ドアノブとモラトリアム
JACK
ドアノブを、回せ。
まずはひとつ、
説明しておかなければいけないことがある。
僕はドアノブに触れられない。
鉄アレルギーだとか、そういうのではない。
だから正しくは、触れられないってワケじゃあなくて、無闇に触れてはいけない。
かなり回りくどい表現をしたが、一言で説明してしまうと、
僕がドアを開けると、時代を越えて別の場所に繋がってしまうのだ。
だから、無闇に扉を開けられない。
ある時は革命期のフランスに。
ある時は石器時代のイベリアに。
ある時は南京事件の日の中国に。
扉を開くその
ただし、何度も試してわかったのだが、
こんな不思議なことが起きるのは、僕の部屋の扉だけだ。
他のどの扉を開けたって、どこでもドアとタイムマシンのいいとこ取りみたいな機能を体験できた試しは、一度だってない。
だから、更に加筆修正するのであれば、
僕が自室のドアを開けると、時代を越えて別の場所に繋がってしまう。
というのが正しい。
初めてその異常を体験したのは、中学二年生の夏だった。
いつものように扉を開くと、扉の向こうにあったのは歩き慣れた廊下ではなく、灰と砂利、焼けた民家、焚き火に本を投げ込む軍服を着た男達の光景が広がっていた。
最初はおかしな夢でも見ているものだと思ったが、
足の裏に触れた小石のリアルな感覚に、咄嗟に扉を閉めた。
何度扉を開こうと、
何度扉を閉めようと、
景色が変わるだけで、廊下は一向に帰ってこなかった。
いつもなら起きてくる朝食の時間に、母親が二階から降りてこない僕を心配して外から扉を開けてくれなければ、どうなっていたかわからなかったな。
その日から僕は呪われてしまった。
試行錯誤の末、ドアノブに直接接触を避け、
タオルケットなどを挟むことで異常を回避できることに気がついた。
なんとか生活はできているが、未だ異常の解明には至っていない。
映像を撮ろうとしたり、部屋に人を招いたりすると、
どうしてだか異常は起きなくなってしまうので、誰にも証明できない。
当然のことではあったが、
前例や解決策なんてのもネットや本にも載っていない。
最初は不気味で不可解だったが、しばらくして高校生になり、
モラトリアムに揉まれる自問自答の毎日を送るにつれて、
このおかしなドアノブに――――、
いいや、この異常そのものに、どこか愛しさを感じ始めた。
非日常は、疲れた心に一時の刺激を与える。
アニメ、ゲーム、映画、小説。
ジェットコースター、お化け屋敷、
バンジージャンプ、スカイダイビング。
現実から離れられるものは娯楽とカテゴライズされ、
心酔することは、世間から悪いことだと言われる。
だが、用法用量さえ守れば薬になる。
僕は幼い頃から、いつも誰かの創作物の虜で、
現実を意識の端に追いやってくれるものが好きだった。
そして、今の僕のとっておきがこの扉だ。
辛い時。
泣きたい時。
家に居たくない時。
気分転換したい時。
溜め息が出る時。
そんな時、ドアノブを回す。
僕はいつの間にか、
あちらの世界を『向こう側』と呼び、
行き来をするようになっていた。
『向こう側』は、
僕の渇きを潤してくれる。
ロマン溢れるカリブ海の海賊船と雄々しい荒波に心踊り、
殺人鬼の住む産業革命期の英国の汚れた空気に興奮した。
そのうち、僕は毎週の土曜には必ず、
友達の家に出掛けてくると適当な言い訳をして、
昼夜を問わず『向こう側』に行くようになった。
高校三年生の土日といえば、
課題や大学入試の勉強なんかで
潰れてしまってもおかしくはないのだろうが、
僕は例外で、扉に夢中になっていた。
将来の夢や、希望の就職先、
やりたいことが決まっているのなら、
それに進む勉強をしただろう。
高い資質を持った分野があれば、
それを練習していただろう。
しかし僕は恥ずかしながら、
全てにおいて常に平均点かそれ以下で、
辛いことがあればすぐ『向こう側』に逃げてきた。
僕にとって進路希望調査書は、
