヤノ・パルマコン。すまなかった、必ずお前を助けよう」
小声で囁き、ケイシーは立ち上がる。そして、彼はサキヤノの目の前から消えると、窓枠近くの黒コート三人を殴り飛ばした。
何を、とサキヤノが驚いていると「はあぁ!?」とウォンの悲鳴が部屋に響き渡ったーー途端、扉が勢いよく開いた。
「やぁあぁぁ!!!」
オレンジの髪の女性が、声を張り上げながら黒コートを押し倒し、部屋に転がり込んだ。
——モニカだ。やっと、来てくれた。
モニカは部屋を見渡し、サキヤノを見つけると叫んだ。
「ディック!サキ君をお願い!!」
「任せろ!!」
扉から顔を覗かせたディックが杖を振り上げると、ばちん、という音と共に叛逆軍が次々と倒れていった。
二人は素早い連携で、相手が武器を構える暇もなく峰打ちを放ち、人数を減らしてゆく。
たった数秒の出来事だったが、モニカとディックはウォンとケイシー以外を昏倒させた。すっかり部屋の中は倒れた人で埋め尽くされた。
「貴方がリーダーだよね」
敢えて残したのか、モニカはウォンに問い詰める。
「叛逆軍のリーダー、ウォン・アルフォンソは貴方だよね!?」
「……おーおー、怖いなぁ。やっぱりサキヤノ君仲間いるじゃんかよー」
軽口を叩きながらも、ウォンの笑顔は引き攣っていた。さすがに大人数を倒されてしまっては、彼も堪ったものではないのだろうか。それとも『ウォン・アルフォンソ』と本名を呼ばれたからか。
引き攣った笑みのまま、ウォンはケイシーを睨んだ。
「てか、ケイシー……やっぱ裏切り者じゃないか……魔法使いを倒すなんて、頭のネジ飛んでるんじゃないの?」
吐き捨てたウォンにケイシーは「俺はお前とは相容れない」とはっきり言った。
「へ、ぇ……そう。まぁ、良いよ。こんなんじゃ勝てっこないし、もう退散する」
呆気なく「退散する」と口にして、ウォンは頭を掻いた。額に青筋を浮かべながらも、ウォンは右手を上げる。パチン、と
「……絶対!逃がさない!」
逃亡の雰囲気を醸し出したウォンに、モニカが飛び掛かる。短剣を振り上げて、ウォンの喉目掛けて一直線に
「残念」
刃が届く前に、声を残してウォンは消えていた。
——沈黙。そして、モニカの無念の声。
「また……っ、逃げられた……!!」
短剣を床に落とし、モニカは崩れ落ちた。
ディックはサキヤノの側から離れずに「モニカ」と優しく名を呼ぶ。
「モニカ、仕方ない。向こうに優れた魔導師がいただけだ。サキ君も、一応無事で……叛逆軍も残っているから、あいつらのアジトはすぐ割り出せる」
ディックは囁きながらサキヤノを一瞥した。僅かに歪んだ表情からは、悲しみ以外の感情が読み取れる。
「それより、サキ君の治療が先だ。モニカ運ぶのを手伝って。僕の魔法じゃ治せないから早く聖王のところへ連れてかないと!」
「……うん」モニカは目頭を拭い、サキヤノに近寄ると絶句した。
サキヤノ自身も分かっている。いくら諦めないと言っても限度があることくらい知っている。
サキヤノの視界の、五割も見えない目が誰かの影を映した。長髪と高身長の影から見て、カスカータだろうか。
「ヒツ、ジ」
荒い呼吸のカスカータは、サキヤノの姿を見て震えた。
生きてはいるが、彼女に反応するくらいの気力は残念ながら残っていない。サキヤノは瞼を閉じて、ディックに身を預ける。
「カスカータ、怒るのは後からで良い。今はサキ君の治療を……」
サキヤノの頭を支えながら、ディックは何かに気付いた。
「カスカータ、大丈夫!!サキ君は、死んでない!!」
必死にカスカータに呼び掛けるディック。
不自然に思ったサキヤノは重い瞼を持ち上げて、視線だけをカスカータに向けた。
「……ぅう」
カスカータは泣いていた。子供のように鼻をすすりながら、
「ごめんなさい……ごめんなさい……私が、勝手に行動したから」
と謝罪を繰り返し、薄水色の瞳から大粒の涙を溢す。
「大丈夫、大丈夫……仇は、しっかりとるワ」
口の異物を吐き出しながら、サキヤノは「ちょっと待て」と目を疑った。ウォンと、同じ気配を感じたからだ。人が豹変する一歩手前のような、空気が変わる感覚をカスカータにも感じた。
止めないといけないと分かっているが、誰も動きはしなかった。手が出せない事情があるのか、モニカ達はカスカータを黙って見つめていた。
「……ごめんなさい、————。私、きっと上手く……」
腰を折り、何かを呟いてサキヤノを横目で見遣ると、カスカータもその場から消えてしまった。
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