第八話 異世界への一歩
仲の良い友達が俺を無視し、悪口と暴力を振るうようになったのはあまりにも突然だった。
原因は俺の優柔不断な性格。『あいつ』へのイジメを止めず、嫌いだと同調したにも関わらず無視や暴力をしなかったからだと思っている。
だけど俺は、本当は『あいつ』が嫌いじゃなかったんだ。
イジメなんて、したくない。
友達だった奴らの影が俺の前に現れた。男女仲良く会話をし、
戻らない記憶に手を伸ばす。
しかしその手は、絶対に届かない。
それから俺は決めた。
誰かに合わせることが一番安全なんだ——俺は変わるから、もう間違えないから……誰も俺のことを、嫌いにならないでくれ。
寝苦しさに目を覚ます。
木組みの天井が高いところに見えた。申し訳程度の電球が、明るい部屋の中で不自然に瞬いている。
ここはまだ異世界だ。
溜め息を吐き目を閉じると、瞼の裏で昨日の出来事が鮮明に映し出された。バネッサという女性、ゲルトルードの魔法、耳鳴りのしそうな爆発音、そしてステファンの——。
「……!」
思い出すだけで罪悪感に
初めて人が死にかける瞬間を見た。溢れんばかりの血液とガラスに覆われた地面など、色濃く残る記憶が拒絶反応を起こす。吐き気に襲われて、サキヤノは気を紛らわすように首を振った。
「……現実、なんだなぁ」
拳を作って、自分の手が汗でじっとりと湿っていることに気付いた。汚い、なんて思いつつ服に汗を擦り付ける。……いや、服も汗でべったりだ。
そういえば、嫌な夢でも見た気がする。はっきり覚えてないけど、最悪な夢だったはず。
ちちち、と鳥か何かの声が外から聞こえた。思考が切り替わり、小窓から日が射しているのを見て、朝が来たのだと当たり前のことを思った。
目をこすり、覚醒するまでしばらく待つ。左右に目を動かすと、散らかった部屋でゲルトルードがすやすやと眠っていた。サキヤノと違って、布団も枕もない。
「ゲルトルード……っと」
腕に体重をかけた時、肘がかくんと折れた。
サキヤノは自分の非力さを感じつつ身体を起こそうとしたが、力が入らない。
「おっ、痛……ううぅ」
さらに
完璧には治せないとディックが言っていた通り、不快感と痛みはあるが叫ぶほどではない。体に力が入らないのは問題だが、思ったよりも痛く……
「いや、これは……痛いってぇ」
痛い痛いと言えるから、まだマシなのかもしれないけど。サキヤノは少し大きめな独り言を呟き、ゆっくりと床を這いずった。
その時いつのまにか目を覚ましていたゲルトルードの、
寝起きでぼんやりしていたゲルトルードは、無邪気な笑顔を浮かべて、
「おはようございます、サキヤノさん」
と、ゲルトルードは床に顔を押し付けた、おかしな姿勢のサキヤノに言った。彼女が
「……おはよう、ゲルトルード」
……ずっと格好悪いぞ、俺。
最悪の気分だと泣きたくなった。
太陽が真上に昇った正午。
ディックに痛覚を鈍くする魔法をかけられてから、一時間が経過した。
今、昨夜のことで異界人保護部隊はとても忙しいらしい。
モニカ達のアジトで目が覚めた後、ディックの魔法で物陰に隠された。それからすぐ、モニカやディックと同じマントを羽織った保護部隊の人々が現れ「ステファンが襲われたのは異界人が原因だ」と話していた。
……事態の深刻さを理解するのは容易だ。
彼らはなるべく言葉を選んでいたが、震えた拳は確実にサキヤノへの怒りが込められていた。離れていても、眉を寄せ、唇を噛む彼らの表情はよく分かる。
——いや、追い出されるっていうのは違うか。
原因は自分だから、当たり前のことなのだ。
なのに追い出されたなんて冗談でも思っちゃいけない。そんな図々しい考え方があってたまるか。
「ね、サキヤノさん」
ふと優しい声が耳を撫でる。
隣にいたゲルトルードが、そっとサキヤノの肩に手を置いて微笑んだ。
「今回は一度目的を果たして、落ち着いた頃に伺いませんか?その方があの人達にとっても、サキヤノさんにとっても良いと思うんです」
「それに」視線を足元に落とした後、ゲルトルードはサキヤノの手を握る。「サキヤノさんは怪我人よ。私なら、魔法で痛みを全く感じなくすることも出来るの。ディックさんがいなくても私がいればなんとかなります……この街を、一旦出るべきです」
サキヤノより少し背の低い彼女は、上目遣いで握り込んだ掌に力を入れる。