人生のラスボスのように思えた。
母親に諭されようと、
教師に催促されようと、
職業名を書くはずの空欄には、
消しゴムの跡だけが増えていく。
才能なし。
適正なし。
特筆点なし。
そんな僕は今日も、
課題を投げ、鉛筆を置き、
大切な時間をかなぐり捨て、
『向こう側』へ足を踏み入れていた。
今日の扉は、どこかの民家に繋がった。
青天井で、壁は壁であると認識できない程度に崩れ、そこから見える昼の街には瓦礫と
飽和する
僕は以前にもこの空気を吸ったことがある気がしたので、もう一度ゆっくり息を吸って、いつの時代だったか思い出そうとした、その時だった。
直後に、連続した破裂音が一帯を支配した。
それを皮切りに次は小刻みな地揺れと、重たい爆発音が続き、何度かそれを繰り返した。 耳に居座った残響が去った後に周囲を見回すと、街は何事もなかったかのように、静寂の顔をしてみせた。
この空気も、あの銃声も、やはり初めてではない。
前に『向こう側』に来た時、第一次世界大戦中の西部戦線の塹壕に建てられた即席の小屋に繋がり、足を踏み入れたことがあった。 火薬を雪で濡らさないための小屋なのだろうが、壁には隙間があり、防寒設備もなかったので、寒くてすぐに元の部屋に帰った。 だが、本物の銃声を聞くにはベストスポットだった。
どこかの時代もわからない紛争地帯に繋がったこともある。 扉を開けてすぐ、目の前を褐色肌の武装した少年兵達が、100メートル走に挑む速さで走り回っていて、あの時もすぐに元の部屋に帰った。
あの時と同じ空気が、
この街には漂っている。
あの時と同じ銃声が、
この街には轟いている。
「その服、まさか、ドイツ人じゃあねえよな」
あまりに突然の声かけに、
僕は壁に背を強くぶつけて辺りを見回した。
崩壊した部屋の中にあるものは、
天井だったはずの瓦礫と、粉々の家具、
雨が降って溜まった泥くらいだ。
「学ランだよなそれ、高校生か?
これまで『向こう側』を探索していた時、
何度か現地民に声をかけられたことがある。
賊や警官に追われる事こそなかったが、
街を歩くとほぼ必ず、サーカス団を見るような目で見られた。
そりゃあそうだ、当然だ。
黒の学制服、下に白いパーカー、
二足セットで安売りしていた無名のスニーカー。
どの時代に行ったって注目を浴びる。
扉の繋がる先がいつもランダムである限り、
これはどうしようもない問題であった。
部屋の隅で
カーテンの裏で立っていたのは、黒のスーツを着込んだ、長身でオールバックの男だった。 齢はおよそ三十路半ばほどで、明らかに日本人の顔立ちをしていた。
「何が目的かはわからないが、ここは危ない。 元の時代に帰ったほうがいいぜ」
「……元の時代? もしかして、貴方も扉を越えてここへ?」
僕はいつからか『向こう側』に行ける異常を持つのは、
自分だけなのだと、思い込んでいた。
しかし、彼の存在がその偏見を粉々にした。
綺麗な正装と、その言動。
確実に『こちら側』の人間だ。
彼は驚いた様子もなく、話を続ける。
「もしかして、こっちの世界で現代人と会うのは初めてかい。 ごめんごめん、結構珍しいけど、稀にこういうことあるんだよ」
彼はスーツの内側から四角のアルミケースを取り出して、
「
名刺を丁寧に渡してきた。
辺りの情景と霧山さんの姿があまりにミスマッチで、
心の動揺は一向に止まらなかった。
「
「いいよ、気にしなくて。 その代わり、名前の漢字を教えてくれるかな」
霧山さんはそう言って、
胸のポケットから、手帳と銀装飾のペンを取り出した。
漢字を教えると小さく礼を言って、他にも何か書いていく。
その間に名刺に目を通すと、会社の名前が記載されていた。
有名なゴシップ誌を出している出版社だ。
あまりゴシップに興味はないが、その雑誌の名前だけなら、夜の都市伝説特集をしていたテレビ番組で何度も名前を聞いたことがあった。
「週間ムーンライト、知ってる?」
「すいません、読んだことは」
