第四話 檻の中の少女




 天窓から、生温なまぬるい風が吹き抜ける。

 頭上を見上げると、格子こうしの向こうに星々がきらめいていた。月光に浮かび上がるほこりと小虫は幻想的なのに、閉鎖的な空間を認識しただけで気分は最悪だ。

 隘路あいろに立たさせたサキヤノは、すっかり縮こまって、気付いた時には隣にいると身を寄せ合っていた。








 体感で、三時間前くらいのこと。

 サキヤノは顔に違和感を感じて、薄暗い部屋で目を覚ました。初めは「ここはどこだろう」と楽観的に考えていたが、物理的な頭痛で自分が捕まったことに気が付いた。

 部屋だと思っていたのは勘違いらしい。暗闇に目が慣れてくると、実際はどこかの洞窟だと場所と分かる。ゴツゴツとした岩肌に不恰好ぶかっこうな机と椅子、しずくしたたる不気味な音に不衛生な臭いと、五感から拒否反応が起こされる。

 ……泣きたくなる。

 そっと痛む頭に触れると、わずかに膨らみがあった。結構思い切り殴られたと思っていたが、こぶだけで済んだらしい。


 いや、とサキヤノは膝を抱えた。

 何故殴られた?異世界転移しただけの俺……つまり異界人というだけで何故こんな目に合うのだろう。よく訳の分からない能力があるだけの、いわば雑魚ざこ。そんな異界人じぶんたちの価値なんてのは聞いた限りは知らない。知らないが、街の人の呟き——それがなんとも気になっていた。




 いわゆるぼっち予備軍だったサキヤノは、盗み聞きをよくしていた。したかったとか、好きだったとかじゃない。聞こえてしまったら仕方ないだろう?

 姉にこれを言うと「まるで乙女だね」と馬鹿にされるが、治らないものは治らない。

 悪口を言われていないか、自分の噂を誰かが話していないか、大変気になるのである。もし自分のことじゃなくても、悪口だったら自分のことのように聞こえてしまう。中学から高校にかけて行ってきたこの盗み聞きは、こんな場所でかされた。




 だから、街の人の会話もしっかりと聞こえていた。サキヤノはギフトも街の人も「珍しい」と言っていたのがかなり気になっていた。


 「異界人という存在は珍しいのかもしれない、だから保護対象にもなっている」と仮説を立ててみる。

 しかし、どうしてそんな珍しい存在になるのだろう。孤独が嫌だからと、特徴のない自分が特別な存在になった夢か?もしくはあの時事故にあって頭を打ったか?

 異世界という都合の良い解釈をしただけで、ここは意外に妄想の世界かもしれない。


 ——考えれば考えるほどみじめになる。鼻をすすったサキヤノは立ち上がって、気になっていた数歩先の青銅に近付いた。

 まるでおりのような囲い。柵同士の幅は腕が一本通るくらいだが、身体はすり抜けられそうにない。

 触れた青銅の冷たさが、サキヤノに現実を突きつける。これは檻だ、牢屋だ。捕まって逃げられないんだ。


 悲しみに暮れて頭を下げると、ふと髪に風を感じた。隙間風か脱出口か、後者であってほしかったが、残念ながらこの辺りには隙間がない。じっと目を細めて周りを見渡すと、頭上にも鉄格子があることに気付いた。

 どうやら風はあそこから吹いてくるらしい。

 不自然な板で塞がれた天窓は、サキヤノの身長を含めなくても五メートルはありそうだ。無論手を伸ばしたって届くはずはないし、机と椅子を駆使くししても触れられない。


 諦めて椅子に座るが、パキンと軽い音を立てて椅子がひしゃげた。尻を打って「ひう!」と不気味な声が口から漏れ出る。

 一人寝転がってむなしく尻を押さえていると、突然壁際に汚れた足が見えた。どきりとして、慌ててうと、サキヤノと同じ動きで足は消えた。

 あっ、とサキヤノは頓狂とんきょうな声を上げる。


「鏡だ」


 そう口にして恥ずかしくなる。鏡に驚くなんて、まるで幼児である。

 忸怩じくじたる思いからか、誰もいないのにサキヤノはゆっくりと鏡をのぞき込んだ。

 見慣れぬ男の、涙でゆがんだ顔が映る鏡にそっと触れる。

 サキヤノは改めて自分の姿を見た。


 周りに言われた通り、髪は雪のように白い。青やら赤やら見慣れぬ髪色は見てきたのに、正直自分の髪色が一番気持ち悪い。他の人は適しているような見えた、けど自分の髪には白は絶望的に似合わない。いや、そもそも若い人が白髪なのはファンタジーならでは、だ。

