第五話 価値観の違い


 無駄に豪奢ごうしゃな絨毯の上、サキヤノはゲルトルードにもたれながら、そびえ立つ崖を見上げていた。

 切岸きりぎしの荒れた岩肌から、削られた小石が転がって絨毯の上にいくつか落ちる。少しでも強い風が吹くと、砂利のような崖の破片は瞬く間に消えてしまう。


 こうやって落ちれば楽になるのだろうか——と寂しさに堪え兼ねて、サキヤノはそんなことを考える。

 孤独が悲しくて辛い。話せなくても、誰かと一緒に行動するだけで何倍もマシだって、今なら思える。


 絨毯の下を覗き込み、高さを再確認して項垂うなだれた。これからどこに行くのか、この先どうなるのか。考えてしまうことがたくさんあるが、サキヤノは逃避する為に落ちる小石の数を無意味に数える。


 なびく絨毯に一際大きな石が落下すると、絨毯は太陽に向かってゆっくりと進んでいった。

 「生きてる?」とバネッサが前を向いたまま声を掛けてきた。「異界人に死なれると、結構痛いんだよね、金銭的に」



 ——金銭的に。

 サキヤノは膝を抱え、出来る限り身を縮めた。顔を埋め、現実を直視しないように景色を眺める。

 夜に移り変わる空のグラデーションに溶け込む月、影を落とした森から響く微かな虫の声と、一つ一つに圧倒される。景色が綺麗なことだけが、今の心の支えだ。


 森を見下ろした時、サキヤノはふと気付いた。

 そう言えば、自分は今空飛ぶ絨毯に乗っている。何ともファンタジーらしくて、こんな状況じゃなかったら原理を聞きたいくらいである。

 

「ってか、すげぇ呑気だな」


 俺は一体何をしているのだろう。

 色々葛藤して、後悔して、一人で景色を楽しんで——頭がおかしくなったとしか思えない。

 一人苦笑するサキヤノを見かねてか、ゲルトルードは彼の服を引っ張った。


「大丈夫ですよ、サキヤノさん」


「……うん」


「私が励ましてあげますから」


「……うん」


 自分よりも歳下なのに、なんて強いんだろう。

 涙目のサキヤノに対して、ゲルトルードは何かを確信しているような、力強い瞳を前方に向けている。そして彼女は何も言わずに、サキヤノの手に自分の手を重ねてきた。


「お母さんがよくこうやってくれたんです」


 ゲルトルードがそう言った途端、ふっと心の重荷がなくなった気がした。

 ……いや、気じゃない。本当に嫌な想像が消えて、悲しさも吹き飛んで、涙が乾いた。むしろ絶対的な安堵に包まれている。サキヤノは目を見張り、ゲルトルードの翡翠色の瞳を見つめた。


「ね、ねえゲルトルード」


「はい」


 心が軽くなったおかげか、幾分か気持ちに余裕が出来たらしい。

 するとどうだろう。幼い頃から異性と触れ合って来なかった自分には、高い壁があることに気付けた。

 この少女、スキンシップに慣れ過ぎている。

 いくら歳下と言えど、家族以外の異性には耐性がない。加えて、彼女からは見た目に不相応な大人びた印象を受ける。


「近い、近いよ」


 慣れたスキンシップでサキヤノの涙を拭うゲルトルードに首を振り、なんとか距離を置いた。


「ふふ、面白いのねサキヤノさん。ごめんなさい」


 ゲルトルードの落ち着いた態度、和やかな口調は今の絶望的な状況をくつがえそうだ。不思議な雰囲気の少女に、サキヤノはまた心を癒された。

 そして「癒される」という、一瞬だけでも良い感情にひたることが出来て、少しだけ嬉しくなった。


「あら、もうすぐ着くわね」


 バネッサの独り言に肩を揺らすと、サキヤノは口角を上げる女性の横顔を見つめた。

 こういう商売をする人はどういう気持ちなのか、なんて、今だからこそ考えられる客観的な気持ちが自分にはある。人身売買は実際にあるのだと、理想だった異世界で学ぶなんて思ってもいなかった。