「オーケーオーケー。 人類は80億人もいるんだ、一人くらい読んでなくても当然さ。 俺は今、その雑誌のためにネタ集めをやってるんだ。 いつも2、3ページの人気コーナーのためにね 」
霧山はダンディな顎ひげを触って、そう言う。
「照史君はさ、今、高校何年生?」
「三年生です、来年には卒業します」
「わあ、一番多忙な時期なワケだ」
ああ、やっぱり。
本当の高校三年生はきっと多忙なんだ。
土日に別の時代に遊びには行かないんだ。
「ゴシップ誌ってさ、今を煌めく芸能人やらの
これを見てくれ、と手帳の一面をこちらに向けてきた。
「これは1773年、ボストン茶会事件の時のメモ書き。 こっちは1769年の蒸気機関発明の場にいた時の。 こっちは、どうやって黒死病が終息したのかについて。 百聞は一見にしかずだからね、その時代に行って、真実を収集するんだ。 でもカメラやスマホはなぜかこっちには持ってこれないからね、証拠を少しでも残すために手書きするしかないんだよ。 そのせいで、いつも俺の記事は妄想だなんだって叩かれて炎上するんだけどな、ははは」
霧山さんの取材手帳には、
余白の枠までびっしりと文字が書き込まれていた。
もしも彼が『向こう側』の世界で暴力に巻き込まれることでもあれば、
あの手帳はタイムトラベラーの忘れ物のように扱われてしまうだろう。
またはヴォイニッチ手稿のように
不可解なものとして継承されるかのどちらかだろう。
ああ、もしかして、僕はヴォイニッチ手稿の謎を解いてしまったかもしれない。
「それで、今度はこの時代さ」
「ここって、いつの時代のどこなんですか」
「WW2の渦中、ドイツだよ。 そう聞くってことは、まだ扉の接続先を選択できるほど慣れてはいないみたいだな。 わかっててここに来たのかと」
思ったよ、と彼が言い切る前に、
何の前触れもなく突如として足元が強く揺れた。
床の木材が軋みに驚く僕を、霧山さんが部屋の隅に引っ張る。
「やべえ、もう来るぞ、絶対声を出すなよ」
彼はボロボロのカーテンを両手で高くあげて壁のフックに引っ掛けた。
カーテンの裏は埃臭く、気を抜くと咳こんでしまいそうになる。
揺れが止まったかと思った途端、床下から電子音が鳴った。
次にガスが一斉に漏れるような排出音。
そして床の中心がゆっくりと、両開きの蓋のように開いていく。
カーテンの穴からでは見えづらいが、分厚い鉄の蓋の下には青白いランプが点灯しており、コンクリートと鉄パイプで出来た地下通路の存在が見てとれる。
どうやら、これは防空壕のようだ。
しばらくして、彼等は蓋の壕の中から現れた。
鉤十字を腕章に貼り付けた軍服の兵隊が三人。
丸いヘルメットと重装備に身を包み、周囲を見回している。
最後に、私服を身にまとって帽子を目深にかぶった男がゆっくりとでてきた。
男は武装兵にハンドサインをして、崩れた壁の隙間から民家を出ていった。
その後に勝手に蓋が閉まりはじめ、数分経ってすっかり周囲が静かになったのを見計らって、霧山さんはカーテンの裏でどっしりと座り込んだ。
「危なかったなあ、ははは。 やっぱ、身長が低いなんて話は嘘っぱちだったな」
「今の人たちは?」
「ヒトラーさ。 アドルフ・ヒトラーと、その親衛隊」
ドイツ第三帝国総統、アドルフ・ヒトラー。
新紙幣の肖像画に選ばれた人物より、ずっと有名な存在だ。
「ヒトラーの最後を知ってるかい。 彼は戦況悪化に苦悩し、遂には総統地下壕で自殺したと言われている。 それが、この時代でいうと三時間前の出来事。 どーゆー意味かわかる?」
「ヒトラーはまだ生きてる?」
「そゆこと。 俺はここ一ヶ月、ずっとナチスについて特集して、ついにこの民家に辿り着いた。 ヒトラーは影武者の死体で自殺を演出して、隠し通路を利用して逃亡、その後は隠居生活を送っていた。 これが事実だったってワケだ」
手帳をペラペラとめくりながら、霧山さんは語り続ける。