 つまり自分はファンタジーを満喫している——などと変なことを思っていないと、精神的に追い詰められて胸が痛い。

 気を取り直して、再度鏡に向き直った。肌の色や顔の輪郭、パーツは変わらないようだが、黄味を帯びた瞳が自身の顔を射抜いている。

 サキヤノは頬に触れて、違和感に眉を寄せた。


「っても、やっぱキモいな……。これ染めるとか出来るのかよ。この世界にカラコンとか……ねえよな」


「ねぇ」


「……っうおぅ!?」


 前髪をいじっていると、まるで幽霊のようなささやき声が背中をでた。

 完全に一人だと思っていたため、振り返るのが数秒遅くなってしまう。


「貴方、異界人ですか?」


 ビクビクしながら、サキヤノは地面に見えた足先から徐々に、声の主の顔へと目線を上げる。身長は低く、白ワンピースの相手とはすぐにご対面した。

 言うなれば、美少女。少女の格好と不釣り合いな長髪は、黄みを帯びた白色——クリーム色に近い。くりっとした翡翠色の眼は、彼女の笑顔に伴って細くなっている。

 少女は適度な距離を保って、声の出ないサキヤノに近寄った。よいしょ、と可憐かれんな声を出してしゃがみ「ね、異界人でしょう?」と丁寧な口調で投げかけてくる。


「え、あ……はい」


「あ……っと、やっぱりそうでしたか。いきなり話しかけてすみません、綺麗な白髪だなって思いまして」


 少女の見た目は十代に達したか達してないか程度。まだ幼いはずなのに、敬語が流暢りゅうちょうで違和感があった。

 一体この少女は誰だろう。

 いつからこの牢屋にいるのだろう。

 疑問がふくれ上がる。しかし、考え込んで目をらすサキヤノを気にせず、少女は前方を向いたまま話し続けた。


「ふふ、敬語苦手だけれど……なんか緊張するわ。えと、私は昨日牢屋ここに入れられました、ゲルトルードって言います。貴方の名前、うかがっても良いかしら」


 ゲルトルードの言葉が右から左に流れる。困惑こんわくして、間を置いて、サキヤノはとりあえず笑ってみた。


「こ、こんばんは。俺はきよ……サキヤノです、よろしく」


 返しは合っているだろうか。

 というか、こんな小さな女の子と話したことない。

 何を考えているのか全く分からない。


「ふぅん、キヨ・サキヤノさんって言うんですね」


「いえっ、サキヤノです……っ」


「あっ、ごめんなさい」


「い、いえ……」


「……」


「……」


 ……沈黙。

 どうして黙ってしまうのか。


 サキヤノは横目でゲルトルードをうかがう。

 身体を揺らしていたゲルトルードは、ピタリと動きを止め「サキヤノさんかぁ」と呟くと、サキヤノの横に腰を下ろした。

 その時、クリーム色の髪が微かに肩に触れ、驚いてサキヤノは思わず離れてしまう。


「えっ」


「ご、ごめん!」


 気まずい空気を作ってしまった。

 年齢がいくつであっても、女性は女性である——見た目が幼いからってなんだ、俺は幼女が好きというわけではない。

 混乱のせいか、サキヤノの今の思考回路はおかしくなっているのだろう。自分でもおかしいと分かるんだから結構重症かもしれない。


「べ、別に良いんです。すみません、その……よく兄とこうやってたので、安心しちゃって。ごめんなさい、離れるわ」


 サキヤノのせいで眉を下げ、ゲルトルードは申し訳なさそうに笑った。

 罪悪感が胸を刺す。

 そしてサキヤノは無意識に、立ち上がった彼女の手を引いていた。


「あの、俺……さ、寂しいんだよね!今!だから、その、別に気にしないから、ってかマジごめんよ……その……」


 十代に緊張するなんて俺は馬鹿か。

 しかし、寂しいのは本当だ。家族に会いたいし、新しい友達が出来る予定の大学にだって行きたい。なんでいきなりこんな仕打ちを、なんで俺が。

 サキヤノは視線を泳がせながら、喉に詰まった唾液を飲み込んだ。



 ——そう考えると、異世界って、良くないのか?