「っ、ゲルトルー……ド?」


 少女に視線を移すと、ゲルトルードは天をあおぎ、静かに吐息を洩らしていた。「ああ、やっと」と呟き、心底嬉しそうな笑顔のゲルトルードに、サキヤノはぎょっとした。

 えっと、と髪を触って、混ざる感情を落ち着かせる。大丈夫、怯えて頭がおかしくなったわけじゃない、多分。

 サキヤノは戸惑いながらも、一拍置いて同じように暗い空を見上げた。


「っおぅ!?」


 顔を上げた瞬間、黒い塊に顔面を襲われる。上からの圧力に対抗出来ず、そのままうつ伏せに倒れると絨毯が歪んだ。


「一体どこから……!?」


 バネッサの焦った、早口の言葉が聞こえるや否、両手から柔らかな感触が消えた。

 背中の産毛が逆立つ。本能的に落下を拒否したが、安定性を失った身体は後ろへと傾き、抵抗虚しく安全圏の外に弾き出される。

 

「うぉおおおお!?」


 僅かに見えた橙色の髪と茶色の髪、まさしくあれは、さっきの二人のものだ。

 助けに来てくれたということだろうか。

 わざわざ空から?


 助けは有り難いのに、素直に喜べないのは——


「落ちるからだよなぁ!!」


 サキヤノは舌を噛む覚悟で全力で叫ぶ。

 支えのない落下は、とてもじゃないがバランスがとれない。地面はサキヤノの背面で、どこまで落下したか分からない。また、風が今までより冷たくない分、更にサキヤノの不安を煽いだ。

 無心で落下していたその時、小さな影がサキヤノに向かって落ちてくる。


「サキヤノさんっ!!!」


「ゲル……ぶふっ」


 風の影響でサキヤノは声が出せないが、長い髪をなびかせたゲルトルードは「捕まって!」と手を伸ばした。

 小さな掌が遥か遠くに見えた。必死に体勢を整えようとするも、やり方が分からない。空中でバランスを保つにはどうしたら、自由に手足を動かすにはどうすれば——。

 

「手を!!!」


 重い空気抵抗に逆らえない。

 何も出来なくて、ごめんゲルトルード。


 落下しながら涙ぐみ、身体の力を抜いて諦めた。

 このまま死んでしまうのだ、もう助からないんだと、サキヤノはそう思って目を閉じ、自由落下に身を預けた。


 しかし、突然頭が揺れた。

 衝撃で首が反り、視界が暗転する。


「……ったぁ」


 サキヤノは徐々に順応する視界に、少女の姿を見つけた。真上から自分を見下ろす美少女と、今の状態にサキヤノは息を呑んだ。


「諦め早過ぎです、サキヤノさん」


 ゲルトルードはサキヤノを抱え、妖艶な笑みをたたえていた。

 いきなり大きくなったゲルトルードの身体、伸びた髪、大人びた顔つきと、数分前の小さな彼女ではない。記憶に上書きされた別の存在に、サキヤノは目を疑った。


「一体……何者?」


 目を点にする俺に、彼女は首を傾げ


「私ですか?私はゲルトルードですよ」


 と、変わらぬ声ではにかんだ。





*****




「ごめんなさい、ホント」


 息の上がったサキヤノは「大丈夫です」を途切れ途切れに短く言うと、地面に四つん這いになった。

 心臓の鼓動が耳元で聞こえる。

 情けない自分の肺が空気を求める。


 異世界何度目かの急降下。三回、いや四回だろうか——とにかくサキヤノは、嫌な感覚を何度も味わった。求めていない、決して求めていないのに。

 落下する人生なんて、文字通り縁起が悪いじゃないか。


「うえぇ、ぎもぢわるい」


「大丈夫ですか?」


「なんか、この……ふわってなる感じ?コレ、俺嫌なの……」


「ええ、ええ。今後気を付けます、ごめんなさいサキヤノさん」


 口元を手で覆いながらも「っそんなことより」とサキヤノはゲルトルードを見上げた。

 白色のワンピースは彼女の異様な成長のせいか、丈が短くなっている。涼しげな目元に小さな鼻、口角の上がった口元、たおやかな仕草はほとんど変わっていない。しかし、明らかに成長している。


「それは、どういう、魔法で?」


 膝や腰が震えていて、真っ直ぐではないが立ち上がる。サキヤノは呼吸を整え、少女と対面した。

 ゲルトルードは目を細め「そんなことより」とサキヤノの言葉を繰り返した。


 彼女は笑むと、サキヤノの腕を引いて自分の胸に手繰たぐり寄せる。瞬間、上空で轟音が響いた。ゲルトルードの抱き締める力が強く、顔が上げられなかったが、何かが起きているのは分かった。

