第2話
赤茶のビロードが張られた椅子はフィオリアには少し大きいものだが、こうして体を預けるように深く座るとその重厚さをもって沈み込みの良い場になる。
目頭を解したせいか、些か眠気も出てきた。
そこへ扉を控えめに叩く音が鳴ると、フィオリアの返事を待たずに入室してきた扉の音が聞こえた。
日頃の鍛錬の賜物か足音もせず近付いてくる気配がある。
それで誰が来たか分かったフィオリアは目を瞑ったまま入室者に声を掛ける。
今のフィオリアは椅子を扉側から反対に向けているため、例え目を開けていたとしてもその姿は見えなかったのだが、敢えて見るまでもない相手だと確信していた。
「……近衛騎士長も暇なんだな」
「いいえ。ただ宰相殿を困らせる女王陛下に酒肴をお持ちしただけです」
「……皮肉か?」
「そう聞こえたなら」
フィオリアの正面に立った気配にゆっくりと瞳を開く。
見上げた先に居たのはフィオリアの幼馴染で現女王付き近衛騎士団長だ。
目の前に差し出されている彼の手に自分の手を重ねる。
この執務机から応接の長椅子までは数歩ではないが、長く歩くわけでもなく誰かが見ているわけでもないが、当たり前の事のように彼は自分をエスコートする。
彼からは幼い頃からフィオリアだけの ”特別 ”を受けてきた。
長椅子の前で久し振りに手袋をしていない直の彼の手が離れたのを少しだけ寂しく思う。
彼はフィオリアを座らせるために長椅子に置かれている多数の背あてを片側に寄せている。
その背中に顔を寄せてみたい気持ちになって、軽く握った手で額を小突く。
(……疲れているな)
用意された場所へ座ると積まれた背あてにもたれる。
そうするとまた眠気が戻ってきそうな気になって、酒の用意をしている男の背中に会話を探す。
「今夜はもう終わりか?」
「陛下がご就寝されるなら」
「……なら寝れんな」
「子どもはとっくに寝る時間ですよ」
その返事に眠気が冴える。
どうしてどいつもこいつも女王にこの態度なのか。
いつまでも自分を子ども扱いしている気がしてならない。
男は用意したグラスなどを乗せた盆を持ってフィオリアの隣に腰を掛ける。
フィオリアが許したわけでも、許可を願うこともなく、それこそエスコートと同じように当たり前の所作で自分の隣に座る。
随分気安い男の名はリード・ロス・グレイセン。
物心が付いた頃には今のように当たり前にいる男。
空気のようにいることが必然で、家族のように寄り添ってきた者だ。
「一杯付き合え」
「……お望みとあらば」
先程の軽口に虫の居所が悪いフィオリアがやや高圧的に彼を誘う。
だが彼の態度は壁はないが、口調に棘を感じて居心地の悪さを感じる。
どうせ毎日深夜に飲酒をすることがあまりよく思ってないのだろう。
子どものように叱られたかったわけではないが、多少の物足りなさを感じ一杯目をぐいと空け二杯目を迫る。
「……そんな飲み方をするものじゃない」
「……お前も結婚を勧めるのか?」
「それも女王としての責務では?」
言われた言葉に思わずカッとなる。
「黙って注げ!」
リードがフィオリアの持つ空のグラスを取り上げる。
「……あまり宰相を困らせるな」
「じゃあどれにしようかなで決めてやる。仕事で、どれでもいいならそれも良かろう」
「……お前が良いなら」
「!」
「我らが女王陛下に従うまでだ」
溜息交じりのリードの言葉が終わるのと同時にリードはフィオリアに襟元を掴まれた。
まだ咲き始めたばかりの瑞々しい薔薇のように美しく整った顔が近付く。
普段は薄い水色の彼女の瞳が、今は怒りで赤みを帯び瞳の中でも花が咲いているかのように見える。
リードが幼い頃から大切に側で見守って来た自分しか知らない愛おしい瞳だ。
けれどその瞳は今もの凄い怒りを持って自分を睨んでいる。
「……いいことを思いついた」
フィオリアはリードを見つめる顔に悪い笑顔を浮かべた。
「どれでもいいならお前でもいいんだな?」
リードは返事をせず黙ってフィオリアを見つめ二人の間に殊更長い沈黙が流れる。
それは今までの二人の過ごした時間を凝縮しているようであり、これから大きく変わろうとしている関係の嵐の前の静けさといった感もあった。
「リード・ロス・グレイセン。お前を我が王配に任命する」
「……我が女王陛下に万栄を」
挑むようにフィオリアから紡がれた言葉にリードは静かにフィオリアの手を自分の襟から外し、その手を離すことなく口づける。
リードの瞳はフィオリアの瞳を瞬くことなく見つめ、服従の意を返す。
フィオリアはリードの忠誠を受け、爪の先程の甘さの欠片もなく二人の婚約の儀はこうして約束された。
ただ静かに見つめ合う二人の視線は固く逸らさず交わり、これからより深く絡む絆を滲ませた。
とりあえずの結婚で夫を任命した女王 碧天 @Aozora-Suo
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