 それは違う、違うだろ清斗。

 サキヤノは一人葛藤かっとうし、首を振った。彼女が自分を見下ろしているのも、こうやって手を引いたのも、何もかもが無駄な気がする。

 違う、それも違う。


「どうしたんだろ、もう俺……ヤバい」


 急に色んな感情が込み上げてくる。この気持ちを、どこにぶつけたら良いのだろう。


 雫が岩に弾かれ、不規則なリズムを刻む。耳をますと、虫の鳴き声と金属音も聞こえてくる。

 不意に天窓が開け放たれた。

 視界が一瞬くらむも、すぐに目は慣れた。膝を抱えたサキヤノとゲルトルードの間に光の空洞が出来て、不覚にも美しいと思ってしまう。

 無言だが、ゲルトルードはサキヤノから目を離さない。雫にも光にも、目をくれない。そっと近寄ってきて、サキヤノに体重を預ける。

 ゲルトルードもサキヤノも寂しくて怖いのは変わらないのか。少なくともサキヤノは、少女が寄ってくれたこの瞬間だけは、心が空っぽになった。


 ——ええと、なんとかルードちゃん。

 名前が難しかったけど覚えておくべきだった。俺は失礼な奴だ。


 この世界または夢のこと、これからの自分の行き先など考えることはたくさんあったが、サキヤノは疲れていたのかすぐに眠ってしまった。





*****





 おそらく翌日、凍えるような寒さで目を覚ました。


「さっ……む!」


 二の腕をこすり、冷えた地面から起き上がると体の節々が痛んだ。今までは柔らかなベッドで寝ていたのに、突然安定しない硬いところで寝たら、当然と言えば当然なのだが。

 鼻をすすり、隣を見るとゲルトルードはいない。


「夢、じゃないよな」


 なかば言い聞かせるように呟き、上を見上げた。また天窓は閉まっている。薄暗いのは変わらず、朝なのか夜なのか分からないが、寝た満足さ的には朝を迎えている気がした。

 サキヤノはゆっくりと立ち、昨日までは見えなかった格子の向こう側を眺めた。洞窟の中なのは確かだが、太陽の明かりらしき光が漏れている。

 手を伸ばせば届きそうで、でも届かない外。何も出来ない自分に悲しくなって、壊れた椅子の横で膝を抱える。寒さと痛み、惨めさと寂しさに包まれて身を縮めた。

 しばらくして、コツコツと足音が聞こえてきた。母がよくいているヒールの音に近い。

 み付いた恐怖で、サキヤノは座ったまま後ろに退がり、硬い岩肌に背中を預けた。視線は檻の先に向け、伸びる影を息を殺して見つめた。


「やっと起きたわね、異界人」


 カツ、と一際高い音を鳴らして、女性が格子の前に現れた。腕を組んだ女の顔は、光に反射して見えない。


「気分はどう?」


 癖っ毛の黒髪をすくい上げ、自信ありげに話す女の声。

 女は灰色のケープを羽織り、露出の多い脚をベルトで覆っていた。今まで見てきた人の中で一番自分の着ている服に近く、違和感や恐怖は薄れたが、サキヤノは答えられず唇を硬く結んだ。