 「サキヤノさんはこちらへ!」と成長したゲルトルードは叫び、サキヤノを横向きに抱える。


「ちょっ、ちょっと待……」


 脇下と膝裏に腕を入れ、彼女が俺を抱え上げたその格好は、俗に言うお姫様抱っこというものだった。

 推定年下の相手に、抱えられる十八歳。

 ——しかも女の子に。

 「下ろして」と言えなかった。ゲルトルードの必死な表情を見ると、声が出ない。

 鼓膜が破れそうな爆発音の中、サキヤノは小さくなって耳を塞いだ。




 いつのまにか轟音は止んでいた。サキヤノは一人地面に座り込んでいる。

 数十メートル上空では、モニカ達とバネッサが戦闘を繰り広げたらしい。

 ——凄まじい音と光だった。

 サキヤノは木の陰に隠れて目視も出来ず、目をつむり耳を塞いで震えていた。ゲルトルードが「大丈夫ですよ」と戻ってきてやっと、自分の身が安全圏に置かれたことを悟った。

 ゲルトルードに手招きされ、サキヤノは覚束おぼつかない足取りで彼女の後を追う。


 異世界。夢。非現実。ファンタジー。

 その場所では、漫画みたいに活躍出来ると思っていた。自分は誰からも頼りにされて、誰かの一番になれるんだって思っていた。

 なのに、舞台に上がっただけで何も変わらないらしい。体力も人並み、精神力も人並みで、異世界ここの人達とはレベルが違い過ぎる。

 今出会った少女——ゲルトルードよりも臆病で役立たないのが現実だった。


 サキヤノは恐怖に耐えながら、招かれた場所に歩を進めた。ゲルトルードが足を止め、サキヤノもぶつからないように止まる。

 拓けた視界に焦げた臭い。その中央で、煤汚れたモニカとディックが振り返った。奥には髪や服の乱れたバネッサがいた。

 顔を上げ、俺の姿を見たバネッサは


「良いわよ、殺しなさい」


 と諦めたように呟いた。

 状況が読めず、サキヤノは立ちすくんでしまう。


「何されたって吐かないから」


 何を言っているのか、全然分からない。

 モニカもディックも、どうして自分を見るのか。


 「えっと」とサキヤノはなんとか声を絞り出した。「どうして、俺が……こ、殺すんですか」



 言った瞬間、モニカとディックが驚愕の表情を浮かべる。

 整った顔を崩し、お互いに視線を交わした二人はサキヤノの肩を掴んだ。


「だ……だって、嫌な思いしたでしょ?いきなり誘拐されて、服もこんなにボロボロになって……酷いことされたんでしょ!?」


「そうだよ!こういう奴は反省しない!手っ取り早いのは始末することなんだよ!?大丈夫、君は悪くないから!」


 二人の口から放たれた言葉に唖然とする。

 俺がバネッサを始末——つまり殺す必要があるということか?

 サキヤノは固まったまま抵抗しないバネッサに目を向けた。バネッサの余裕のあった表情は曇り、眉間に皺を寄せ、静かに俯いている。両膝をつき、手を後ろで組んでいることから縛られているのだと気付いた。

 確かに殴られてとても痛かった。でも、それで殺すというのはおかしいじゃないか。



「け、警察に預かるのが一番良いんじゃないですか」


「ケーサツ?」


 ディックが面倒くさそうに唸った。


「あれか、君達の世界の騎士的な存在か。確かに学んだっけな、うん」


 独り言を呟くディックを横目に、モニカはサキヤノの手を握った。赤茶けた瞳が、サキヤノを真っ直ぐに射抜く。


「サ、サキ君!騎士団に身柄を引き渡すの!?きっと、大した問題として取り上げないよ!それよりも、アタシ達みたいな『保護部隊』の方がよっぽど……君の為になる指示が出来る!!だからほら、絶対こういう奴は……!」


 モニカの必死の訴えに、サキヤノはますます驚いた。

 焦りと価値観の違いに手汗が滲む。


「俺は、こ、殺すなんて絶対……!」


 嫌だ、と言う前にゲルトルードの掌がサキヤノの口を塞いだ。的確にサキヤノの声を途切らせたゲルトルードは、俺とモニカの間に立つ。

 癖一つない美しい髪がサキヤノの眼前で揺れた。


「モニカさん、でしたか?」


「あ、貴方も捕まってた子?」


「それは、後からお話します。……私が住んでいたエンヌ帝国には、悪人を捕える監獄というものがございます。そこに送ってみてはどうでしょうか?」


 ゲルトルードは力強く、はっきりと言葉を紡いだ。

 初めて聞く国名にサキヤノはもちろんモニカも混乱しているようだ。橙色の髪をいじると、やがて微笑を浮かべた。


「ちょっと分かんないけど、悪人を捕まえるってのは悪くないかな。聖都に戻ったら……うん、上の人に話して聖王せいおうに報告してみるね」


 モニカは嘘のように落ち着くと、ディックの頭を小突き、耳元で何かを囁いた。内容は聞こえなかったが、ディックも納得した様子で頷いており、サキヤノはゲルトルードを見つめた。