「そりゃそうだ、そりゃあそうなんだよ。 歴史上、ヒトラーの自殺した遺体はすぐに火葬されたと言われている。 そんなこと、するか? あんなにも国民が熱狂的になるほど洗脳してきた、カルトの教祖のような男を? しないだろうな、例え生前の最後の頼みでも渋るだろ。 彼らは、総統生存の証拠を残さないためにあんなことをしたんだ」
「すいません、僕には、学がないのでよくわかりません」
「大切なことは、現代に言い伝えられた歴史にゃ、正しくないこともあるってことさ」
霧山さんはカーテンをフックから外して、地下への蓋がある場所に立つ。
「歴史ってのは、金持ちや権力者みたいなお偉いさんに選択され、淘汰され、加工され、制御され、付け足され、切り抜かれ、縁取られ、掻い摘まれ、そして継承される。 修正されるんだ。 俺はそれを真実と呼ぶべきではないと思う。 だから、扉を利用して、雑誌を介して真実を伝えるようにしてるんだ」
「僕も、いくつもの時代を見聞きして、教科書に違和感を持ったことがありました」
「それと……、扉が繋がる先の時代には、とある法則がある。 それは大きな修正が起きた時代に繋がるってことだ。 これまでも何度か、あちらとこちらを行き来する人に会ってきたが、誰に聞いてもこれは共通項だった。 扉の現象の解明はできないが、俺達が、現代に真実を伝える役目を与えられた存在であることは確かなんだよ。 俺は、そう思うね」
役目を与えられた存在。
それを聞いた瞬間、
僕の心に帯びていた暗い霧が、
無垢な突風に吹き飛ばされたのを感じた。
僕たちにしか、できないこと。
適当に進学を考えていただけの僕は、その瞬間に死んだ。
「霧山さん、
現代に帰った僕がまず最初にしたのは、
進路希望調査書を書くことだった。
母親に諭されようと、教師に催促されようと、
消しゴムの跡だけが増えていた空欄は、ものの数秒で埋まった。
『ライター』。
「おう、照史。 例のジャンヌ・ダルクの記事どうなった」
「すいません、まだです!」
「おいおいしっかりしてくれよ、ドヤされんのは俺なんだから。 事業部長にあんなタンカ切っといて、出来ませんでしたじゃあすまねえからなあ。 締切間に合わなかったら、オメーも火炙りだかんな」
「どうしても気になることがあって」
「おうおう、俺の機嫌より気になることがあるとはすげえ余裕じゃあねえか。 なんだよ話してみろ」
「……あの扉の『向こう側』は、過去の時代に繋がるんですよね? あれって、未来に繋がることはないのかなって思いまして」
「どうなんだろうなあ、わかんねえってのが素直なところだ。 でもよ、未来なんて行けなくてもいいと思うぜ、未確定だからいいんだよ。 そうじゃなきゃ、未来の常識が真実が塗り替わることを期待しているオレたちは、仕事を奪われちまう。 だから、このままでもいいんだ。 扉っつーのは、なにも壁に張り付いてるモンだけじゃねえ。 お前はあの日に自分のやりたいことを見つけて、こうしてライターになってる。 扉にゃ、目で見えねえモンもあるってことだろうよ」
霧山さんは、ダンディなあごひげを触って格好つけた。
きっと、人が自分を発見するきっかけなんて、
実はなんだっていいんだろうな。
僕にとってのきっかけは、ドアノブを回すという超常だった。
でもそれは、人によっては天賦の才であったり、
親や先生に指差された先の進路であったり、
趣味を極めた上で蓄積されていった知識の応用であったり、
ガムの包み紙に書いてあった企業の名前だったりするってことだ。
この事実は僕にとって、
中学二年生の夏にドアノブを回して、
初めて別の時代に繋がった時と、
ダブルチーズバーガーを二つ買って合体させれば、
四段チーズバーガーになることに気が付いた時。
それに並ぶくらいに、大きな発見だった。
ドアノブとモラトリアム JACK @jackkingslave
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