一瞬、可愛いと素直な気持ちがはみ出したが、すぐに切り替えた。自分のしたことと向き合わないでどうするんだ、と。サキヤノはゲルトルードと一定の距離を保つと「そうだね」と一言だけ返した。
素っ気ないとは思う。
自分の後悔を口にしても、誰に話しても罪は軽くならない——今話しかけられると、見苦しい言い訳をしそうだから。
サキヤノもゲルトルードも黙り込んでいると、アジトから軽快にディックが飛び出してきた。
静かに、と口元に人差し指を当てるジェスチャーをした後、彼は小走りに俺達の方へ向かっくる。
「サキ君、ちょっとこっちに……ああ、君は来ちゃ駄目、待ってて」
サキヤノは呼ばれるがままにディックに近寄ったが、自然な流れで着いてきたゲルトルードは止められる。不服そうに頬を膨らませるも、ディックに何やら耳打ちをされるや否、満足げに笑顔を浮かべた。
ディックが何を言ったのか気になったが、サキヤノはとりあえず彼について行く。
物陰に身を潜めるなり、ディックはサキヤノが肩に掛けていたバッグを掴み、中から
「これが君の服!さっ、時間ないから着替えて着替えて」
「えっ、こ、こんな街中で!?」
「大丈夫!誰にも見られないって、早く早く」
「確かにここなら見られないかもしれないですけど……待っ、あの!じ、自分で脱げます!!」
喋りながらも、ディックはズボンを下げようとしてくる。勢いに負けて、サキヤノは無意識に叫んでいた。
渋々上下黒色の服を着る。それから上着を羽織って、チェーンがぶら下がった、軍帽に似た帽子を
うわぁ、とサキヤノは低い声で唸る。
言われるがままに服を着たが——こんな洒落た服、着たことない。
恥ずかしいし、似合っているかも分からない。外国かぶれ……もといファンタジーかぶれの格好をしている気がして止まない。
服を眺めては目を逸らし、眺めては目を逸らすサキヤノを見てディックが吹き出した。
「やっぱり似合ってないですか!?」
「いや、ふふ……良いね!うん……ふふっ、すごく似合ってるから気にしないで」
「で、でもこれ……!結構恥ずかしいんですけど」
「良い感じ良い感じ、もう向こうに行って!時間ないからねっ」
「髪の毛っ、隠し切れてないですけど……大丈夫ですか?」
「ん?そこは根性だよね!でも服に魔法かかってるからあんま気にしなくて平気さ!」
どん、とディックに背中を押され、俺はこけそうになりながらゲルトルードの前に飛び出す。
「根性ですか!?って……」
んな無茶な——サキヤノが振り返って文句を言うにも、彼の姿はもう見えない。
「次は君だ」
何もないところから腕が伸びると、今度はゲルトルードが物陰に姿を隠した。物陰に入った瞬間、彼女の姿は跡形もなく消える。
サキヤノは自分の目を疑うが、魔法だと思うと納得出来た。確かに、誰にも見られていない。
——やっぱり。
サキヤノは暗闇を見つめながら目を細める。
何度目かの目に見える魔法は、やっぱり不思議だ。この魔法だけくり抜いて、現実に持って帰りたいくらいだ。
それからそれから、と一人で魔法の妄想を膨らませているとゲルトルードが「サキヤノさんっ」と嬉しそうに影から飛び出してきた。
そんな彼女は、美しい服に身を包んでいた。
レースのついた黒いワンピースは、とてもゲルトルードに似合っている。髪と背中のリボンの装飾が印象的で、服自体は機動性が良さそうだ。
満面の笑みでゲルトルードはサキヤノの腕に飛びついて「どうですか、サキヤノさん。私似合ってますか?」とキラキラした瞳を向ける。サキヤノは妙に照れ臭くなり、明後日の方向を向きながら少女を褒めた。
「うん、すごく似合ってる」
「本当ですか?」
「……うん」彼女を横目で見ると、物足りなさそうに純粋な瞳を向けてきた。「か……可愛いと思う」
「……!ふふっ、なんて嬉しい……でもこっち向いてくださいませんか?寂しいですよ」
ぐいっ、と手を伸ばしてサキヤノの頬を
「可愛いけど、あの……あんまりそういうのしない方が良いよ」
「なぜ?」
「その、一応同い年っぽいし……」
「同い年だと問題が?」
「あ、いやぁ」
「どうして、どうしてですか?もしかして嫌ですか?」
「可愛いけど、そういうのされると俺がキツい!!」
ゲルトルードの肩を押し、なんとか逃れる。
恐らく同年代の彼女は、自分が今まで見てきた女性とは全く違う。
「キツい?」しょんぼりとしたゲルトルードは黒服を触る。すると納得したように頷いた。「……そういえば、今はコレでしたね」
コレ?