「ごめんなさいな、サキヤノさん」


 サキヤノが見ているのに気付くと、ゲルトルードはぎこちなく微笑んできびすを返した。

 一体彼女は何者なのだろう。

 幼い彼女と大人びた彼女は、何か違うのだろうか。

 疑問に思いつつも、危機が回避したことに安堵してサキヤノは前を行くモニカとディック、ゲルトルードとバネッサの後を追おうとした——が、激しく足が痛んでその場にうずくまった。


「っ、おう……クソ痛ぇ」


 緊張が解けたからか、殴られた全身が今になって痛み出した。

 ……特に足が痛い。堪らなく痛い。

 足の痛みを抑える為、特に意味もなく二の腕をつねった。案の定、痛みは特に分散されない。


「歯医者では……よくこれで誤魔化してたのに……っ」


 厳しい状況に項垂うなだれていると、視界が暗くなった。いつのまに近付いたのか、顔を上げたサキヤノの前にはディックが立っている。

 「仕方ないなぁ」ニヤリと笑った彼は腕を横一文字に振り、細かな光を散らした。

 魔法だ、とサキヤノは半ば本能的に目を輝かせる。

 身体が浮き、目に見えない力で押し上げられた。パーカーが風に煽られ「飛んでいきそうだ」なんて、呑気に考えてしまう。


「サキ君は魔法に興味あるそうだから、今回は特別だよ?」


 ふふ、と得意げに鼻の下をこするディック。先程の詰め寄ってきた彼は一体どこに行ったのやら、とサキヤノは変わり様に違和感を感じた。

 ディックとサキヤノが追いつくと、モニカは談笑を始めた。バネッサにくくった縄を引きながら歩き、笑い合う姿は少し異様である。


「あと少しで着くからね」


 と、モニカが独り言のように言ってからおよそ一時間後、ようやく大きな街の砦が見えてきた。

 魔法で浮いていたサキヤノや楽しげなモニカとディック異界人保護部隊を除くと、休みなしで歩いたのはやはり辛いのだろう。ゲルトルードは額の汗を拭い、バネッサは肩で息をしていた。

 と言いつつも、歩いていないのにサキヤノも疲れていた。サキヤノはなんとか痛みで誤魔化せてはいるが、猛烈な眠気に襲われていた。


 そろそろ限界というところで、モニカが「よぉし!」と後ろを振り返った。


「ここが私達のアジト!キッタないけどごめんね」


 にひ、とバツの悪そうな顔でモニカは笑う。

 

 「アジト」とはいかにもファンタジーな響きである。サキヤノはたかぶった気持ちを押さえ込んで、モニカとディックが所属しているという「異界人保護部隊」のアジトを見上げた。

 ——見上げた、は言い過ぎだった。

 それほど高さのない建物だから、おそらく一階建てだろう。他の建物と同じ煉瓦れんが造りで、良くも悪くも年季を感じる。

 入り口に掛かる見事な装飾の布は、暖簾のれんのような役割なのだろうか。風に揺れる布に見惚れていたサキヤノを、ディックが下ろした。

 サキヤノは汗を拭い「つっかれたぁ」と素直な気持ちを吐露とろする。サキヤノ以外は弱音を吐かなかったので、浮いている感覚に襲われるサキヤノ。気まずいサキヤノは、振り向いたゲルトルードから目を逸らそうとしたが、彼女は笑顔に包まれていたので少し照れた。

 「ゲルトルー……」とサキヤノが彼女の名を呼ぼうとしたところで、モニカが後ろから肩を組んできた。


「じゃあ!サキ君と君はこの中で待ってて!今みんな出払ってるから」

 

 「ね、ディック」とモニカが聞くと「そうだね」とディックの声だけが聞こえた。


「お言葉に甘えます」


 サキヤノはさりげなくモニカの腕を退かし、ゆっくり入り口の前に立った。

 このアジトの中は想像もつかない。室内はどうなっているのだろう。質素な感じか、それとも豪華な感じか。はたまた別の場所に繋がっていて見た目以上に広いのか。

 サキヤノはさながら未開の地に侵入する気持ちで、大きな布をくぐった。


 



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