 今の状況で分かる。

 この女は自分を捕まえた奴らの仲間だろう。


「あの街にいたからかしら、貴方警戒心が薄いのね。その特徴的な髪は仕方ないけど、服を変えないなんて……それに無抵抗だったなんて傑作けっさくだわ」


 くくく、と不愉快な笑い声を漏らし、女はおもむろに格子に手を伸ばした。


「な、なに、するんですか……!」


 ようやく身体が命令を聞き、サキヤノは岩肌に沿って立ち上がった。「座ったままでは逃げられない」という本能が働いたのか、身体と頭が真逆の動きをしている。

 口から出たわずかな抗言こうげんも、自分で驚いてしまう。人に強く意見を言えなかった自分が、まさかこの場で睨むなんて、どうかしている。

 女は「もう」と口をとがらせると、格子の扉を開けた。


「……えっ」


「なにって、この通り出してあげるのよ。感謝なさい」


 鈍い音を立てて開いた扉、途端に穏やかに聞こえる女の声——サキヤノは呆然と立ち尽くし、絶句した。

 あからさまに戸惑っていると、女は細い身体を滑り込ませ檻の中に入った。顔に反射していた光が消え、化粧をした女の表情が露わになる。


 「さっ、出るのよ異界人」女は片側の口角を上げ、器用に笑った。「今動かなきゃ、貴方飢え死にするわよ」


 サキヤノは怪しいと思いながらも、微かな希望を信じて震える足でゆっくり女に近付いた。

 本当に出られるのだろうか。

 この女は、信じて良いのだろうか。

 サキヤノは女の手前で立ち止まり、相手を見上げた。サキヤノより背が高くスタイルの良い女の顔には、胡散臭うさんくさい笑みが貼り付いている。まるで馬鹿にしているような、不愉快な笑顔だ。


「っ、やっぱり……出ま、せん」


 ——ああ、やっぱり。

 安全の確認のために言ったが、女の顔が分かりやすく歪み、腰が引けた。


「そう、ならもう良いわ」


 素人なのに空気が変わったのに気付けた……いや、気付いた。それほどまでに女からかもし出される雰囲気が冷たいのだ。

 緊張と不安で奥歯が鳴るも、座り込まないように耐える。

 笑みが消え、無表情になった女の手がサキヤノの頭に伸びる。驚きで肩を揺らした時には、女の手はもうサキヤノの頭上にあった。


「っあ、いった……!」


 突如脈打った痛みに、思わず目を閉じた。

 女の指が、ピンポイントにサキヤノの怪我に触れる。

 痛がるサキヤノを気にも留めず、女は怪我の上から髪を引っ張った。強くなる指圧に負け、サキヤノは女の指を掴んだ。


「離せ……!っうう、この……!」


 締め付けられ、じわじわと涙が滲んでくる。おまけに髪を引っ張って檻の外に出すものだから、足が格子や地面に当たって痛む。


「い、痛いって!うぐっ!」


「うっさいわねえ、だから異界人は嫌なのよ」


 女はサキヤノをって檻の外に出ると、そのまま地面に投げ飛ばした。掌から地面に接触し、サキヤノは短い悲鳴を上げてしまう。

 

「もう、こいつ!」


 女がヒステリックに叫んだ瞬間、脇腹に熱い衝撃が広がる。次に腕、背中、大腿部だいたいぶと痛みが走り、サキヤノは叫んだり暴れたりと抵抗しようとする気力を失った。無様ぶざまに地面に転がり、ひたすら耐えたサキヤノの背を女はヒールで踏みつけた。


「あっ……!!」


「顔はやめてあげたわ、大事な商品だものね。あとは折れてても関係ない……抵抗した貴方が悪いんだからね」


 まるで自分に言い聞かせるように女は呟き、足を退けた。

 サキヤノは吐きそうなくらい回る頭と、蹴られた痛みに身体を曲げた。


 暴力を振るわれたのは、小学校以来だ。

 いつも自分を見下していて、何もかもを押し付けてきたアイツ。ムカつくアイツと、最初で最後の殴り合いの喧嘩をした時の怪我と同じくらいの痛み。


 少し大人になったからだろうか。あの時よりも身体が窮屈で重い。

 手首に手錠に似た金属が付けられた。女はぶつぶつと呟きながら、サキヤノを洞窟の外まで引っ張り出した。

 突如明るいところに出たからか、サキヤノの視界が揺らぐ。しばらくして慣れた目前に広がっていたのは、ここに来て二度目の断崖だんがいだった。

 太陽が木々の境界を抜け、その巨躯きょくの三分の一だけ覗かせている。空は仄暗ほのぐらく、朝と呼ぶのはまだ早いようだ。場違いな気持ちを言葉にしようとしたが、白い吐息と共に出たのに呻き声だった。

 普通だったらきっと、この絶景に感動するだろう。普通ではない今の状況だから「すごい」、「美しい」なんて、言葉には出来ても心の底からは考えられなかった。

 ——時に。痛過ぎると声が出ないっていうのも本当らしい。今はお飾りの言葉が出なかったから良いと言えば良いのだが、これが他人に助けを求める場合だと、非常に厳しい状況におちいるかもしれない。