気になる単語を呟いたゲルトルードは顔を覆うサキヤノの肩に手を置いた。「すみません、私色々勘違いしてました」
「……おお」
勘違いって、なんですか。
惨めな気持ちを呑み込んで、話を逸らそうとサキヤノはバッグを漁った。ディックが色々詰め込んでくれたらしく、重さはあまり感じないが、バッグの中を漁る手には色んな物が当たる。
「ん?」
ぐしゃ、と紙がひしゃげる音。それから金属音。
こんなの入れていたかな、と眠る前にディックがバッグに収納していたものを思い出す。地図ぐらいだが——こんなに薄くはなかったはず。試しにその紙を引っ張り出すと、読めない文字の
「あっ、そういえば」
不意にゲルトルードが人差し指を立て、
「ディックさんからの伝言です。『バッグに手紙と引換券、それからお金が入ってる。雑貨屋に行ってきたら良い』だそうです。雑貨屋さんっていうのは、この通りを真っ直ぐ行ったところにあるそうで」
と、指を目線の先に伸ばした。
これは手紙か。見慣れぬ文字に目が痛くなり、サキヤノはそれをバッグにしまった。
……今は言われた通りに動こう。
サキヤノとゲルトルードは人通りの少ない道を、大股で進んだ。
*****
アジトから離れた、聖都の出入り口付近。そこでサキヤノとゲルトルードは腰を休めていた。
ディックに言われた通りに雑貨屋へ行くと、武器らしきものを頂けた。そしてこの世界の乗り物についても聞いて……お金の存在も知った。
人と話すのが苦手なサキヤノと、世間知らずのゲルトルードが慣れていないのは当たり前で、何度も質問をしてしまったのは申し訳なかったが——とても、良い情報を貰えた。
サキヤノは
太陽の眩しさに目を閉じて、それから現状を整理すべくこめかみを押さえた。
「ゲルトルード」
「はい」
「もう一度手紙読んでもらえる?」
「もちろん」
ゲルトルードはポケットから四つ折りの手紙を取り出し、小声で読み始めた。
「『殴り書きでごめんなさい。二人に頼みたいことを簡潔に書きました。多分ゲルトルードちゃんがいるから大丈夫だと思うけど、読めなかったら、それもごめんなさい。
一応、貴方達のことは部隊の中で話をつけておくつもりです。その間、ディックが渡した物をヘリオとライノスに届けてください。ヘリオは隣国ですが、森の中にあるのでご注意を。
ライノスは東にあります。こちらは山越え注意です。
よろしくお願いします。』……一枚目はモニカさんから、ですね」
一呼吸置いて、ゲルトルードは二枚目を読み始める。
「『守ってほしいことを簡潔に。一つ目は、国に着いたらと、贈り物を届けたらで二度連絡を。二つ目は、異界人と言われても気にしないこと。三つ目は異界人を見つけても連絡すること。難しいかもだけど、頑張ってほしい。あと、聖都の門に僕らの仲間がいるから、一緒に行動してほしい。彼はお金の稼ぎ方に詳しいから、きっと君達の役に立つ。
追伸 一方通行の通信機だけど、連絡出来たら赤ランプが光る仕組みになってるからね。』……これがディックさんからですね」
「うん、うん。ありがとう」
案の定、頭の情報処理が追いついていない。
サキヤノはこめかみを人差し指で押し、とりあえず「守ってほしいこと」を
連絡は国に着いた時、贈り物を届け終わった時、異界人を見つけた時。でも連絡は一方通行、と。
書簡があるにしろ、異界人ということで色々精神的にダメージを受けるかもしれないが、無視すべき、か。
少し難しいかもしれないが、なんとかなる。自分は二年間の辛い学校生活も我慢出来た。友達がいなくても、無視をされても、我慢出来たんだ。唯一優しかった家族がいなくても——平気のはずだ。
せっかく自分にしかできないことをくれたんだから、期待を裏切るわけにはいかない。ステファンの言ってた『目的』だって見つけてみせる。
