ねえさん

白河夜船

ねえさん

 ねえさん。

 故郷をおとなう度、貴方のことを思い出します。貴方はとても優しくて、内気な私が一人寂しくしてる時、いつも遊んでくれました。隠れて泣いている時は、きっと見つけて、慰めてくれて。子供心にそれがとても嬉しかった。

 ねえさん。私は、ねえさんが大好きでした。本当に、本当に、大好きでした。

 だのに、すみません。私は貴方の名前すら知らないのです。あまり素直に、ねえさん、ねえさん、と呼んでいたからでしょう。貴方にそれ以外の名があることを、全く考えもしなかった。当時の私にとって、母さんが「かあさん」以外の何者でもなかったように、ねえさんは「ねえさん」以外の何者でもなかったのです。

 長じるに従い、母さんには藤村和子という立派な名前があると知りました。父の単身赴任が済んで、私と母が都会へ戻るのが、もう少しだけ遅かったなら……ねえさんの名前を、聞き覚える機会もあったのかもしれません。

 いや。

 無理、だったのでしょうか。

 ねえさん。優しいねえさん。綺麗なねえさん。

 貴方と過ごした時間は、幼時の、ほんの一時でしたけど、何となく分かっています。だって、貴方と遊んでいる時は、不思議なことばかり起きましたから。

 河童、化け狸、空飛ぶ金魚、火の玉を見たこともありましたっけ。

 一際印象に残っているのは、影絵です。

「ほら、ご覧」

 貴方が悪戯っぽくそう言って、桜の下に白い腕を差し込みますと、薄紅色を含んだような花枝の影絵がくっきりと、貴方の肌に。

 ねえさん、貴方は暫くじっとして、それから腕を引きました。その時にはもう、桜の影絵は貴方の腕に灼き付いていて、私は何だか一個の素晴らしい陶製の芸術を目の当たりにした気分になりました。

「きれいだねえ」

 と私が言ったら、ねえさんは私の腕にも同じように影絵を写してくれて―――ああ、悲しいことは何にもなくて、倖せな、楽しい記憶なんですけれど、思い出すと、目頭が熱くなります。

 影の墨は溶けやすい。

 ねえさん、そう言いましたね。確かに、その通りでした。風呂に入ったら、腕に写った桜の影絵は綺麗さっぱり流れてしまって、何の跡も残らなかった。

 入れ墨のように消えないのは流石に困りますけれど、痣か黒子みたいな染みくらいなら、残ってくれても良かったと思っています。思い出の品がわりに。

 ねえさん。

 優しいねえさん。

 綺麗なねえさん。

 不思議なねえさん。

 貴方はきっと、いえ、言葉にするのは、野暮ですね。いずれにせよ、私はねえさんのことが大好きです。

 もう、会うことは叶わないと知っています。あれから何度故郷を訪ねても、貴方の影すら見つからなかった。でも、いらっしゃるのは分かるんです。私が貴方を見つけられなくなっただけ。


 手紙なら、と期待して、この文章を認めています。どこか昔馴染みの場所に置いたなら、ねえさん、気付いてくれるでしょうか。


 何の返事も要りません。


 ただ、読んでくれたら、それだけで。

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ねえさん 白河夜船 @sirakawayohune

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