「よっ、と……ああもう、なんでアタシが力仕事なんか……もう!」


 文句を言いながら、女はサキヤノを運ぼうとする。実際には脇下に手を入れ、ずるずるとっているのだが、もちろんサキヤノに抵抗する気力はない。

 もう痛い思いはしたくない。

 躊躇ためらいなく自分を蹴った女に、サキヤノは暴力という恐怖が植え付けられた。この先、異世界もとい夢では、逆らえば暴力しか待っていないようにも思えてしまう。


 ふとサキヤノの正面に小柄なシルエットが浮かび上がった。いつのまに立っていたのだろう、その影は朝焼けに照らされているが、誰なのかはっきり分かった。


「サキヤノ、さん」


 口元を覆い、鈴を転がすようなか細い声で——ゲルトルードは、サキヤノを凝視ぎょうししていた。

 女はサキヤノを床に下ろし、ゲルトルードを見て、気怠けだるげに顎を引いた。


「あら、やっと戻ってきたのね。さっさっとこっちに来なさいな」


 ゲルトルードを手招きし、ケープの紐を結び直すと


「貴方は抵抗しないわよね?知ってるから、早く乗って」


 そう言って再度顎を引いた。

 ゲルトルードは「今行きます、ごめんなさいバネッサさん」と呟いて女に近付く。

 あどけない表情に浮かんだ、あわれみの感情は自分に向けたままだ。この子は一体何を考えているのだろう。可哀想、と思っているのか。

 サキヤノはかわいた口を動かして、なんとか微笑んだ。


「俺、自分で歩きますから……」


 少女に笑みを返しながら、サキヤノは勇気を振り絞ってバネッサと呼ばれた女を見上げた。バネッサが短髪の隙間から見下ろす鋭い目に威圧されて、すぐに視線を落としてしまう。

 掌に苔生こけむした地面を感じながら、バネッサの返事を待つ。

 その返答は思ったより早く返ってきた。


「そう、貴方歩けるのね。分かったわ、その怪我で歩けるのなら……あの絨毯じゅうたんまで来なさい」


 早口で喋ると、バネッサは駆け出して崖を飛び降りた。

 女の滑らかな動作に目が行ったが、サキヤノの頬はひくりと痙攣する。


「またかよ……」


 「歩けますか、サキヤノさん」不安そうに胸に手を当て、ゲルトルードは薄らと笑った。「辛いでしょうけど、あと少しです。頑張りましょう」


 ——頑張った先には崖と暗い未来しかなさそうだけれど。

 サキヤノは黙って両手首に掛けられた手錠を見た。

 いわば誘拐。王道だとこのまま売られて奴隷になる、もしくは主人に気に入られて安寧の道を進むか。


 どちらにしろ、しばらくの間は自由を奪われるだろう。あんな場所に自分を送ったローノラと、自分を放置したギフトに、八つ当たりと知りながらもふつふつと怒りが湧き上がる。

 蹴られた箇所に力を加えると痛んだため、サキヤノは片足で踏ん張ろうと身体を起こした。


「いっっ、てぇ……!」


 息を上げながらも立つことには成功し、片足重心で呼吸を整える。隣のか弱い少女に「あの、私の肩使ってくださいな」と、さり気ない優しさを提供していただき、サキヤノはなんとか進むことが出来た。


「大丈夫ですか、サキヤノさん」


「大丈夫……って言えたら良いんだけど。でも思ったより身体が動いて助かった、少しでも運動してると違うのかもな。運動は嫌々でやっていても、損はないのかもしれないよ」


 自分でも驚くほど饒舌じょうぜつである。

 クスクスと少女は笑いをこぼすと、肩に置いたサキヤノの手をそっと包んだ。


「大丈夫ですよ、私達はきっと助かります。怖がらないでください」


「いやっ、怖がってるわけじゃ」


「良いの、無理なさらないで」


 少し駆け足になった少女に歩幅を合わせ、崖からギリギリの位置で停止する。

 強風にあおられ、一歩踏み外せば落下する場所にいると言うのに、ゲルトルードはひるむことなく真下の絨毯を見下ろした。

 また落ちるのか、とサキヤノは文字通り天をあおいだ。恐怖体験はまだ終わらないらしい。


「平気ですか?」


「俺はこないだ経験したから、君は大丈夫?」



 「君って」ゲルトルードは苦笑しながら、宙に一歩踏み出した。「気軽に、ゲルトルードと呼んでください」



 ——ああ、今逃げれば良かったかな。

 考えるのも時すでに遅く、浮遊感を全身で感じた時には、俺とゲルトルードは小さな落下地点に降下していった。





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