きっとやり切れる、大丈夫、大丈夫。
「……はぁぁぁ」
「サキヤノさん大丈夫ですか?」
「大丈夫、うん、大丈夫、ありがとう」
痛みのない傷にそっと触れて、サキヤノは立ち上がった。寂しくても泣いている暇はない。
サキヤノは手紙を持って佇むゲルトルードに視線を送った。不思議そうに首を傾ける彼女に、思わず笑みが溢れる。
今は、ゲルトルードだっているじゃないか。
「でも、こんなあっさり……旅するんだなぁ」
我慢しきれなかった本音は漏れたが、とにかく決心はできた。
「ゲルトルード、準備は良いか?」
「はい、私はいつでも行けますよ!」
ぐっ、と力強い拳を見せるゲルトルード。
元気をもらえた気がして、サキヤノも握り拳を作った。
「まずはヘリオってとこに行かなきゃな。城郭都市、って聞いたことないし……森へ行くにはどうすれば良いんだ?」
「とりあえず、外に出ませんか?ここは、人がいっぱいいますし」
ゲルトルードに言われて顔を上げると、先程よりも大人数が聖都と外を行ったり来たりしていた。ぎょっとして、サキヤノは反射的に帽子を深く被る。
「意外に、バレてなさそ……そうでもないか」
道行く人の何人かがチラチラとサキヤノ達の方を見ていた。
「そ、そうだな。ちょっと居心地が悪い。早く出よう出よう」
サキヤノとゲルトルードは逃げるように煉瓦の門へ向かう。警備の人だろうか、鎧で全身を覆った人が巨塔の前に鎮座していてかなり驚いたが、こちらを気にする様子はない。
ほっとしながら門をくぐると、前には木製の橋があった。聖都は水に囲まれた都市らしく、見える限りで三つの橋が掛かっている。
異国の風景に感嘆の声を上げつつ、サキヤノは小走りで橋を駆け抜けようとした。
しかし、進路を妨げるように、見覚えのない男性が俺達の前に立ち塞がった。ひく、と頬が引き
二メートルを越えていそうな身長に、鎧で幅のある身体は、とても大きい。またしても威圧感のある人に見下ろされ、サキヤノは後退した。ゲルトルードと顔を見合わせ、互いに動けなくなっていると、ようやく男性が口を開いた。
「……貴方が例の異界人で?」
「え、えっと?」
「保護部隊のケイシーと申します」
ケイシーと名乗った男性は
もしかして、ディックの手紙に書いてあった人だろうか。
きっと保護部隊からわざわざ来てくださった人だ。ここで何も言わないのは失礼にも程がある。
手汗を拭ってから、サキヤノはおずおずと手を差し出した。
「あの、自分はさく……サキヤノと申します。不慣れですが、その、よろしくお願いします……」
「私はゲルトルードと言います。サキヤノさんの良きサポート役として頑張ります!」
サキヤノは何度も詰まり、小さな声になってしまったが、ゲルトルードが続けてくれたおかげでなんとか自己紹介を続けられた。
ケイシーは鉄仮面の如き表情で、こくりと頷く。何かボソボソと呟いた後、彼は
握手は距離を詰め過ぎたか。
サキヤノは空を切った右手をそっと握り締め、空振った勇気を一人讃えた。
——人見知りにしては頑張ったぞ、俺。だけど握手は初対面で禁止と、脳内に刻みつけておこう。
「サキヤノさん、早く行きましょ?冒険の始まりです!」
待ちきれんと言わんばかりにゲルトルードは手を伸ばした。そのまま、両手を胸に当てるポーズで止まっていたサキヤノの腕を引く。
旅じゃなくて、冒険か。正しくはそうかもしれない。
無邪気なゲルトルードに、サキヤノの口角が上がる。
この日、サキヤノは冒険への一歩を踏み出した。
——————
星をいただきました。まさかこんなに早くいただけると思っていなかったので、本当に嬉しいです。ありがとうございます!
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